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教師の鈍感さ・ニブさが子どもを殺す~今こそ共感力を取り戻そう!~








悪気があって子どもを傷つけようとか、怒らせよう悲しませたい~などと思っている教師などいないはず。教師であるならば・・・

しかし、現状ではどうであろうか?いまこうしている間にも、実に多くの子どもたちが教師の言動によって傷つけられ、心を痛めていることだろうと思う。

私もかつて、私の何気ない一言、ちょっとした行動(こう思っていた事自体が慎重さに欠けていた)で生徒たちを傷つけてしまったことがある。情けないことに、これらはすべて後から子どもたちから教えてもらって気付いたことなのである。

恐らく私が知らないだけで、これら以外の多くの子どもたちを傷つけてきたのだろう。

媚びる訳では決してないが、さまざまなシーンで生徒の気持ちへの配慮だけは心がけてきたつもりであったがこのザマである。

ある女子生徒が香水をつけてきた。その臭いに気付くや否や私が「ちょっとキツくないか?」と言ってしまったのだ。もちろんこれが一対一のシーンであれば指導の一歩として問題はなかったのであろうが、場所は職員室、それも彼女が密かに心を寄せていた(これも後から分かったこと)男子生徒と一緒であったのだ。教科員二人打ち合わのために仲良くせっかく職員室に来たところ、いきなり私のキツい一言!そんな彼女のこころ知らず、彼はさらに追い打ちをかける「ホント キッツいわ!」

彼女にしてみればいきなりのダブルパンチ!普段何気ない会話もできる良好な関係だと高をくくっていた私が甘かった。バカだった。彼女はそれから一週間寝込んで学校に来ることはなかった・・・

ちょっとなんかの言動だけでなく、さまざまな要因が積み重なっていきなり爆発ドカン!!という経験もまたある。

卒業後就職する生徒が多いクラスの担任は、教科指導より生活・生徒指導にその労力のほとんどを持って行かれるというのは本当である。何の問題もないと思われていた(私が勝手に思い込んでいた)女子生徒がいきなり「学校辞めます」と来たのである。「辞めたい」ではなく「言い切り」、そして「決定事項」であったのが何よりも悲しくて切なかった。

手の掛かる生徒に付きっきりのあまり、悩みを抱えている彼女の気持ちに寄り添うことがおろそかになっていたのだ。

比較的クラスカースト制度がゆるく、男女の仲が良いクラスであった。クラスのさまざまな人間関係・情報などを教えてくれる担任秘書のような生徒を数人抱えていたため、自分のクラス経営はうまくいっている~と思っていた。一部はその通りで一部は幻想だった。

いま現在、担任をしている先生はご自分のクラス全体をほぼ把握している~と自信を持って言えるであろうか?自信を持って言える方がもしいたらきっとスーパーマン!現場が日々の雑務がそれを許さない現状で、絶えず変わっていくクラスの全体像を正確に把握し続けるのはとにもかくにも困難である。

子どもたちがクラス内で差別的な人間関係を構成していること、演じたくもない自分を演じ深い孤独感に陥っている生徒がいること、いじめ同様のいじりが横行していること・・・さらに問題はエスカレートしていき、実際にいじめが始まっているのにその存在にすら気付かない、いや気付こうとしない。さらに言うのであれば真実からあえて目を背ける・・・

これは完全に「鈍感」を通り越して「職務放棄」に値する。

私が現役であった頃は未だのどかな時代で、担任以下クラス生徒の電話番号、メールアドレスが緊急連絡網として配布されていた。学校を辞めてからしばらくたって勤めた通信制高校では、生徒に連絡する場合、学校の固定電話以外からのジカ電は厳禁になっていってビックリしたものである。現在ではどうか?生徒とのメールやり取り、LINE禁止を打ち出している自治体もあるくらいであるから、LINE内の人間関係の細部まで把握するのは困難で、教員にそのような範囲までカバーする能力を求めるのは酷であろう。

では、鈍感から抜け出し五感を鋭敏にするためにはどうしたらいいのか?

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クラス内のさまざまなグループ・階層に顔がきき、人望がある子どもが担任と良好な関係であるならば、私のようにクラスの係りとして仕事をしてもらうのもよいだろうが、いつもそのような状況にあるとはとても思えない。

やはり、生徒たちを頼りにするのではなく自分の足と時間を使って稼ぐしかないのである。前に話したように、昼食をあえてクラスで子どもたちと一緒に摂ったり、授業を終えても即、職員室に戻らずクラスに残り生徒との会話の時間を持つ・・・そんな何気ないことの積み重ねがあとあとおおきな力となってくれるのではないだろうか?

また、先述のような失敗から私は、何かを言う前、アクションを起こす前に「これ言ったらどう思うかな?」「これやったらどうなるであろうか?」と自分の中でワンテンポ置いて考えを巡らすようになったのである。

相手の立場、身になって常に考え、自己の言動には慎重さを求め、さらには何があってもなくてもずっと寄り添っていくという「共感力」がいまこそ教師には求められているのだろう。要は一緒に苦楽を共にし、泣いたり笑ったり・・・そんな日々の積み重ねである。

悪気は無くても傷つけられたほうはたまったものではない。それでは、ほとんどの教員が持つその鈍感さはどこから来るのであろうか?私自身も含めて考えてみた。思うに、クラス(聖域なんて言葉で言われていた時代もあった)という外の世界から遮断されたその独特の空間で、他の誰にも邪魔されることなく絶対君主としてあり続け、その非現実性(浮世離れしているということ)、勝手気ままが許されていることから来る甘えが原因ではないだろうか?



時には「鈍感」であることがものすごいパワーを発揮し、おおきな仕事を成す人がいることもまた事実。芸術家などはその最もたるもので、自分の世界に突入すると、まわり・時間など一切合切視野に入らなくなり、ひたすら突き進むだけという。常人とは異なるこれらの人たちにとっては、鈍感力もまた能力なのである。

しかし、教師・学校と鈍感力とは全くを持って相容れない。子どもと接する時であってもそうでない時でも、細心の注意深さと慎重さが求められている仕事である。何しろ子どもの心身の安全を守り続けるのもまた教師の仕事なのだから・・・

これまでは教師の「鈍感さ・ニブさ」も許されてきた。しかし時は今、時代がそれを許さなくなってきている。

学校だけでなく、学校を一歩出た世界でもまた「共感力」が求められる時代であるような気がする。こんな時代だからこそ、私ももっとまわりを見渡して生きていきたい。

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