出欠確認も重要な授業の一部、出欠確認だけでは終わらせない覚悟がだいじ!
毎朝のS・H・R、授業のはじまりの出欠確認・・・クラスをサァ~と見渡して「今日の休みは太郎だけか、それではハイ授業はじめ!」~などのように実に手際よく?カンタンに済ませてしまってはいませんか?
私も教壇に立ったばかりの頃はこの方法でした。でもですね、よく考えてみるとこれらの出欠確認という時間はまたとない絶好のタイミングなのです。何を?って言うと、自分が抱いている生徒の認識・情報を更新する・・・
教師自身も日々、変化し成長しているのでしょうが、当たり前のことですが、こどももまた日々変化を見せているのです。それに気づくか気付かないかは別問題として・・・
なぜ、今日このテーマについて話す気持ちになったのかには訳があります。昨日、私のクラスで学校を辞めていった生徒が私の夢の中に出てきたからなのです。彼女はなんとなんと「私のこと忘れちゃったの?」って訴えかけてきたのです。
その女子生徒のことは「生徒指導、うまくいかない教師が忘れているたった一つの大切なこと~生徒指導の極意、9つの視点~」の最後の方でくわしく話していますので、ここでの深入りはしませんが、要は私が彼女の出していたSOSサインにまったく気付いてやれなかったのです。いや、私が気付こうとしなかったのかもしれません。
当時、「声かけチェックシート」などを使っていたので「自分は漏れなく生徒に話しかけている。教師は公平公正であらねばならない」~などといい気になっていたのでしょう。話しかけているのは上っ面だけであって、彼女の心に響くものではなかったのです。
ただ声をかけるだけではダメなわけ
この反省から、私は以下のことを学びました。
①声掛けはできるだけ多くの子どもにするべきであり、ありとあらゆる機会をチャンスととらえるべき
ただし、状況理解とタイミングは大切
②声掛けの頻度は多ければ多いほど良い(絶えず、情報&認識&状況を更新できる)
③声かけの漏れ、頻度をチェックするためには、「声かけチェックシート」が非常に効果的であることをあらためて認識した
その日に漏れた生徒については、次の日いち早く声掛けすべき。そして必ず偏りが出てくる事実を、どう自分でとらえるかが重要
④声かけの結果、状況、リアクションはフィードバックされなければ、「こえかけ」の威力が半減してしまう
⑤そのためにも、声かけで得られた貴重な情報は克明に記録されなければならない
授業中、ルーム時はまさか丁寧に逐一、言動を詳細にわたって記録などできません。その都度、カンタンにメモ書きしておいて、後から記憶の鮮明なうちに、まとめておくとよいでしょう。
こういった記録は担任であれば、後々指導要録に記入する格好の材料になりますし、教科担任の立場であったなら担任と情報交換するときのタイムリーな情報になり得るのです。
自分のクラスには子どもたちが35~6人、今日授業でいく5つのクラスでは175人(35×5=175人)~合計すると200人以上もの子どもたちの情報を更新するチャンスが毎日先生方にはあるのです。この出欠確認時のチャンスを活かさない手はありません。
出欠確認時の「声かけ」の具体的な方法については、「教師の公平性~特定の生徒とばかり話す罠の怖さ~全体を見渡す!」でも話しましたが、出欠の確認という目的以上に大事なのが、生徒の現在おかれている状況、状態の確認です。
そのために、教師は労を惜しんではならないのです。ほんのわずかな時間で生徒の情報、サインを少しでも引き出すための工夫、演出が必要ということです。前の話で紹介した方法以外にも私は「しりとり」も結構使っていました。忙しい時にテンポよく呼名、状況確認するためには「しりとり」は結構いけます。
生徒→教師→生徒→教師~と最後の呼名、状況確認まで「しりとり」でつないでいくのです。(これがいちばん早く終わります)が、これまた変化を付けるために「今日は歌手名でのしりとりだ!」~なんて色気を出すと後が続かなくなるどころか、そっちに子供が夢中になりルームが一時限まで延びちゃったり、授業がいつまでも始められなくなったりします。
しりとりは後々、教師と生徒の話のきっかけを提供してくれたりと結構使えるのですが、肝心かなめの授業中も積極的にこの「声かけ」を行っていくべきです。
ふだん接点のない生徒への声かけこそが大事
担任、教科担任、部活動、各種委員会、生徒会などの顧問としての生徒への声かけが、普通はほとんどになるかと思います。しかし、この声かけパワーのすごさはこんな狭い範囲で終わるものではありません。
校門指導、校外指導、廊下でスレ違う生徒・・・こういったシーンでは普段接点のまったくない生徒も当然います。実はこういった生徒にこそ、積極的に声かけをしていくべきなのです。ほとんどの学校には「児童生徒アルバム」といった顔写真と名前が載っている便利且つ貴重なものがありますよね。
私のこれまで経験した学校でも個人に支給、貸与される場合と、職員室で閲覧できるのみ~といろいろでしたが、これを活かさない手はありません。
入学前、新学年前に全員の顔と名前を一致させるのは教師であれば、求められる当然の努力ですが、これを接点のないクラス、個人にまでやってしまうのです。全校生徒が2,000人近くにもなる大規模校ではちょっと大変ですが、やってやれないことではありません。
朝の校門指導などで、あいさつと一緒に名前を呼ばれたときの彼らのビックリ顔は病みつきになること請け合いです。「エーッ!何で知ってるんですか?」から会話がはずみますよ。しかし、何でも用心に越したことはありません。
生徒アルバムは新学年新学期、それも担任指導が入った「盛ってない」時期の写真ですので、実際、本人とまったく違ってることもままあるのです。そして、名前を間違える・・・(特に女子)これをやらかした日は結構、あとあとのフォローがたいへんになってきます。
そんな大失敗にもめげず誰にも声をかけるあなたの熱量はいちばん子どもたちが理解してくれますから、心配ご無用!そして校内の子どもたちだけでなく、私は積極的に学校に出入りする業者さん、他校の先生方、父兄(と一緒についてきたちびっこも)にも話しかけてました。
さすがにこういった人たちまでの名前は超能力者でもなんでもないのでわかるはずありませんが、どうも話しかけられる方はいやな気分にはならないようです。実際、この声かけがきっかけとなり私宛の電話が学校にかかってきたことが何度かありました。(ネームタグを付けているので私の名前はバレバレなのですね)
内容としては、「実は担任と子どもがうまくいっていないのですが、相談に乗ってくれませんか?」などのような深刻な内容から、旅行業者さん、印刷屋さん、教材会社さんからの営業TELまでいろいろです。
忙しいのに自分で仕事増やすバカがいるかよ!~という声が聞こえてきそうですが、何でもすべてこの世のなか、「縁」のお陰だと私は思っていますので、こういったチャンスも殺したくはないです。特に学校と言う閉鎖的な職場に長いこといると窒息寸前の時までいくっていうことがあると思います。
学校外の人たちと、たまのあいさつを交わすくらいの余裕は持ちたいものです。
Sponsored Link
子供の承認欲求を満たしてやり、自己存在感を味合わせるのも教師の役目
朝の校門あいさつなどは、自分の当番の時だけ、義務感アリアリで仕方なくやるのではなく、できれば毎日子どもたちの前に立ちたいものです。
教員と言えども人間であり、家庭人でもあり、それぞれみな事情があり環境も異なりますので一概に「立つべきだ!」なんて言うつもりはさらさらありませんが、私の場合あえて自分に鞭打つ覚悟で毎日立っておりました。
生徒もそこのところはキチンと観察しているようで、「先生!毎日当番なの?たいへんだね!」などのように、授業にも入っていない子どもからたまには声をかけられたりしました。これまた接点のない、いかにもトッポイ不良系を演じたい生徒は何度声かけてもあいさつなし・・・
これを「あいさつは!」「聞こえてるのか?」などとやってしまっては何のための挨拶指導か分からなくなってしまいます。指導すべきところはもちろん指導はしますが、こういった場合、とにかく待つべきなのです。2~3ヶ月もすると頭だけは下げるようになり、それからうなずくようになって、そして「ざぁす」が出るようになっていくのですからかわいいものです。
たとえ接点のあまりない人間からであっても、他のだれかが「声をかけてくれる」ということは承認の証であり、「自分を見ていてくれてる、気にかけてくれている」と生徒は思うのでしょう。この気持ちこそが包まれ感、安心感につながっていくのではないでしょうか?
こういった声かけをとことん敷き詰めていった結果、生徒との間に何かしら目には見えない「絆」が結ばれていることを私なりに感じられるようになったのです。ただし、最後に1点付け加えるとするなら、「声かけ」は実際カンタンなようで実に難しく、また奥が深いのです。
分け隔てなく誰にでも声かけをしようとするとき、あいさつ以外にみなさんなら、どのような「言葉」を児童生徒に投げかけますか?たとえば、自分がほとんど接点のない生徒の場合・・・
「今日は暑いね、でもいい天気だね!」
「うちのクラスの子どもらも頑張ってるから、今日の考査がんばってな!」
~などのように差しさわりのない何気ない会話になるかもしれません。または、その子の雰囲気、表情、状況を察して
「ちょっと顔色悪いけど大丈夫か?クラス、3組だったと思うけど担任に話しておく?」
~くらいまでが限度になるでしょう。あまり接触のチャンスのない生徒との会話、声掛けでは深く立ち入った話はあまりすべきではないかもしれません。情報や共有体験、体感がないのに、でしゃばりやしったかぶりはこじれたり、トラブルになった時に自分の仕事を増やすことになるばかりか、彼らを取り巻く人たちをも巻き込むことになるからなのです。
Sponsored Link
そして、自分のクラスの子どもたちの声かけについては、さらに更に慎重かつ計画的に行われるべきであり、生徒の現在の状況に応じたものでなければならないと私は思います。ただ闇雲に声を掛け続ければいいというものではないことは、私の経験が如実に物語っています。
この意味でも、接点のあまりない生徒に声をかけるとき以上、教師としての力量が求められるのです。接触のチャンスがふんだんにある生徒に広く声をかけていこうとするすればするほど、常日頃から絶えず彼らに目配り心配りをして一人ひとりを意識していなければ、投げかけることばなど当たり障りのない言葉に終始してしまうでしょう。
これでは、なんら接点のない子どもたちへの声掛けと変わることはないのです。よって、せっかくの教師の声掛けも彼らのこころにも響かない虚しいものに終わってしまうのです。
声掛けの「ことば一つ」にも、普段からの教師としての「眼差し」が求められるということです。
そして、この教師としてのあたたかな眼差しに加えて、教師として彼らに寄り添っていこう、より良い方向に導いていってやりたい~という熱い気持ちが込められていないといけないことは言うまでもありません。過去の自分を振り返ってみたとき素直にいまそう思うのです。
誰しも、学生時代、教師に「ことば」によって傷つけられた苦い経験だけでなく、思い出しただけであったかくなる宝物のような教師にかけてもらった「ことば」があると思います。そのような「声掛け」してもらった子どもはしあわせですね。
時に、しあわせな「ことば一つ」で人は救われることもあるし、その「ことば一つ」を糧に人生を歩んでいる人もいるのですから・・・
私もまた、自分の使う「ことば」を大事にしていきます。
関 連 記 事
「教師の言葉~前向きで明るい言葉を今、大切にしたい!~ことばを暴力にしないために~」