教師 教師を志す人へ 教育・教師

元教師が思う「やっぱりおかしい教師の世界」~変えていかなければならないこと~

 



民間企業勤務を経て教壇に立ち十数年、そしていまは自営で何とか自活している私が今、あらためて思う「それでもやっぱりおかしい教員の世界」について今日は話したいと思います。教師志望のみなさんが飛び込もうとしている世界、昔はこんな感じでした。果たして、今現在どのような世界になっているのでしょうか?

慣れとは恐ろしいものです。私もなり立てホヤホヤの頃は、なんと摩訶不思議な世界だ~ととにかくビックリの毎日でしたが、時間の経過とともになんとも思わなくなってくるのです。コワいですね。初心を想い出す余裕などないほとんど世界ですが、教師になった暁にはたまには初任の頃を振り返ったり、外の空気にふれたりしてみてください。学校の外では、いろいろな人が生活していて、学校とはまた違った時間が流れていますよ。

今回取り上げるテーマには、違法触法行為や犯罪スレスレ行為を働く者、そして前に紹介した特殊性癖者などについては触れません。今回のテーマとは意味も深刻さもまた異なる次元の問題だからです。以下に挙げる「どこかおかしいじゃありませんか?」はあくまでも私個人の感覚であることをお断りしておきます。みなさんが感じる「?」はどのようなものでしょうか?

反論でも何でも構いませんので(ただし建設的なものでお願いします)、メッセージ・コメントいただければ勉強になります。フリートークも歓迎です。

※ 教師に向いてない人とは?③ 絶対なってはいけない人は、違った意味でこどもが大好きな特殊性癖者

※ 教員の不祥事、酒・クルマ・女・暴力~しくじり先生~だって人間だもの~

①自分のメンツ、プライドが何より優先!

ご存知のように教員はとにかくプライドが高い人が多いです。また、まわりから自分が受けている「評価」が気になって仕方がない人種でもあります。それも子どもたちからの評価ではなく、同僚、管理職からの評価を大事にします。もちろん、全部が全部そんな訳ではありませんが、自分自身のメンツ・プライドを子どもたちの教育的利益よりも優先させている人が多い事実が嘆かわしいのです。教育的ポーズなどの見せかけや、カタチだけ何とか取り繕(つくろ)ったりして切り抜けようとする甘えの蔓延(まんえん)などなど・・・がっかりさせられることがもしかしたらあるかもしれません。

いまこそ、大切なのは変なメンツやうすっぺらなプライドなどではなく、教師として個人が持つべき矜持(きょうじ)なのではないでしょうか?

教科、校種にもよりますが、教員志望者がどんどん減少しているいまこそ、経験あるなしにかかわらず、自分の「柱」となるものを一本、打ち立てるべきでしょう。これさえあれば、何があろうと何が起きようと、ブレない自分でいられるはずです。

くじけそうになった時、辞める寸前までいった時、少なくとも私はこれに幾度となく救われました。

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②おかしな美徳がまかり通っている摩訶不思議な世界!

以前勤めていた民間企業は、残業は規定時間内に業務を終えることのできなかった無能な人がやるもの~ととらえていました。そういう訳ですので、加算給はもちろんつくのですが、個人の判断で残業を決めることはできず、必ず上長(じょうちょう)(直轄上司のことです)と残業時間、内容の取り決めをした上での許可が必要でした。そのうえ、ただのんべんたらりと残業が許されるわけもなく、残業の成果の精査まであったのです。

教員の世界はどうでしょうか?私自身を振り返っても、「残業」「勤務時間」という言葉自体自分の概念にはありませんでした。早朝~深夜まで仕事に没頭しても終えられず、当然毎日持ち帰り残業~おまけに土日が当然休める訳もなく、一週間がつながり連続90日勤務なんてこともしばしばありました。

もちろんこれは私のパフォーマンス、能力上の問題もあったのでしょうが、人並みの処理能力は持ち合わせていたつもりです。

残業当たり前、休まないのはもっと当たり前、遅くまで残っていて休日返上が教員の美徳・・・などと表立っては誰も言いやしませんが、そのような雰囲気がアリアリの不思議な職場でした。(常勤講師1校、教諭で4校、合計5校での経験です。私立非常勤講師の時も大方(おおかた)そのような感じでした。)

そのような世界ですから、いつも早く帰らなければならない事情のある教員などはいつもビクビクしていましたね。帰り支度(したく)を勤務時間中に何度かに分けてやっておいた上、何度かに分けて荷物をクルマに運んでおくのだそうです。そして、手ぶら状態で「お先に失礼します!」などとは言わないで、いつの間にかいなくなっている・・・ホントたいへんですね。

③授業・学級経営・部活動などを評価する指針がまるでなし!

民間であったなら、業務の成果を評価するものさし、ガイドラインが必ずあることでしょう。それなのに学校で一番の要(かなめ)であるはずの授業による教育効果・成果をはかるものが何もないのです。強いてい言えば、教員自ら自分の授業を考査、アンケートなどで振り返り、反省し次にいかしているくらいでしょうか?

私は校種が高校商業でしたので、さすがに各種検定試験、資格試験の合格率が平均よりもかなり悪いと、「いったい何やってんだ?!」と科内で蔑まれたり、上級の検定をさらに受けるような子供が多くいるクラスの授業の担当からはずされるというくらいなものでした。

授業者以外の眼が入ってこないというのは本当におそろしいことだとは思いませんか?私が辞める直前に勤評が導入されましたが、当時はまだまだ甘いポーズだけのものでした。

こういったことを話すと、必ず「教育活動と効率は相いれないもの」「結果がすぐ出るものではない」「評価による弊害の方が大きい」という声があがるのは理解しております。でもですね、授業、クラス、部活動などを一人で抱え込んだ結果、他の目が届かなくなることによる弊害の方が私は大きいと思うのです。

こういった考えに私が至るようになったのも、やはり初任で赴任した学校の学年方針が大きく影響していると思います。副担任はピンチヒッターくらいにしか捉えていなかった私でしたが、学年に入ってみてビックリ!朝の学年打ち合わせ、朝晩のSHRそしてLHR、各種行事など当たり前のように入れてくれたのでした。もちろん学年会計、事務なども任され、しまいにはそれぞれの授業を見せ合うこともしばしば~という切磋琢磨できるなんともぜいたくな環境でした。

こういった学年でしたから、、学年スタッフもお互い気心が知れ、なんでも相談報告し合えるとても恵まれた環境だったのです。その後、数校経験しましたが後にも先にもこのような学校ははじめてでした。しばらく経って自分が学年主任になった時、「授業をお互い見せ合いませんか?」と学年スタッフに提案したときに一様に怪訝な顔をされたのを今でも覚えています。これが普通なのかもしれませんが、何かさびしいですね。

※ 「なぜ教師は自分の悩みを相談するのが苦手なのか?教師の同僚性①~もっと自己解放を!~ 」 

話は変わりますが、高等学校でも年度初めに「年間指導計画」なるものを提出することになっちます。しかし、年納めにちょこちょこっと反省を書き込んでハイ終わり!です。まさに「仕事のための仕事」であり、管理職もろくに見もせず「ハンコポン」です。高校などでは専門性も高く、同じ教科でなければたとえ真剣に見たとしても、分かったような気持ちになるのが関の山ですから仕方もないですね。

ちなみに、この「仕事のための仕事」のために教科内では、持ち回りであらかじめ「担当」を決めておき、その担当者が作成した年間指導計画を教科内みんなで参考にしたりコピーしたりしていました。本来でしたら許されることではないのですが、「仕事のための仕事」に、それでなくとも少ない時間をとられる訳にはいかないのです。みなで考え出した苦肉の策だったのです。

初任の頃は初任研、研究授業などで最初だけある程度は鍛えられるでしょうが、この時期を過ぎてしまえば5年研・10年研などの経験者研修があるくらいで、「後は好きにやってちょうだい」~って感じです。

部活動にしてもそうです。こちらは大会参加による結果、強い、弱いがすべてとして捉えられてしまうむきがあり、地道に活動をリード、アシストしている熱心な教師などはあまり評価されない世界かもしれません。みなさんはこれから、自分のこれらの教育活動をどのように振り返っていくのでしょうか?

学校はこれらの活動に熱心な人よりも、校務分掌をソツなく、効率的にこなしていく「有能」な人が重んぜられるところかもしれません。授業は普通にやって当たり前、それプラス学校全体の分掌にいっぱいいっぱい寄与してくれる人を大切(コキ使われている、いいように使われているとも言い換えられます。私みたいにならないよう注意が必要です。)にするのです。

重宝される人種が出てきましたので付け足しになりますが、生徒指導に長けている者が特に指導困難校では重んじられる向きがあります。私などは十数年間ずっと生徒指導畑を歩って来たためか、自分のクラス、教科以外の子どもたちにも話しかけ、それなりに指導してきました。そのためかえって仕事量が爆上げ状態になり自分で自分の首を締めあげているのは分かってはいましたが、自分の性格上止めるわけにはいきませんでしたね。

この件については、いいように使われたとは思っていません。自分が好きでやっていたわけなのです。難しい問題に立ち向かう生徒指導にこそ教師のダイナミズムを当時は感じていたのでしょう。

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④仕事の優先順位を自分でつけられない困った人たち!

言い換えればこのような人たちは、時間の使い方、時間の大切さを知らない人ということができます。昼間の自分の授業の空き時間なのか、お茶菓子持ち込みで他の分室を訪れ、一時限分まるまる話していき、ヒトの時間を盗んだという意識がまるでないのですから困ったものです。そのくせ、締め切り厳守の仕事などはいつも守られたためしがありません。

たしかにゆとりがないところでいい仕事はできないし、子どもたちにも悪影響を与えてしまいかねない・・・とは思いますがなんでも物事には限度というものがあります。

当時、私は職員室、生徒指導室、商業実践室、進路指導室~と都合4つ机が与えられていたため逃げ場に困ることはありませんでしたが、机が一つしかない先生たちはかわいそうでした。

こういうことやってて「早く帰りたい!」だの「教員は激務だ!」って叫んでもあまり説得力がないと私は思うのですが・・・

どうやら、「いくらシャカリキに働いたってどうせ給与は変わんないのだから、のんべんだらりやろうぜ!」ということなのらしいですが、必要最低限どころか、その最低限さえもできないのでしたら教員失格です。

こういった極端に「困った!」人たち以外にも、要領が悪いのか、一生懸命頑張ってはいるのだけれど遅々として仕事が進まず、いつも忙しそうにしている教師が何処の学校にもいるはずです。こういった人たちこそ、自らの働き方を見直し精査していく必要があるのではないでしょうか?

私も現役時代、デスクワークは嫌いで苦手でしたが、少なくとも優先順位はキッチリカッチリ付けて締め切りだけは厳守していました。これは教員以前に当たり前のことだと思うのですが、なかなか彼らにとっては難しいことのようです。

⑤年長者、管理職が必ずしも敬われるとは限らない、ある意味おそろしい世界!

前に能力がないとみなされ、周りからたたかれ、いじめられ続けた教頭の話をしましたが、まさにこれです。能力がないとみなされれば、いくら歳がいってようと偉かろうが遠慮はありません。これは本当に特殊な世界です。

たとえそうであったとしても、年長者に対する敬いの念も忘れ、人格を貶める行為が教員として、いや人として果たして許されるものなのでしょうか?

同じ教科内であれば、ある程度、年の功は考慮されるのかもしれませんが、いろいろなシーンで年長者が若輩(じゃくはい)に教えを請(こ)う時があります。部活などがいい例ですよね。現役競技者バリバリの正顧問と退職間近の競技未経験副顧問などがそのパターンです。

⑥うわさ、悪口横行のドロドロ、ベタベタ、ジト~の世界!

建設的で前向きな批判であればだれも文句などいいやしませんが、どうしてこうも本人のいない所で悪口を言うのが好きなのでしょうか?これには民間から来た私にはどうしても分からないことでした。あまりにも非生産的すぎますよ。お酒の入るシーンなどでは肴(さかな)にされる先生、生徒の数は大変なものになります。

自分たちを棚に上げて、自分たちだけで気持ちよくなったつもりでいるなんて暗い話ですね。ストレスのたまりまくる激務で憂(う)さの一つも晴らししたくなる気持ちはもちろん分かりますが、こんな姿を父兄、生徒にはみせられません。「すごい!いい話!!」はなかなか伝わってはきませんが、まさに「悪事千里を走る」です。格好のネタの伝わる速度は瞬時!です。本当にコワくて狭い世界でした。

犬社会では上下関係で出来上がっていて、飼い主の家族も順位をつけてとらえているといいますが、教員同士のパワーバランスも微妙ですね。職階上ポジションがあるのは当たり前ですが、学校という社会は家庭、地域社会、全教職員ぜんぶで子供たちをみていく~というのが基本的なスタイルだと思うのですが、どうしてこうも「上か下」かにしたがるのでしょう?

私が思うに自分に自信がないからなのでしょうね。自分のやっていることに誇りと自信があれば、自分を顧みる謙虚さをも持ち合わせているはずなのです。何より自信がある人は、そんなことやっているヒマなどないですよね。私はまったくナルシストなんかではないのですが、ポケットにも入るようなほんとうに小さな手鏡をいつも忍ばせておりました。ピンチに陥った時、余裕のない時・・・いつも手鏡を介して自分と向き合っておりました。生徒、教職員を問わずヘンな顔は見せられませんもの。「顔は口ほどに物を言う!」ですね。

また、私は初任時先輩教師に、自分に対して苦言を呈してくれる人を大事にしなければならない。と教わりました。「悪口」は陰でコソコソあることないことで相手を貶(おとし)めますが、「苦言」は面と向かって相手を持ってこその行為です。

自分をヨイショしてくれる人たちを大事にし、気持ちよくしてくれる者を取り込みたい・・・という心理が理解できなくもありませんが、これからの若い人たちにはこういった自分を挺してまで相手のことを考えてくれる人をこそ大切にしてほしいのです。

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⑦エンドレスワーク!

休日、プライベートのすべてを投げうっても仕事が終わらないのです。これが退職の日まで延々と続くのです。毎日、持ち帰り仕事のバッグをたくさん抱えての帰宅です。そのまま泥のように眠ってしまい、ただ持ち帰っただけになったこと数知れず・・・こんな毎日を過ごしていれば適応できなくなってしまう人も出てきて仕方ないことでしょう。

教師でなければできない事、教師だからこそできる仕事に注力したいというのはわがままなのでしょうか? こういった物言いは失礼なのは重々承知しておりますが、別に教師でなくとも誰にでもできるような雑事に多くの時間を持っていかれるのは本当に辛かったです。

「こんな事やっている暇あったら、もっと生徒との時間に割きたいんだけど・・・」それでもやらなければならない現実・・・

現在では「学校支援員」さんなどが、ITサポート、学校事務などさまざまな職種で現場に入ってきてくれるようになってきました。私の現役時代にはおよそ考えられなかったことではありますが、この制度、果たしてうまくまわっているのでしょうか?

いちばん教師が時間を持っていかれるのは部活動と授業、生徒指導、父兄対応ですので、こういった人たちに自治体が予算を割くくらいなら、もっと教員の数を増やしてほしい~と現場の先生方は思っているのではないでしょうか? そうすれば、もっと余裕をもって教師は教育活動に従事できるようになるでしょう。

また、学校事務をお願いするにしても、こまごまとした作業の方法の伝達の仕方を考えたりするタイムロス等を勘案すると、やっぱり自分でやったほうがいいとかならないのでしょうか?伝達の行き違いなども面倒でしょう。こういったことを考えると、支援員さんにお願いする仕事というものは、ほんとうに限られてくるでしょう。

ましてや、子どもたちと相対する仕事を任されている支援員さんはたいへんです。教育に対する知見も経験も少ないであろうことからくる、子どもたちに関するトラブルが予想されます。このような状況に陥ったら、かえって教師がさらに負担を抱え込むことになるのですから・・・

教育を学んできて経験もある教員免許を持った人が、なかなか講師としても学校に手を差し伸べない時代はさまざまな弊害をもたらしているようです。現場の教師に精神的肉体的タフネスさが要求されるのも当然ですね。

教師の働き方についてこちらでは詳しく話すのは避けますが、私の他の記事でこの件についてはかなり詳しく突っ込んでいますので深入りしたい方はぜひどうぞ。

※ 「教員は5時に帰ってはダメなのか?!残業先生は本当にエラいのか?!」

 

⑧特定の人間だけに仕事の集中砲火を浴びせる非情さ!

できる!早い!確実!と三拍子揃った有能な人に仕事が集中するこの不条理・・・本人は負担がたまったものではありません。一方、いつの間にか学校に来ていて(無断遅刻)、いつの間にかいなくなってしまう(無断早退)ような教員には安心して仕事を頼めないために、管理職も必要最低限の仕事しかつけません。

え、これが本当に通るの?これでいいの?~と最初は驚くことばかりでした。権利ばかり主張し、最低限の義務すら果たさない人たちのこともかんたんに首を切ることはできないのです。みなさんならどちらの道を選びますか?

⑨原価意識のなさ、低さ!

コピー機、印刷機フル稼働、個人的な印刷物もジャンジャン刷り放題、夜間の事務室で文房具ゴッソリ持ち出し、各部屋の照明は付けっぱなしで退室、帰宅などなど・・・時間の使い方もそうでしたが、学校の資産にも無頓着な人が多いのにはびっくりでした。

私が教師になる前に勤務した会社ではいちばんはじめに「常に原価意識を持て!」とアタマとカラダに叩き込まれました。実際そのように動かされたのです。社員一人雇うのに年間、一か月いくらの原価がかかっているかを計算させられ、日々その費用以上の仕事をするように教育されたのです。

学校の資産はなんだって使い放題、無限などと思っているのでしょうか?我々社会人はどこに属そうとも、絶えず原価意識を持ちたいものです。文房具持ち出しなどは立派な犯罪かと思いますが・・・これが通ってしまう世界ってコワくないですか?

最近では給食持ち帰り教員が処分されてコトが大きくなっているようですが、あれは問題のすり替えもいいところです。無責任なコトをあれだけ明け透けに言っていて本人たちは恥ずかしくないのでしょうか?

「捨てるのもったいない!」まではいいと思います。給食担当という立場にありながら、逆にその立場を利用して4年もの長期にわたり学校のものである給食を搾取(さくしゅ)し続けたたわけなのですから、教育公務員としては完全にアウトです。

問題なのは、給食廃棄に関してこれまで何ら対策を取ってこなかった現場の在り方と、その立場を利用して搾取し続けてきた当該教員です。「もったいない」もっともです。持ち帰りたいのであれば、当然所属長の許可が必要でしょう。彼のなかにも「学校のものはオレのもの」じみた意識があったのかもしれません。これも原価意識の低さの成せる業です。

※「学校のモノはオレのモノ?教員は今こそ、原価意識を持て!~給食持ち帰り教諭処分を考える~

⑩新しいことは始められない特殊な世界!

こどもたち、学校のため、前例にない新しい「何か」を始めよう!やろう!とすると大変な労力を必要とし、精神的苦痛に耐えなければなりません。まず、周りの理解を得るのにたいへんです。根回しだけで気が遠くなります。すべて、前年度踏襲(とうしゅう)が基本、原則のおかしな世界です。

またこれは、これまでやってきたことをやめることもできない~とこれまた変なことをもイミするのですからまたまた不思議ですね。

⑪カタチ、見せかけだけの仕事の膨大さ!

例えば、先にも話した「年間指導計画」ですが、これから一年間の教授内容、方法など単元別にビッチリ細かく記入することが要求されますが、やっとこへとへとになって提出しても、返ってきて前と違うところは、ただ一つ。管理職のハンコが押されているということだけなのです。キチンと確認しているかどうか知りたくなり、ずるい私は昨年度のモノとまったく同じものを出してみたのです。(もちろんキチンとしたものは作成はしましたが)これまた、何もなかったように印が押されてかえってきたのでした。空しくなりました。情けなくなりました。仕事のための仕事と言いますか、もっと他のことに時間を使いたいだけなのです。

また、指導主事が各学校を回っていく「学校訪問」もカタチだけの最もたるものでしょう。この日のために管理職はじめ教職員一同が、カタチだけの書類づくり、合わせに翻弄されることになるのです。普段から普通にやっていれば何も問題はないのでしょうが、むずかしいですね。

このほか、調査、研修、報告なども一応やった(ことにしている)カタチだけのものがなんと多いことでしょう。子どもたちのためになることならともかく、こういったことに多くの時間を割かれるのはほんとうにツラく悲しいことです。

⑫半強制の飲み会の多さ!

学年はじめ、忘年会、年度終わり~の「3大大会」くらいでしたら、ちょっとなごめて大歓迎なのですが、教員の世界の飲み会の数、パワーには圧倒されます。公立、私立、通信制~とこれまで数多くの学校にお世話になりましたが、どこもかしこも飲み会の数は半端なく、学校では普通の人の酒の入った場での豹変ぶりには驚かされました。

全体会も数え切れず、小さな学校では一つの行事が終わるたび、ある時は行事の前の壮行会名目での飲み会など何かと理由を付けて飲みたがる人が多いことにビックリ。これに加え、ある学校では宿泊を伴う半強制の飲み会が学期ごとにあるのには面喰いました。

これら全体会以外に、各部、委員会、学年、教科ごとの飲み会がこれでもいか!というくらいありましたね。これに部活動顧問同士(学校内と学校外)、そして個人的な同僚との飲み会などを合わせるとすごい数になったりします。最近では若い人たちだけで集まって飲む~なんてパターンも多いようです。

私がちょっと気になったのは「派閥?」のようなものが出来上がっている学校が多かったことです。新採、異動等で新しい人たちが入ってくると、なんとか自分たちのグループに取り込もうとする活発なアクションが年度初めは恒例行事だったりするのですからげんなりです。

こういった集団も、政治の世界じゃないですが真面目な勉強会みたいなものであったらまだ救われるのですが、その多くはBOSSを中心としたヨイショ会だったり、ただの仲良しクラブ、果てはグチの吐き出し会だったりするのですからなんとも残念です。もちろんまじめな目的でのお付き合いもあるのでしょうが、やっぱりお酒が入ってしまうとどうしても・・・ですね。

このように学校と言う職場は、お酒との付き合いが結構多いです。

お酒の飲めない人はちょっとたいへんな世界かもしれません。今は昔と違って飲めない人を守る向きもありますので、決してお酒に強くなろうと間違っても鍛えたりなどしないでくださいね。お酒の場の雰囲気をみなと一緒に楽しむだけで十分だと思います。そして、時には断る勇気を持つことも大事かと思います。

それにしても飲み会恐るべし!ある学校では、学期ごとの大きな全体会では「出し物」をやることがこれまた前年度踏襲の慣例となっており、幹事となった教員チームは悲惨の極みです。授業の準備よりもこちらが優先されるのですから。ホント、トホホの世界です。

これらは私が経験した学校がたまたまだったのかもしれませんが、みなさんお酒の席、兎にも角にも好きで強いですよ。それだけストレスが溜まる仕事なのですね。ホントお疲れ様です。

~と飲み会のすさまじさだけを話題にしましたが、飲み会にもちろんいいことだってあるのです。私は校種が高校でしたので大規模校から僻地校までお世話になりました。大規模校など教職員数だけで半端ないです。朝の打ち合わせで顔合わせたきり、一日ずっと会わない・・・なんてことざらです。部や教科で接点がない限り一年も話さない・・・なんてこともあるのです。一日学校に張り付いていない非常勤の先生でしたらなおさらです。こういった先生たちと近づくまたとないチャンスですね。

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⑬会議、会議、会議の異常さ!

学年主任をやっていた時は、議案は初めに運営会議に諮られ、まったく同じような内容で職員会議~など無駄と無理がある会議が多かったです。その点、退職後勤めた通信制高校はとにかく効率的でした。

全体会で、どうしても面を合わせなくてはいけない内容だけ「会議」とし、個人個人各自デスクトップPCが貸与されていましたので、メールやグループチャットで大抵の案件は済まされていました。各自の時間を大幅に確実に削ぐ会議は、できれば少ないほうが有難いものです。

⑭学校でしか通用しないだろうと思われる人種の多さ!

人それぞれ個性があり、みなそれなりに変わってはいると思いますが、とにかくレベル、次元の違った変わりようには驚きでした。とにかく変わり者が多いかもしれません。教員の世界しかしらない人が、この特殊な世界にドップリとはまってしまえばそうもなってしまうのかもしれません。

☆彡会議中に写真週刊誌を持ち込み、周りを気にせず自分の世界に入り浸り、読後(鑑賞後)はイビキを書いて熟睡、果ては会議終了後、同僚に起こされる始末

☆彡職会で自分の意見が通らないからと言って、机を蹴って出ていってしまう教員

☆彡平気で子どもたちの前で、他の教員の悪口をこれでもかというくらい並べる怪物(これは、子どもたちの前での講話だったのですが、さすがに私も止めに入りました)

☆彡自分「エライ」、こども「下」の考えしかできない教員

挙げてみて気分が落ち込んできましたのでここらでやめますが、みな実在の人物です。私も人のことを言えたものではありませんが、少なくともこれらのことは決してやるまいという常識と良識だけは持ち続けていたつもりです。そのような人たちでも、死亡ひき逃げ事故でも起こさない限り、普通に生きていけるおかしな不思議な世界だったのです。

物事を一概に決めてかかることは決してできませんが、こういった人たちの多くは、学校を出てまっすぐに教員の世界に飛び込んできた、ある意味幸せな人たちでした。あまりにも外の世界を知らなすぎです。ユルユルのぬるま湯にどっぷりと浸かってしまっているといわゆる平和ボケに陥るのでしょう。

こういったことを話すと、「教員は激務だ!厳しい世界だ!」「おまえは何にもわかっていない!」などのありがたいメッセージが飛んできそうですが、もちろん教職がたいへん過酷な環境下に置かれていることは、十数年私も奉職してきましたので身体でも理解はしております。しかしですね、民間企業→講師→教諭→数十のアルバイト・パート→民間企業→自営・・・と回り道ばかりしてきた私からしますと、明日のごはんの心配をしなくて済んだり、ましてや昇給、果ては老後の安泰まで約束されている境遇は大甘と言わざるを得ないのです。

私は学校を辞めてから自分の足で歩けるようになるまで再び民間で辛酸を舐めつくしました。特に自営になってからは、自分のエサは自分で捕ってこなければ即、飢え死になのですから、そりゃ野良犬もノラなりに必死でしたよ。恥も外聞もなくビジネスを基本から学び直しまし、ひとさまに頭を下げまくって教えを請いました。

元来下手なプライドなど持ち合わせてませんので、私の場合それなりに仕事も楽しめましたが、やはりそれなりに大変さもいっしょですよ。少なくとも「先生様」であった過去の栄光にすがるような人は、それなりではなくて結構ほんとうに苦労するかもしれません。

学校の外の世界では、「先生やってたの、あっそう。」で済まされるレベルですから。それなりに歳を重ねてきた人なら、「何をやってきたか」よりも、「今、何ができるか!?」「どれだけここに貢献できるか?」が問われる厳しい世界です。現在の先生様で学校からから放り出された日から、自分の看板で仕事を取ってこれる人が果たしてどれだけいるでしょう。

上から目線の物言いになっているかもしれませんが、実際そういう人をこれまで幾人とみてきました。まるで実体のない「自信」と勢いでリスタートを切ってしまった結果、ズダボロになってはじめて「自信」が「過信」であった・・・と気づくなんて悲劇を通り越して喜劇以外の何ものでもありません。



⑮「先生様」同士が傷をなめ合うベトベトした気持ちの悪い世界

お互いがお互いをヨイショするこの世界は、教員なり立ての私にはとても摩訶不思議で気持ち悪いものに映りました。そのくせ、建設的、まっとうな批判には目を背け耳を貸そうとしないのですから困ったものです。

以前先生と呼ばれるほどの馬鹿でもなし②~自分で自分を「先生」ってバカ丸出しで恥ずかしくないですか?~で私自身が自分で自分を「先生」と呼ぶことへの嫌悪を話したら、「ショックを受けた」というコメントをもらいました。自分で自分を尊称で呼ぶことがフツーに通っている世界っておかしくないですか?

このコメント主さんは未だお若い幼稚園の先生でしたから、まだ年端(としは)の行かない幼児に教えるためもあるのでしょうが、普段からそう自分を自分で読んでいると父兄の前でも普通にそうなってしまうでしょうね。

たかが呼び方一つで~と言ってしまえばそれだけですが、これもまた「志(こころざし)」「矜持」といった自分自身の在り方に深くかかわりのある大事な問題であると私は思うのです。別に教師であらねど、人間傲慢になったら終わりです。

どうやらこの世界は、まわりから「先生様」と呼ばれたくて、自分でも自分を「先生」と呼びたい人が多いのですね。私にはまったく分からない世界です、正直・・・

⑯職階によっての差別が蔓延る陰湿な世界・・・

こちらについては、前に

講師差別~教諭/常勤講師/非常勤講師~ぜんぶやってみてわかった、非正規のツラさせつなさ~

でもちょっと詳しく話していますので深入りは避けますが、教諭職の人間であればゼッタイ受けないであろうと思われるあからさまな「職業差別」をこれまで幾度となく見聞きし、また私自身も体験してきました。なかには、本人の人格を貶めるようなあまりにもひどすぎる犯罪まがいの差別もありました。

これが末端の教員だけがやるならまだしも、管理職が同じようなことを平気の平左でやっているのですから開いた口が塞がりません。みなさんのまわりでもこういった人たちがいませんか? 講師と教諭とではあからさまに態度が変わる人って。みんな同じ人間で、同じハコで仕事をしているもの同士なのですが・・・

「講師差別」でも話しておりますが、現況がこうなのであればそのような待遇の人たちは自己のライフプランを鑑み、「いまをいかに生きるか?!」を真剣に考えなくてはなりません。いまいくら懸命に這いつくばって自らを捧げても報われないのであれば、そこに打算が入り込んでもだれが責められるでしょう。

学校における差別は、何も教諭講師差別だけにとどまりません。事務職、その他の方々に対する、明らかに上から目線の言動、そばで見聞きしているこちらが教員であるという同じ立場が恥ずかしくなることしばしばでした。なぜに物事を上か下かにしか見ることができないのでしょう?

普通の感覚を持っている大人であれば、学校用務員の方に「これやっておけよ!」などと、何様のつもりかエラソーに言えるはずないのです。

また、「職階」ではありませんが「教科」によっての区別ではなく差別がはびこっているのも学校ならではないでしょうか?この記事にもメッセージをいただきましたが、音楽の先生の嘆きがせつないです。一人の教師を「辞めようか?!」とまで追い込む権利が一体どこのだれにあるというのでしょうか?

こちらもみなさんも実際、いま肌で感じていることでしょう。家庭科、芸術系などの教科が専門校ではなく普通科では低位に位置づけられていたり、教育困難校では体育科の教員がもてはやされすぎとかアリアリですよね。

教師の同僚性の記事でも話していますが、風通しが良く、みなが相談、話し合える土壌が育っている学校では、いくら多忙激務であっても、職員間の意思疎通がうまくいっているのです。お互いがお互いを理解しているので、そこには誤解や差別などのワードが入り込む余地などないのです。

⑰それでも教師を続け、教師を志す人がいるという現実

これは「おかしい」ということではもちろんありませんが、敢えて話さなければなりません。なぜならば、こういった過酷で摩訶不思議なミラクルワールドであるにもかかわらず、それでもなお教師であり続け、そしてそれに続く奇特?な人たちが存在するからです。

教師であり続ける~としましたが、この方たちは、有り余る既得権益にしがみついている餓鬼(失礼)のような人たちのことではありません。このようなひとたちと一緒にされてはかわいそうです。みなさんの教わってきた先生方、同僚、先輩教師にもいませんか?「どうしてこのような優秀な人が教師やってんだろう?」「華々しいキャリアをなげうって教師になった!いったいぜんたいなぜ?!」「この人だったらどこいっても、みんなから好かれていい職場になってるだろうな?」・・・このような先生が。

そうなのです。この人たちを突き動かしている感情は「やっぱり学校じゃなきゃダメ!!」「自分は教師として生きていきたい!」という真っ直ぐな熱すぎる思いです。学校とは現に今でもそのような場所なのです。

教壇からしか見えない世界、教師という職業に就いていなければ伝わってこない子供たちの思い、息づかい、学校でしか味わえない充実感、達成感、自己充足感というものは確実にあります。民間企業と学校を何度も行き来した私の個人的な感情になりますが、辞めた後の喪失感は結構来ます。ましてや学校が好きでも辞めざるを得なかった人たちはたいへんです。この喪失感と向き合う時間が長すぎて・・・

なんだかんだ言っても、学校とは人が一生を懸けるに相応しいミラクルワールドでもあり、トレジャーアイランドなのではないでしょうか?



⑱それでもやっぱりおかしい年功序列型の一律昇給給与体系

ここのところ、教員の多忙さ、教職という職業の過酷さがやたらクローズアップされていますが、ちょっと外に目を向けてみれば、教員並み、いやそれ以上に身を粉にして働いている人は山ほどいます。教育現場だけがなにもとびぬけて大変なわけでは決してありません。

問題は、時が過ぎ環境が変わっても前例にしがみつづける学校のシステム&教員集団のマインドでしょう。

部活動、それも365日24時間稼働のゲキアツ運動部を担当する教員とそうでない教員がほぼ横並びの給料や待遇である状況はどう考えてもおかしい~と一度は教壇に立ったものならみな思うはずです。カタチだけの勤評もまた意味もあるのかもしれませんが、それよりも教員の実態、実情、実績を如実に何かに反映させるシステムの構築が早急に求められているのは確か。

地場産業、第一次産業人口がほとんどを占めるド田舎などでは、正規の教諭、私立専任教員などはある意味、頭脳エリートとみなされ、他もうらやむ特権階級。そのうえこれでもか!というくらい手厚い福利厚生のおまけつき~この人たちの日々の安寧を支えているのは、劣悪な待遇&蔑視OK!の環境で働いている非正規の先生集団。

先生様にはもっともっと外の世界を知ってほしい~とい思っても、いったん学校というハコの中に入ってしまえば外へ向く眼などは綴じられたも同然・・・学校のもつ閉鎖性に加え、日替わりジェットコースターに一度お乗りになってしまえば、お辞めになるなるその日まで降りることなど許されないから。

それだったら、教員になる前、学部時代、教員養成時代からいろいろな下積みや体験などを経験させたうえ、諸外国のようにいったん社会人を経験させてから、この仕事に就かせるようにしてはいかが?!

以上、辞めたクチの私が「なんかなんかね~」と当時を偲んでいま思う「教師のミラクルワールド」でした。あくまでも私が思っていた「ちょっと違うんだよなあ、変だよ!」なのですが、現在でもあながち思いっきり大きくは、ズレてはいないでしょう、きっと。私が辞めてから少し時間が経ちましたが、現場は昔とはだいぶ変わったでしょうか?どうやら、風のうわさにもそのような声は聞こえてこないようです。

変えてはいけないものと変えていかなければならないものとがあるはずです。しかし、「変えなければいけないもの」は変えようとしなければ、いつまでたっても変わらないのです。昔のまんまです。狭い世界にどっぷりと浸かっているとそれが当たり前になってしまうところが実にコワいですね。そうならないために、どうすればいいかは辞めたクチの私から言うべきではないと思います。先生方、教師志望のみなさんももうきっとお分かりのことでしょう。

児童生徒に寄り添っていく先生たちのため、そして何よりこれからの子どもたちのため、誰かが一声を上げ、小さなことから始めていくしか方法はないような気がします。実際、そのような世の中の動きはあるようですが、最近の現場のナマの声を聞いてみる限りでは自分たちの権利のみを主張する向きばかりで「こどもファースト」ではどうもないようです。



自分たちの利益を主張するあまり、決して「変えてはいけない」教師の矜持とか志といったものまで曲げてしまうのではないかという危惧を私は抱いているのです。

深夜に生徒が補導されて「勤務時間外だから」ですべてが済まされてしまうのだとしたら、教師とは担任とはいったいぜんたい子どもたちにとって何なのでしょうか?たしかに、教師の労働者としての権利は守られなければならない大切なものです。教師にだって家族がいて、プライベートな部分だってもちろんあるのですから。

しかし、教師と言う職業はどう考えても民間の功利主義・利益主導主義とは相容(あいい)れないものでしょう。厳しい言い方かもしれませんが、身を切ることができなくなった教員が増えてきたのだと私は思います。「奉職」「聖職」といった言葉はもはや死語でしょうか?

教師であり続けるのであれば、自分の選んだ仕事に誇りを持って邁進(まいしん)すべきでしょう。それができないのであれば、教壇から降りるべきです。深刻な教師不足なんだかんだいっても、誰かがやります。学校はまわっていきます。そういうものです。

おかしい世界は変えてはいかなくてはなりませんが、変えてはいけないものだけは無くしてほしくありませんし、変わってほしくもありません。二律背反といいますか、この二者のアンバランスこそが今の教育界のもっとも悩ましいところなのでしょう。

昨今の過酷な労働環境を背景に、当サイトにも教師の働き方についての相談、メッセージが多く寄せられるようになってきました。

教育者かつ労働者!あなたは有給MAX取得できますか?」の記事でも2通のメッセージが届きました。現状に苦しんでいる先生、そして自己の権利意識丸出しの方・・・お二方いずれも現職です。教師も当然労働者であり、自分の生活、世界があり、学校、子どもたちがすべてではない~という考え方も私にも理解はできます。

しかし、「それで本当によいのだろうか?」とやっぱり思ってしまうのです。これからの時代、ますます熱血モーレツ教師と冷血ワリキリ教員の二極化が進んでいくことでしょう。もはや、学校はある程度割り切って、自己を守っていかないと生き残っていけない職場なのかもしれませんね。

私自身、そうカンタンには割り切ることができず自滅していった人間ですので、特に後者の方のコメントには全くを持って賛同しません。それぞれの意見はもちろん尊重はしますが、個人的には相容れないものだということです。このような方が多数を占めた学校がどのようなものになるかを考えただけで、私は恐ろしいです。

「やっぱりおかしい~」はなしを話し続けてきて、ちょっと私もおかしくなってきましたので、次回はもっと明るい話題でいきたいと思います。それではいったんさようなら!

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