教育・教師 生徒指導/教育技術

教師が「怒る」のはたった2つのケースのみ~「叱る」と「怒る」はまったくの別物~「怒る」を活かす生徒指導

教師が子どもたちの前で「本気」で「怒る」ことなどまずない。教師であるならば。自分の感情に任せて、コントロール不能になるほど我を忘れては子どもの指導、つまり「叱る」ことなどできなくなってしうまうから・・・本気で怒ったようなフリはしても、内心冷静沈着であり、子どものためを思えばこそ、怒ってるふうに装うことは先生方も日々実践されていると思う。

しかし、その先生も本気で怒らなければならない時がある。ここが教師の本気度の見せどころであり、教師の真価が問われる重大な時でもある。

そこで今回は、教師であるならば誰しも持っているこの指導の信念、モノサシをもう一度いっしょに振り返り、「教師が本気で怒らなければならい時」を再確認し、この「怒り」をどのように生徒指導につなげていくかを考えていきたい。



教師が怒るとき
私の中のルール

マイルールは他から見ても分かりやすいくらい単純。以下のように「命」にかかわるときと人の「道」を踏み外した時、この2つに関係したときのみ。

➀ 命にかかわることをやってしまった時(自他の心身を害したとき)

② 人間としてやってはいけないことをしてしまった時

➀は分かりやすいようでその実、相応に複雑である。なぜなら実に広い範囲をカバーするルールであるから。何気ない友だちの言葉、たった一言がナイフとなって、その子の心臓をえぐりぬき一生もののダメージを与えるだけでなく、時には死へ向かわせることさえある。

指導者、リーダーであるべき教師にその言葉の重みを感じ取る感性、正義感等が備わっていなければついつい見逃してしまうものなのである。子どもの心身を傷付けるのはなにも学友同士とは限らない。教員のつい発した一言が子どもを死の底へと突き落とすこともある。教師であり続ける限り、こういった危機感と自戒の念はやはり持ち続けるべきである。

私が中学生の時の受け持ってくれた担任の話をしてみたい。

厳しくも確固とした正義感(自分なりの)があり、あたたかいところもある教員であったのだが、自分の価値観をかたくない生徒に押し付けるタイプでその分、この先生の生徒の好き嫌いもまた激しかった。はた目からわかってしまう段階で教師としてはアウトなのであるが、当時中学生の私たちは苦手意識を持ちつつも一種の服従を強いられていた。そんな中、事件は起きた。




クラス委員を決めるにあたり、当時、クラスの中でも何をするにも遅くのろまで、言葉は悪いがすべてにおいてだらしない女子が立候補した。これにはクラスの誰もが驚いたが、いちばんビックリしたのは我らの担任だったらしく彼は思わず「ふざけるな!できるわけないだろう!みんなもそう思うだろう?」みたいな言葉を発したのである。(正確には覚えていないが趣旨はこんな感じ)

いたたまれなくなったその子は教室を飛び出し、その後、学校には二度と顔を見せることはなかった。この生徒のフォローと同じくらい彼がたいへんな目に遭ったのは、クラスの女子全体がここぞとばかりに自らの担任に反旗を翻し彼の授業のボイコットにまで及んだのである。

心の中で思っていただけで、その想いは顔に全体の雰囲気にあらわれるというのに、たとえそう思っていたとしても言葉に出してしまっては終わりである。けっして取り返しはつかない。私の担任が犯したあやまちもまた、場合によってはいのちにかかわる重要なものであったと思う。

②に関してはこれもまた、カバーする範囲が非常に大きくなるものであろう。「人としてやってはいけないこと」のとらえかたは人それぞれでありさまざまであるから。これは自分のこれまで生きてきた道のりに照らし合わせ、マイオリジナルな感性、信念、矜持に従えばいいだけのことであるので問題にはならない。

たとえば、人間としてひきょうなことをしたとき(友だちを売った、出し抜いた、ごまかした、悪意のあるうそをついた)、自他をおとしめた時・・・などのようにさまざまなケースが考えられる。

もちろんこれらの指導は、子どもたちの中にある善悪の価値判断基準、倫理観、それぞれの発達段階などをじゅうぶんにかんがみてなされなければならない。

命を軽んじる「いす引き」は
「いたずら」「悪ふざけ」では断じてない!

命にかかわる生徒の過ちは絶対に見逃してならない!

私の中学時の先生は自分のクラスからの指導を受けるハメになったが、今度は我が担任が「本気」で「怒った」「叱った」例を2つほど話してみたいと思う。

➀ 椅子引き

これは私が小学生のころの話。当時、クラスでは「椅子引き」が流行っていた。御存知のように椅子引きとは、いすに座ろうとするその瞬間、後ろにいる人間がすかさず椅子を引くことによって、椅子があるものと思って腰を身体全体を預けたら最後、全体重をかけた腰、身体、頭などが床に打ち付けられてしまう~というとてもおそろしい行為である。

特定の児童をターゲットとしていたわけでもなく、気付かれないようそれなりに間をおいて、それぞれがゲームを楽しんでいるような雰囲気だったと記憶している。私はこの「ゲーム」に加担することはなかったが、自分もやられないように気を張ってはいた。がしかし、しばらく何事もなく平和に毎日が過ぎ去っていたので気が緩んでいたのかもしれない。帰りのSHRが終わり、さよならのあいさつをし終えいったん席に着こうとしたその刹那、私の椅子が引かれた。

いまでも忘れられないがその瞬間、腰と背中にすごい衝撃が加わり声を出すことすらできず、しばし起き上がることが出来なかった。その場にうずくまっている私がしばらくして見上げると、そこには般若のようなすごい形相で学友を殴りつける担任の姿があった。帰り際だったクラスは騒然となり、みんなはただただ立ちすくむだけだった。あまりにもすごすぎる担任の暴走ぶりにみんなドン引きを通り越して、みなは恐怖を感じていたようであった。一方わたしは普段から中のいい友だちだったので「なにもそこまでしなくとも」という気持ちの方が強かったと記憶している。

実は、この一件が怒る前からも担任から椅子引きは絶対やらないようにという指導はそれなりにあった。にもかかわらず、担任の目の前で椅子引きが堂々となされているそのさまを見せつけられて担任は黙っていられなかったのだろう。

この担任はもう亡くなってしまったのだが、生きているうちに聞いておきたかった。「本気」で「怒った」のですか?それとも「指導」が含まれた「本気で怒るふり」だったのですか?~と。

これは「悪ふざけ」とか「いたずら」などの甘っちょろい言葉を使うのは教育上全くをもってふさわしくない。場合によっては死、重大な障害を残すことにもなるやもしれない恐ろしい行為である。場合によっては「犯罪」になる~ということを理解させる必要もある。

実際、学校でのこの椅子引きで全身まひ、下半身不随などの生涯にわたる障害を負った例がそれなりにあるのである。

そのことを我が担任はクラスのリーダー、指導者として示してくれた。以降、クラスで椅子引きなどの危険行為がなされることは決してなかった。



② くじ不正

時はだいぶ飛んで私も高校生になったころの話。

当時の担任は席替えはいつも同じ決め方。番号を昇順にふった紙を人数分つくらせ、その紙をシャッフルして箱に入れ、それぞれが引き、これまた昇順にナンバリングした座席表に該当するナンバーを引き当てた生徒が新しく座る~という実に古い伝統的な決め方だった。

この席替えで不正行為が行われた。引き当てた紙の交換が秘密裏に行われていたのだった。一組の男子生徒によって。これが等価交換というのかそのようなものだったらまだよかったのかもしれないが、チカラ関係で上位にあるものが下位にあるものに強引に交換を迫ったものであることが後から分かったのであるからして悪質だったと言えよう。

なぜ、担任がその不正行為に気付いたのか最後まで分からなかったのだが、皆がおおかたくじを引き終えたころ、いきなり担任が一人の学友を教壇に呼び寄せ、何を思ったのか猛然とその子どもを平手打ちし続けたのであった。クラス全体も何が起きたのかつかめずただ啞然として見つめるだけ。普段怒った顔すら見せなかった担任のあまりにもすごすぎる変貌ぶりにクラスは恐怖に包まれた。

しばらくして、私たちも何が原因かは分かり始めたが、担任からの説明などはその後も含めて一切なかった。今になって思うのであるが、一方的に生徒を殴りつけてクラスを恐怖のどん底に突き落とし、その場にいたクラスの生徒たちに何の説明もないというのはいかがなものか?「態度で示したんだから、お前ら分かれよ!」という意味だったのかしら?

当時を振り返って私なりの分析になるが、➀の場合、いままでの担任自身の指導が子どもたちに通っていないことに危機感を抱き、タイミングよく?ことに及んだ学友にあえて人身御供になってもらい、自分のこどもたちに「事の重大さ」を気付かせるために「本気で怒っているフリ」をして冷静に彼は指導、叱ってくれたのだと思う。

そして②であるが、今振り返ってもただ単にこれは、我が担任がキレただけ、つまり自分お怒りを爆発させただけ~言い換えれば自分の気持ちを静めたいがため暴力に及んだ・・・としか思えないのである。やってしまったことは本当に悪いことに間違いはない。しかし、あの場面であそこまでする必要が本当にあったのか?自分が担任を経験した今、あらためて思い直してもはなはだ疑問である。

私が本気で怒った(フリ?)ケース
クラスのおさかなが・・・

これまでいくつかの例を出してみたが、私自身が本気で怒った(指導を忘れるくらい怒りを爆発させた)ことが一度だけあった。こどもたちが他を心無い言葉で傷つけたり、悪意のあるうそをつかれた時も何度かあったが、怒りを爆発などさせず、そこには冷静な自分がいた。

しかし、このケースだけは違った。絶対にちょっとやそっとでは許すことなど出来なかった。

以下の記事でも私が教室環境にチカラを入れていて高校の教室でありながら「いきもの」といっしょに生活していることは話した。

教室で生き物を飼うという事~クラスの環境整備、掲示物はどのように生徒に影響するか?①~

私が小学校のころ、学校鳥として金鶏(きんけい)を頂点に、ウサギ、にわとり、チャボが飼育されていて、教室では金魚がクラスみんなをいつも見守っていてくれたのでした。そんなノスタルジックな気分にちょっと浸り ...

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当時、教室で係りを決めて本格的に、金魚な熱帯魚、カメなどを飼っていた。そのクラスの一員であった魚たち全員が天に召された。教室の汚れを落とす「ジフ」とかいう磨き洗剤のようなものがボトルごと全部まき散らされ、ポンプを利用していたので泡だらけで教室の一部の床が汚れるほどに。当然、さかなたちは全員お陀仏である。

登校してきて気付いた女子生徒が私に知らせに来た。朝のルームで怒りを抑えるのがたいへんであったが、やったものがもしこの中にいれば後からでもいいので私に知らせてほしい~と告げた。絶対この中にはいないだろうし(いてほしくない)、仮にいたとしてもこの場、即名乗りを上げるのはあり得ない~と高を括っていた。

不意を突かれた・・・という言葉がピッタリ!そのまさかのまさかが起きた。まっすぐにのばされた手。「やりました」私からのアクション遮るように続ける彼。「これで女子のみんなもボクのこともっと嫌いになると思います」などと言い出す始末。

自分のやったことを悪びれる様子もなく照れ笑いを浮かべながら、受けをねらっていたかのような話しぶりに我を多少忘れた。怒りを抑えながらも最後の確認だけはした。「本当の本当にやったのか?」それでも彼は「やっちゃった」と、照れながら言うではないか。

「ふざけて言うことか?」そのころ始まった「地獄少女」のキメ台詞「いっぺん死んでみる?」を言いだしそうになる自分をグッとこらえてその男子生徒の襟首をつかまえて教壇まで引きずり出し「この後、〇〇と話がある」「一限目、各自自習」(ちょうどこの後の一限目は私の授業であった)とだけクラスに告げ、彼とともに指導室へ。

「いっぺん、死んでみる?」のフレーズが強烈な「地獄少女」の世界!「イッペン、ヨンデミル?」

闇に惑いし哀れな陰よ 人を傷付け貶めて罪に溺れし業の魂 いっぺん、死んでみる? あなたには、この世からいなくなってほしい人間はいるだろうか? 私の場合、「ソリがどうも合わない、なんとなくうまくいかない ...

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自分でもあの時のことは、かなり興奮していた感じだけ覚えていて正直記憶が定かではない。しかし、同窓会などで当時の話が出ると、「怖かった」「正直ヤバイと思った」「キレさすとまずいと思った」とかばっかりで普通の表情をしていなかったらしい。

正直なところ、キレたの半分、冷静な自分半分といったところである。というのも、彼が放った「女子のみんなももっと僕を嫌いになる」というフレーズがその時、とっさに気になり「何かある!」と察知した自分がブレーキをかけたからであった。

案の定、話を聞いてみると一部の女子連中から「キモイ」「クサイ」「ウザイ」等の言葉のいじめを受けていたことがわかった。一生懸命世話をしているかかりの女子たちを悲しませたい一心で事に及んだことも判明し、その後、これらの言葉の暴力を振るっていた女子たちの指導も含めてかなりの労力を強いられた。

入学して間もないころのことであったが、友人関係もまだ定まっていない不安定な時期とはいえ、見逃せない重大な事案が立て続けに起きてしまった。だが、最初に問題が出つくしてしまったことにより、クラス開き時にみなで確認し合ったクラスのルールもこれでより鮮明になり、その後の土台をつくるうえでかえってよかったのかもしれない。

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しかし、やってしまったことはやってしまったこととして、指導が必要。「器物破損」として指導部に上げ、彼との対話と指導に時間をかけることになった。

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この出来事には後日談があり、人の命と動物、いきものの命~この二者間の優劣についてクラス内でさまざまな意見が交わされた。私がクラス開きの時にかかげた「人の命、気持ちを踏みにじることは絶対許さない」というルールについて「魚の命と人の命は違う。ヒトの命に係わるときって言ってたじゃないか?」などの反対意見が出されたと思えば、「だったら、人間より強い生き物があらわれて僕らがなぶり殺しにあってもしかたないでがまんするしかないってことだよな」などといったもっともらしい意見が飛び出したり、彼らなりに「命」について真剣に考えていることがわかり、うれしかった。


「怒る」技術

「技術」であるということは、ただ単に怒りを爆発させるだけの自己満足などでは決してなく、子どもたちのためを思っての指導、つまりその実「叱る」要素も含まれているということである。

子どもたちから見たら、「今日の先生コワイ!いつもとなんか違う!」などのように映っても、本人はいたって冷静であり、自分の今の言動が子どもたち、そしてその場の雰囲気に与えるさまざまな影響を実によく計算しているのである。当然、怒ってハイ終わりなどではなく、その先がある。怒っている所作の流れの中にさるげなく指導をからめたり、もちろんその後のアフター&フォローなども含めて手抜かりはない。これがプロ教師というものであろう。

子どもを叱ることができない教員が増えたと聞くが、「怒る」と「叱る」の区別も知らない、実践できないのは教師として致命的。「差別」と「区別」の違いを知らないくらい実にイタイ。

かと言って、いつも怒ってばかりでは、「うちらの先生はいつも怒ってばっかり」「もう慣れたわ、飽き飽き」などのように全く新鮮味?が失われ、ただたんにヒステリックな人とみなされることになり、なんの教育的効果も得られないことになる。やはり、どこかに冷静な自分が全体を見渡していないと、ただ単に「いつもキレる実にイタイ先生」になってしまう。

また、怒る(フリ)中にも指導の要素を含ませると同時に、必ずこどもの逃げ道は用意しておくことも忘れてはならない。この時、逃げ道と同じくらい重要になってくるのは、指導後のアフターとフォロー、ケアである。「指導死」から子どもを守るためにも常に教師は危機感を抱くべきである。

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最後になるが、教師であるならば当たり前ではあるが、「ここぞ」というシーンでは教師としての本気度を見せなければならない。子どもたちの眼は節穴などでは決してない。教師の一挙手一投足をつぶさに観察している。子どもたちが道を踏み外した時、ほんとうにやってはならないことをしてしまった時には、他の指導とは違う!ということを子どもたちにわからせる必要があるのである。

すべては、子どもたちのためを思えばこそ。










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