よりによってわがクラスでの対教師暴力暴言、教科担当クラス、部活動での子どもの問題行動などなど・・・教師稼業をやっていると全く無縁というわけにはいかないですよね。こういった問題行動が起きないよう日々の生徒指導に注力していてもいつかはぶち当たるこの問題。指導に上げるべきかどうか?この問いに関しての答えはもうすでに出ています。
問題のことの軽重にも当然よるでしょうが、他の生徒に与える影響が甚大で自分ひとりで指導しきれるものではない事案に関しては当然、指導に上げるべきです。
初任時よりずっと指導部畑を歩いてきた私も、この当たり前すぎることをわかってはいたものの、自分のちんけなプライドがかわいくて、あるはずのないプライドなるものをなんとか死守したくて握りつぶしてしまったことが過去に一度だけ、初任時にありました。事の詳細を連ねると長くなりますので思いっきり端折りますが、対教師暴力事案でした。
事がことでしたので、当然その場、そして事後にと本人とサシで、また担任を交えて指導はしたつもりでした。しかし生徒指導部に生徒指導案件としてあげることはありませんでした。
この後、どうなったと思いますか?お察しの通り、その生徒だけではなく子どもたち全体からも一時期、見くびられることになったのは言うまでもありません。こんなことやっても許されるんだ~子どもはつぶさに見ています。大人のすべてを。道を誤った時は正しく導き、叱り指導してくれる大人を教師に期待しているはずです。
子どもを指導できなくなった教員が増えているとは、よく聞くことですが、先生方おのおの自分なりに生徒指導に関しては日々実践されていることでしょう。しかし、答えはすでに出ているのに悩ましいのは、この「指導に上げるべきか否か?」この問題でしょう。
その線引きもさることながら、いつも邪魔して自分を悩ませるのは「プライド」というこのやっかいなものです。そこできょうは、この指導に上げるかどうかの線引きと教師オリジナルのプライドについて考えていきたいと思います。
指導に上げるべきか否か
線引きはどこから?
私は十年以上の教師生活のすべてをいわゆる教育困難校で過ごしてきたので、こどものさまざまな問題行動と相対してきました。毎日毎日、日替わりでバラエティーに富む事案が発生するのであきることはありませんでしたが、自分の仕事のそのほとんどを生徒指導にもっていかれる日常は精神的にほんとうに疲れましたね。
それも、そのほとんどがクラス、部活、授業などでまったく接点のない生徒であり、人間関係が成り立っていないゼロの状態から指導がスタートするパターンが非常に多かったのです。これはけっこうしんどいものであった一方、ここでしかない出会いがあり、日々新鮮かつたいへん勉強になったのです。
さて、かんじんの「線引き」についてですが、日々の学校生活で起こる問題行動のすべてを逐一指導部に上げていたらそれこそキリがなく、教職員、生徒ともどもたいへんなことになってしまいますよね。そこは学校で、おのおの指導が可能と思われる事案に関しては各自、指導し、必要と思われる場合は担任、指導部、管理職には報告しているはずです。
指導に上げないケースでも、ひとりで指導するのではなく、学年チーム全体プラス教科担任で見ていくという場合もあるでしょう。わざわざ指導歴として残る「指導」にしなくとも、こういったやり方のほうがうまくいく場合も当然あります。
指導に上げる~ということは、学校謹慎にしろ家庭謹慎にしろ子どもの通常の学習の権利を奪うものであるからして、その適用運用は厳格かつ慎重になされなければなりません。そしてその指導の内容は通常、学友とは切り離され、自分を見つめ直す時間と相応の重たい課題が与えられているはずです。
それならば、こういった厳しい機会を課すに値する問題行動に限定されるべきです。学校によって指導内規の適用の在り方もさまざまでしょうが、いったん指導部に上がった事案は必ず審議されます。上げる上げない~はいちばん最初に問題行動に相対した教職員次第です。誰かほかの教職員に見られたり知られたりしていない限りは・・・
完全ワンオペよろしく自分ひとりで指導を完結させてしまうか、果ては見て見ぬふりに成り下がるか、それとも生徒を取り巻くさまざまな人たちに相談して決めるか・・・悩ましいところです。
この問題はシロかクロか?などのようにかんたんに決められるものではなく、先生方がこれまで歩んできた「人の道、教師道」と照らし合わせ、さらに自分自身の内なる主人に聞いてみるのがいちばんだと私は思うのです。少なくとも私はそうしてきました。
「これはやっちゃおしまいだろう」「これは許せない」こういった、教師であれば「柱」なるものがあると思うのです。それに忠実になってほしいのです。そして、これと同じくらい重要なのが「他の生徒に与える影響」と「上げる/上げないことが本当にこの生徒のためになるか」という視点です。
これらを総合的に判断して事に当たるべきです。
指導に上げず、自分で抱え込むとどうなるか?
問題行動の軽重にもよりますが、たとえ自分ひとりで抱え込んでも、教師の指導が本人に指導として入り、改善が期待されるのであるのであれば許されてもよい場合も当然あります。
しかし、誰から見ても「あり得ない」「これはダメだろう」といった問題行動が見逃され、握りつぶされた場合、対処した教員は当たり前のことながら、生徒本人をとりまくすべての人に害が及ぶようになるのは火を見るよりも明らかです。当然、本人のためにいちばんならないのですが。
まずは生徒本人。「あんなことこんなことやってもぜんぜんOK!」などのように公言してはばからない子どもを生むことになるだけでなく、教師、学校全体、大人を見くびるようになるのは間違いありません。これから長い時間を生きていくというのに何たる不幸なことか・・・決して教員のひとりよがりの問題では済まされないことであることがわかるでしょう。
そして教師自身。自分の信念を曲げた~という自責の念にさいなまれ、その後の指導がまったくすべての生徒に通らなくなるだけでなく、自分の指導に自信が持てなくなってしまうのではないでしょうか。教師ひとりで処理しきれない問題はやはり他を頼るべき。ちっぽけな自尊心なんか守るに足らないものなのではないでしょうか。
やはり大きな問題、困難な事案については、きちっとカタチとして指導に上げるべき。その過程で、時間をかけて多くの人々を巻き込んで寄り添っていくのがいちばん。
問題行動を握りつぶすパターン
それでは、実際問題として、問題行動をスルーするパターンとしてどのようなケースが考えられるのでしょうか?実は自分が相対したときだけでなく、さまざまなスルーのパターンがあり得るのが怖いところ。
➀ 日々のクラス経営、教科担当、部活動等内での生徒の問題行動(出張等での生徒引率時も含む)
② クラス、学年をまたいでの教育活動時の生徒の問題行動(全校集会、学年集会、学校行事時など)
③ 複数の学校が集まっての教育活動時(各種大会参加、研究発表会、合同練習会など)の生徒の問題行動
④ 直接自分はかかわってはいないが、他からスルーに同意するよう促されたりするケース(学年所属、担任、部活動顧問などからの懇願等)
⑤ 学校内外での生徒の問題行動を目撃したにもかかわらずスルー(自校生徒&他校生徒)
⑥ 問題行動を起こした生徒本人から頼まれてスルー(教師であるならばあり得ないことですが、敢えて提起しました)
クラス、学年、学校を越えて~とその規模がおおきくなればなるほどややこしく面倒なものとなりますが、これらのスルーパターンはよくあること。しかし、学校全体の一教師として先生、あなたが取るべきポジションは、クラス、学年、学校全体の体裁などは棚上げして、己の信念、矜持のみに従えばよいのではないでしょうか?たとえそれが全体の「和」「調和」を乱すものであったとしても、子どものこれからのためになるかどうかの前にそんなちんけなもの取るに足らないものに思えてきませんか?
そして、一番最後に持ってきた目撃スルーがいちばんやりがちで、もっとも教師を悩ませるものでしょう。特にまったくの初見で人間関係も何もない状態での声掛け、指導スタートは難易度マックスに近いです。私は奉職中、少年補導員として街頭声掛け、指導に従事していたことがありましたが、学校での指導とはまた違った難しさを知ったと同時にこの街頭声掛け指導の面白さに一時期没頭したものです。
別に少年補導員に委嘱もされてないのに、休日プライベートに街でわるさしている生徒見かけたからってイチイチ声掛けてたら、時間いくらあったって足りないよ~夜回り先生じゃないんだから~特に他校生の場合など他校の教職員とのやり取りがあり、思いっきり時間と労力が持って打いかれること必定です。
私もその気持ちは分かります。面倒なことはできれば避けたいし、正直やりたくない。しかし、誰かはやらなくてはならないのです。この子どもたちのために。だったら自分がやろうではありませんか?私たち教育公務員には異動があります。ウチの子じゃないから~なんて了見の狭い話はよしにして地域の子ども全体を大人みんなで地域の学校教員全体で見守っていこう~くらいに大きく構えていこうではありませんか?
このようにどっしりと腰を据えて構えることに腹をくくると、自校の生徒スルーなどあり得なくなるのです。
なぜ、自分ひとりで抱え込んでしまうのか?
教師という人種のプライドはまた格別であると私が感じるのは、私が社会人を経てから教師になったからだけではないように思うのです。とにかく「自分ひとりで処理、指導できないのは恥」「まわりに迷惑をかけるなんてもってのほか、誰かの手を借りるなんてもっとあり得ない」このような完全個人主義&個人プレーにはまりがちであるのはみなさんも日々感じていることと思います。
それだけ学校教員の仕事の量が膨大であり、「他に頼るのは「悪」」とみなす教員文化なるものが身に沁みついてしまっているからなのかもしれません。
しかし、教員特有のプライドがそれだけではないですよね。
「自分のクラス、部活、担当教科はうまくいっていると思われたい」
「子どもたちから人気があると思われたい、信頼されている教師だと思われたい」
「指導力がある教師だと思われたい」
「仕事ができる人だと思われたい」
などなど、これみんな他の目、それも同僚、管理職の眼が気になっているわけなのですね。これではこどものため仕事しているのではなくて、まわりの教職員の「評価」のために日々あくせくしているのと同じことになってしまいます。完全に・・・
「こんな実態のないものに囚われてどうすんの?」ってみなさん頭ではわかっていても、このやっかいなプライドの処理に悩んでいることでしょう。でも、先述の自分の矜持、信念があるのであれば、この際、「よく思われたい」とか「強がり」なんて取るに足らない&実体のないものなんか手放してみませんか?思いっきりラクになりますよ。これに囚われていた私も自分を取り戻したわけなのですから、案外効果ありかも。
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などのような自らを振り返る余裕と慎ましさ、謙虚さは教師であり続けるなら持ち続けたいです。おごり高ぶった恥ずかしい子どものような大人、周りが見えてないどころか自分自身のことさえよくわかっていない「裸の王様」だけにはなりたくない私自身も襟を正していきます。
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