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いじめ傍観者に対してクラス担任、教師ができること~「見ているだけで何が悪い」への指導と反論~

いじめ傍観者は、いじめ加害者と同罪!とまでは言えないが、まちがいなくいじめを黙認し助長はしている。

まずは、この事実を再確認しなければならない。「やめさせようとしたり、通報、相談したら今度は自分がターゲットに」などの理由からの自己保身を許したら、それこそいじめが跋扈(ばっこ)する弱肉強食の学校となり下がること必至である。

「ただ見ているだけで何が悪い!」と言い放つ子どもへの指導は絶対不可欠であるが、実はこういった感情が生徒から湧き起らないような学級担任、教科担任、教職員全体の強い決意と団結、そして普段からの不断の努力実践の積み重ねもまた不可欠なのである。

今回は、いじめ早期発見対応のためのキーパーソンともいうべき「いじめ傍観者」を教師であるならどう指導し導いていくかについて、これまでの私のいじめ指導経験もちょっと交えていっしょに考えてみたい。




いじめ傍観者はいじめ加害者と同罪か?

「いじめをやめさせようとして、今度は自分がいじめられて学校に来られなくなったり死んだりしたら責任取ってくれるのか?」

「いじめをただ見ているだけ、やり過ごしているだけなのに「同罪」なんてありえない!」

「いじめなんてまったく関心ないし、ただたんに自分はかかわりたくないだけ」

・・・このように「傍観者はまったく悪くない!」~と主張する児童生徒にあなたならどう指導するであろうか?

私のスタンスは先述のように、いじめ加害者と同列に並べることはできないが、いじめをやりすごし、認める行為はいじめをさらにエスカレートさせるものであり、いわば消極的加担者(加害者)であると考える。いじめ被害者に聞いた話では、特に仲の良かった友だちにいじめを黙認された経験は相当なショックであり、加害者以上に憎悪の念を抱いたそうである。

被害者からしたら、加害者も傍観者も同列同等なのである。見て見ぬフリをするものは結局自分がかわいいだけであり、他人のことなどどうでもいい・・・ということになってしまう。結局はここに行きつくのである。

いじめを見て見ぬふりをすることはまったく罪はない、問題ない・・・と教師がしてしまうことは、「自分には関係ない」「かかわりたくない」などという子どもの考えを肯定することになってしまう危険性をはらんでいる。親や教師がこの姿勢ではあまりにも情けない。

特に担任である場合、いじめ加害者がクラスの多数を占めていたり、リーダー格の子どもであった場合、いわばクラス全体を敵にまわすことになりクラス経営上困難を極めるのは目に見えている。ただでさえ忙しい教員稼業上、「見なかったこと」にしたい気持ちもわからないではない。しかし、クラスを引っ張っていく存在であるはずの教師がそれでいいのだろうか?自分の内なる主人が、教師としての矜持がそれを許するのであろうか?

いじめが起きてしまった場合、どう向き合っていくか・・・この時こそ教師としての真価が問われるときと言えよう。

私の場合、一貫して「いじめ傍観者」はいじめ加害者とまったくの同罪ではないが、被害者にとっては限りなく同罪に近いくらいひどいものであり、その場で助けることができなくともほかにいろいろと方法はある~というスタンスで指導にあたっていた。

いじめから子どもを守る立場にある教師は、常にいじめはいつ何時(なんどき)も起こりうるものであり、「いじめ傍観者」をどう導いていくかがいじめ解決のキーであると私は思う。

「見て見ぬふり」を考えていく上で、社会的に問題なり「女性専用列車」誕生のきっかけとなった「事件」をここで取り上げたい。




見て見ぬフリのサンダーバード号事件

2006年8月3日夜間、富山駅発大阪駅行きの特急JR北陸線サンダーバード列車内にて21歳の女性が、滋賀県在住35歳男性に座席で40分以上辱めを受けた後、トイレに連れ込まれここでもまた30分以上、座席でのそれ以上の辱めを受けたという事件。

当時の車内には約40人の乗客がいて、女性は泣いていたとのことだったので周囲の乗客は異変に気づいていたはず。また、トイレに連れて行かれた時も女性は泣いており、不審に思う乗客はいたはずなのである。しかし、それらの乗客に対して、犯人は「何を見とるんじゃ!」とすごんだために、乗客は怖くなって何もできなかったとのこと。

被害者が泣いていたことに他の複数の乗客が気付いていながらも、誰も被害者を助けなかったうえ、車掌や警察に通報することもなかった。この事件に味を占めたのか、サンダーバード事件から3ヶ月後の12月21日に同じような手口の事件を同日に2件立て続けに起こしている。

もし乗客の中の1人でも声をかけたり、車掌に伝えたり、携帯で警察に通報していたら事態は変わっていたであろう。被害を受けている女性が目の前にいるのに、乗客はみんな「見てみぬふり」を決め込む始末。日本人のモラル、道徳観が問われることになり、「見てみぬふり」が糾弾されることにもなった。

言うは易(やす)く行うは難(かた)し・・・だが果たして、もし自分がその場にいたら果たしてどうしていたであろうか?「助けてください」と被害者が私に助けを求めてきたら、助けられたであろうか?

私も含めて、いざというときにそのような道徳的な行動を取れる!と言い切れる人はそうはいないはず。

おそらくこの居合わせた乗客たちのすべてが、まったく関係ない~ということでだんまりを決め込んだわけではないだろう。少しは「何とかしなくては!でもどうしたらいいんだろう?!」と良心の呵責(かしゃく)に悩んだ人もきっといたであろうと思う。

では、あの時あの場所で居合わせた乗客たちはどうすればよかったのか、何ができたのであろうか?

私はなにも、この犯人に「立ち向かって行け!力づくでも止(や)めさせろ!」などと言っているのではない。さらに深く考えていくために、考えただけでつらく恐ろしい事件をまた引き合いに出さなければならない。



見て見ぬフリなどできなかった
東海道新幹線車内殺傷事件

時は流れて2018年6月9日21時42分新横浜発東海道新幹線のぞみ号内で、最後部席に座っていた外資系の化学メーカーBASFジャパンに勤める梅田さんが全身を60ヶ所以上メッタ刺しにされて殺された。なぜ梅田さんは死ななければならなかったのか?

ことの顛末(てんまつ)はこうである。列車が動きはじめてから間もない21時45分に、梅田さんの2列前に座っていた小島一朗容疑者(22歳)が無言で立ちあがり、右側に座る女性をなたで切りつけたのだ。いきなりの犯行に、車内は大パニック。恐怖に凍り付いた乗客は、我先にととなりのの車両へと急いだ。そんな人たちを横目に、決死の行動で犯人に立ち向かっていったのが、梅田さんだったのだ。

犯行に及んでいる小島容疑者に気づかれないように背後から近づき羽交い絞めにし、傷ついた女性を逃がすことに成功はしたが、激しくもみ合ううち馬乗りになった小島容疑者にめった刺しにされ、しばらくして動かなくなってしまったという。現場は血の海であったということで、犯行の惨状を物語っていた・・・

誰にでも挨拶のできる明るく正義感にあふれた人だったという。子供だった頃、仲間外れや悪口が起きると、「そういうのやめようよ」とさりげなく言える人だったそうだ。誰からも愛され、東大卒で将来を嘱望されていた優秀な人がこれである。まったくをもって理不尽の極みである。なぜ彼のような人が死ななければならなかったのか?

きっと彼自身の「内なる主人」がだまって見過ごすやり過ごす、見て見ぬふりなどということは許さなかったのだろう。こういった行いは「やろう!」と思っていてもできることではないし、たまたまできるようなことでもない。彼だからこそ成しえたものである。おそらく私にはできないであろう。

これを一般の人たちに求めるのは少し酷であると思う。

この事件が教えていることは、彼のような人でも死んでしまえば、当たり前であるがこの世からはいなくなってしまう。この犯人などに何を言っても無駄である。という至極当然のことが一つ。

そして、普通?の人は凡人なりにできることがあるのではないかと示唆しているような気がしてならない。このような緊急時、自分の身を守るために真っ先に逃げてしまうのもアリとは言えないが当然仕方のないこと。自分の身の安全が確保されてから、自分にできることをやるしかないのだ。

先のサンダーバード号でも同じこと。一人ではアクションを起こせなくてもみんなが多数になればできることがあるかもしれない。それもできないのであれば、せめて犯人が女性をトイレに連れ込んでから、車掌に知らせに行ったり、携帯で警察に電話くらいはできたであろう。しかし、まわりの傍観者たちは、それさえやらなかった、できなかったのが「サンダーバード見て見ぬふり事件」なのである。




いじめ傍観者の心理

いじめ傍観者がいじめ解決のキーパーソンであるならば、いじめを見て見ぬふり、スルーするものの心理について考察を加えることはあながち無駄でが無かろう。

次にあげる「いじめ傍観の理由」はかつて私のクラスでいじめについて話し合った時と、あとから無記名でのアンケートを取った時に出てきた主なものである。

① 今度は自分がいじめのターゲットになるのが怖い

② 面倒くさい。めんどうなことに巻き込まれるのはイヤ

③ 仲のいい友だちだったらともかく、大して付き合いもないのに自分には関係ない。そこまでの友だちじゃない。

④ 自分がかかわる理由がない

⑤ 助けたい気持ちはあるのだけれど、どうしたらいいのかわからないから動けない

⑥ 本人にもいじめられても仕方がない理由があると思う、自業自得

⑦ 自分が間にはいることで、さらにこじれてその子がいじめられるようになったらかわいそう

⑧ 見ているだけは悪いことだとは思うけれど、自分にはなにもできない、勇気がない。

⑨ 結局はいじめられている本人が自分で何とかするしかない。自分がかかわることではない。

⑩ 正直なところ、いじめに加わる勇気はないが傍観だったら許されるだろうという悪い気持から

これらの本音の部分が出てきたあと、あらためて時間を取り、再び話し合った。

このクラスでの話し合いで、まず私が心がけたのは、「はじめに答えアリ」で担任が強引に自分の考えに誘導するのではなく、子どもたちの自由自主的な考えが出てくるのを待つということであった。子どもたちの間で、真剣にいじめについて考える姿勢を育てたい~という思いがあったからである。他人事ではなく、自らに引き寄せて考えさせたいという私の想いがそこにはあった。

いろいろな意見、考えが出てくることを歓迎するために制限なしで自由に話し合わせたのだが、クラス開き当初の私のいじめに対する大前提だけは確認のためもう一度提示した。

➀ どのような理由があろうといじめていいということにはならない。いじめは人間として卑怯な行為であり、絶対に許さない。

② 他の尊厳を傷つけない限り、どのような個性的な人間であってもその存在は尊重されなければならない。

・・・この2つのクラスルールであった。

そんな中で、みなの注目を浴びる切なる意見があった。

ルームや教科でも自ら意見を述べたりするような生徒などではなかったので正直私もびっくりした。一字一句を正確には再現はもはやできないので、私流のセリフで再構築してみるとだいたいこんな感じであった。

「彼女とはずっと仲の良い友だちでした。あの時までは。なぜ彼女がいじめられるようになったかのかは今でもよくわかならいのですが、正直私でなくてよかった・・・こんなズルい気持ちだったことはよく覚えています。何度も彼女は助けて!のサインを送ってきたのに、それなのに私は彼女がいじめられているのを見ているだけでなく、やがて彼女を無視するようになり、さらにいじめグループのいじめを助けるようなことまでするようになっていったのです。そんな状況がずっと続いたにもかかわらず、彼女は学校に通い続けていました。恥ずかしいはなしですが、私自身この状況を楽しんでいたのです。しかし、私のこの楽しみもそう長くは続きませんでした。彼女は私たちの前からいなくなってしまったのです。もはやどういった理由で転校していったのかは当然彼女に聞くことなんてできません。いま彼女がどうしているのかもまったくわからないのです。でも、彼女がクラスを去る日、私に投げかけたあの射るような鋭いまなざしは私をさげすんでいるように見えたのでした。あの日から私の地獄は始まりました。いつ何時も彼女のことが思い出されてしかたないのです。忘れようとしても忘れられないのです。クラスでこの問題について話し合おうとなった時、私こそがこの場で話すべきだと思いました。先生が言うように、いじめられていた彼女からしたらいじめっこも見ているだけの子も同じに映っていたはずなんです。みんながどう私を見ているのかはわかりませんが、私は決していい子なんかではありません。」

ずっと胸につかえていたのであろう。吐き出すように切ない彼女の独白が続いた・・・みな一言も声を立てず、クラスのすべての視線は彼女に注がれていた。忘れられない光景の一つである。

別に私が彼女と打ち合わせしたりお膳立てしたわけではなく、クラスの話し合いの中で自然というかいきなりこの発言だったのである。それからみんなの彼女を見る目が変わったのは言うまでもない。いい意味で。

そうなのである。いじめを傍観するということは、いじめ傍観者のこころにも決して癒えることのない傷を負わせかねないものなのである。




いじめ傍観者ができること

さて話をもどしたい。

いじめ傍観者にしても、傍観者が自らの安全を確保しつつできることは実際いくらでもある。

何もいじめを自分で直接やめさせたり、ダイレクトに教師に知らせなくてもできることは実際たくさんあるのである。

たとえば、こういう方法はどうだろう?

① 傍観者自身が自分の親にいじめの事実を告げ、その親が教師に働きかける。

② 傍観者がいじめられている生徒の親御さんにいじめの事実を告げる。

③ いじめ傍観者が担任、その他の教師などに匿名の手紙などで伝える。それでも動いてくれない、あるいは期待できないときなどは彼らを飛び越えて学校(学校長)、教育委員会あてに送ってしまうのも一手かもしれない。

④ クラス数名以上が結託(けったく)して、担任にクラスに問題アリ!と訴える。

⑤ 学校でいじめられている子を表立ってかばったり仲良くすることがはばかれるのであれば、学校外でアシストしたり、電話、メールなどで連絡を取ることも当然できる。いじめられている生徒を孤立させないことが大事なのである。誰か一人でも自分をわかってくれるものがいる・・・ということは



こういった間接的な方法もあるということを教師はじゅうぶんに理解しておくべきである。

実際、私のクラスであった事例である。かなり太っている男子生徒に対する「ことばでのいじめ」の芽を、ある女子生徒の母親からの相談報告で早いうちに知ることができ、いじめの芽を摘み取ることに成功したことがあった。言っていたほうは何気ない「いじり」のつもりだったのであるが、当の本人は当時いたく気に病んでおり、いじりどころか休みがちになるほどだったのだ。

勇気ある一歩を踏み出した彼女はすごい。このように第一声を上げたり、はじめの一歩を踏み出す勇気を子どもたちに伝えようではないか?いじめられている子どもも傍観している生徒たちも、「先生に言ったって、大人に言ったって・・・」と問題を自分たちで抱え込み続け、問題が大きくなってから「助けて!」ではもう遅すぎる。

教師という人種もまた相談されるのは慣れてはいるが、自分の悩み、こころのうちはなかなか人にさらけ出せないもの・・・そういった意味で教師も常にオープンで相談されやすい雰囲気、環境づくりに日々努めなければならないのは言うまでもない。

また、これまで「傍観者」という一般的なことばを使ってきたがただ単に「見ているだけ」では、なにも「手を下してはいない」ということにはならないことに気づいてほしい。先述のように「消極的加担者(加害者)」にじゅうぶん成り得るのである。傍観者から直接的な加害者にかわっていくことが多いのはよく知られていることでもある。

傍観者の存在はいじめ加害者にとっては、都合の良いこと。「容認されている、問題ない」ととらえるのも当然である。こういった「悪」を見過ごす、見逃す、「見なかったこと」にすることはいじめを容認することに他ならない。

教師としてこれからも生きていくのなら、あなた自身のいじめに対する考え方の柱をもう一度確認しなければならない。いじめはどこでもいつでも起こって当たり前だからだけではなく、どのような人の心にも鬼は住んでいるものなのだから・・・

「 LOVE SONG ~please listen to my song~ 」TWIST ( 世良 公則 ) 詞曲歌:世良公則








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