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教員 ブラックすぎるけどブラックじゃない~ブラックの理由から考える嘘と本当、そして対策~いま、あえて教師という道を選ぶ意味~




これだけ毎日「学校、教員、部活=ブラック・・・」とニュースなんかで似たりよったりの情報をたれ流しされ続けると、もうお腹いっぱい、ちょっと食傷気味~って感じ。

結論から言ってしまえば、ブラックかどうかは「人によりけり」ということ。なんだかんだ言われても、「それでもやっぱり大好きで教師以外の道は考えられない!」という奇特な人から、「そりゃたいへんだけど、いまさら辞めると言っても踏ん切りがつかないし・・・」とコンサバなかたまで十人十色、百人百様、千差万別。ほんとうに人それぞれ、個人個人のとらえ方の違いなんだから、一方的に「ブラック」の側面ばかりに目を向ける最近の流れには「?」と感じる人も少なからずいるはず。ますます教員不足に拍車がかかってどうしてくれるの?って現場からの声も聞こえてきそうだけど、教師の勤務実態の厳しさを浮かび上がらせたのまた事実。

確かに私の現職時代であっても日常の業務は過酷さを極めた。しかし、好きでやってることだったから全然苦痛じゃなかったし、むしろ頑張って耐えている自分に酔ってたのかもしれない。バカは辞めなきゃ治らない~の見本で、案の定、身体怖し、教壇を降りざるを得なかった・・・

そう、あなたがたとえ教員を志さなくても、あなたが途中で学校を去ってしまっても、結局「誰か」がやるのは当たり前。

あなたというオリジナルな「先生」の代わりは誰にもできないけれど、その代わりは「誰か」が必ずやって、その人も代わりのきかない唯一無二の「先生」になっていく・・・結局のところ、教員の世界なんてものはこの繰り返しのまた繰り返し。

「教員が足りない足りてない」って言われてるけれど、足りてないのは「臨時的任用」の先生であって、定数分の教諭、専任は当然マンタン(この満タン定数が適正か否かはまた別問題)に埋まっていることは現場にいる先生ならみな知っていること。

今日は、このままじゃ未来を担うこどもたちのためにもたいへんなことになってしまうので、本来なら教壇を志していた人たちに再び教壇を目指してもらうためにも、いまあえて教師を目指す意味を、教員の世界をブラック(と私が感じていた)な面からとホワイトな側面からちょっと考えていきたいと思う。

教員の何がブラックなのか?

はじめに断っておきたいのだが、ここでいう「ブラック」とは私の場合(校種高等学校)のブラックであって、他の方にも必ずしも当てはまる~というものではないことと、他の情報の焼きまわしとかコピペなどでは決してないということ。当然、どのような働き方をしていたか~という私のオリジナルな環境も重要になってくるのでカンタンに記しておくことにする。(くわしい情報がちょっと知ってもいいかな~というちょっと変わった方は「かなり詳しい運営者情報」をご覧いただきたい。

※ 当然 校種、教科によるたいへんさの感じ方の違いというのは当然あると思われる。

➀ 教員になる前と退職後にに民間経験、現在は自営業&自由業
② 講師(常勤、非常勤どちらも経験)を除いた教諭としては11年奉職
③ 辞めた時が39歳
④ やめた年度の校務分掌(学年主任、生徒指導副部長、教科主任、運動部副顧問、教科研究会持ち回り年度(研究結果発表校)、十年研該当年度(前年度修学旅行引率のため一部研修未消化のため)などなど・・・ちなみにいわゆる指導困難校勤務
⑤ 通勤時間(クルマで片道平均40分程度)
⑥ やめた年度の平均的な勤務時間(朝6:30 警備員の方が未だ来てないので預かっている鍵で機械警備を解除する、19:30ごろ部活動を終えてからやっとデスクワークもろもろのはじまりで、退勤時間はたいてい深夜、時には日付をまたぐことも)
⑦ 土日はほぼ部活でつぶれる
⑧ 家庭ではペットと暮らしていたので、一日2回の愛犬の散歩とごはんをあげることが私の仕事だったのだが、散歩は一週間のうち1~2回程度しかできなかった
⑨ 家族の介護の役割分担もあり、ヘルパーさんのたのめない曜日、時間等はいわゆる何でも屋さんに頼んでしまっていた

私は教師になる前と辞めた後に学校の外の空気も吸って他人のメシも食べてきたので、一般世間と比べることも多少はできるけれど、新卒でこの世界に入ってきて学校以外の世界は全く知らない~という人も結構いるのが学校のよくあるある。こういうかたたちは、他と比べることもできないと思われるので、ブラックをブラックとも思わないある意味、しあわせな人とも言うことができる。

私が感じた教職のブラックさ

➀ そもそも教員のしごとをまじめにやり切ったら(やりきれないが)睡眠時間などゼロの世界


当然、こういった働き方をすれば、プライベートな時間など許されるべくもなく、すべてはこどもたちのため学校のため~という博愛精神にあふれた人たちから真っ先につぶれていく。こんな泣き言を言っても、学校での日常は待ったなし、雪崩を打つようにとめどない仕事の量の前に、優先順位をつけてとか取捨選択をして~などというもっともらしいご高説はかなりむなしい。なにせ、みな大事な仕事なのだから。こちとらまるっきりのバカでもないので、そのくらいない知恵絞りだしてすでに考えてますって。

当然、やってもやっても終わらないので残業に次ぐ残業=勤務時間などあってないようなものになってしまい、果ては持ち帰り残業。(と言ってもただ持ち帰っただけで安心しちゃって、家ではバタンキューで重いもの持ち帰っただけのむなしさが・・・も教員よくあるある)

② 一人何役も演じなくてはいけないたいへんさ


求められる役割が多すぎるということ。
ティーチャー、チューター、メンター、カウンセラー、アドバイザーくらいならまだしも、まったくやったこともみたこともない部活動のコーチングまで求められる強制貼りつき顧問になり、校外補導などでは他校生相手にポリスマンの役まで演じ切り、やっといすに座れて「明日の授業の準備だ!」~とはいかないのが教員の切ないところ、たまりにたまったデスクワークの山を一つずつくずしていかなければならないあの切なさ、むなしさよ・・・

③ ストレス耐性がハイなものが求められる

人間相手(職員間、生徒、父兄だあけではなく、それぞれのあいだに入るのが常なので板挟みストレスにも耐え抜かなくてはならない)がゆえストレスがたまりまくる。こじれる&長期化するとストレス度も倍加されてけっこうしんどい。しかし、一筋縄ではいかない人間関係のいざこざ、生徒指導もまた学校教師の魅力のうち~もまた真実。

特に指導困難校などでは、生徒指導にいちばん時間を持っていかれるので、教科など(失礼ではあるが実際問題として)は二の次になることもしばしば。こういった状況で、教科指導を夢見てきた若い人たちが辞めていくのを何度見てきたことか)

④ 助けて!教えて!が言えない特殊な空間

タテマエは学校全体教職員全体で事に当たったり、子どもたちに寄り添っていくことにはなっているが、個人の裁量で基本個人プレーで動かなくてはならないことがとても多い。これもまた教員の魅力のうちのひとつかもしれないが、人に聞くのは恥ずかしい、人に助けを請うのは恥ずべき事~という不文律がどうもこの空間にははびこっていると私は感じる。

このことは「教師の同僚性」などでも何度も話しているが、学校独特のものではないだろうか?「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざは学校ではもはや死語と化した。「お互いみんなそれぞれにたいへんなのに、自分なんかのこんなことで他をわずらわすのは情けないし恥ずかしい」他を頼るチカラ、他人を信用して任せる度量を持つことこそが現在の病める教員を救うと私は信じる。




⑤ とにかく休みがとれない(当然睡眠時間もなにもかも・・・)

決して短くはない教員人生で、穴をあけ人様(ひとさま)の時間を奪ってしまった経験は一度きり。これが最初で最後。愛犬が生死の境をさまよった挙句、死んでしまった日・・・電話で管理職に電話したところ「犬が病気くらいで・・・」とまで言われ、翌日感情的に教頭に詰め寄ったのもこれが最初で最後・・・

クラスも部活も授業もあるうえ、元気ありすぎの嬢ちゃん坊ちゃん抱えてて、そうそう休めない・・・そう、これがいちばんいけないこと。他を頼る、信じてやってもらう・・・このチカラが私には足りなかった。だから自滅した。みんなもっと他を頼ってもいい。

こんな感じだから、当然睡眠時間削りまくりで、自己の成長のための研鑽、読書など望めるはずもなく、ただただ目の前の仕事をこなしていく毎日を消化し、季節が流れいつの間にか年度も変わり、気付いたらもう若さは失われ、見事教員ベルトコンベアーに巻き込まれっぱなしの人生だったのでした・・・と「先生」はお決まりのコースをたどる。早々にコースアウトした私のようなものはバカの見本としてしか映らないのもまた怖いところ。

⑥ 初任者がいきなり担任&みたこともやったこともない部活の正顧問!

冷静になって考えるとよくわかる。民間で普通よほどのところでない限り、新人にいきなり出勤初日から「ハイ、それじゃいってらっしゃい!」とか「あとは任せたよ!」はないでしょ。しかし、それがあるのが学校というお仕事場。前に「全く経験も知識も、ついでに興味もない部活動顧問に!さあ、あなたならどうする?!」でもちょっと話しているが、みんながみんな私みたいに「未経験のスポーツに触れるチャンス到来!生徒ダシにつかっていっちょううまくなったろう!」なんて思えないのである。ふつうは・・・関東大会出場の常連校なんかで、前顧問がバリバリの体育会系教員で「ぼくは部活動やるため教員やってます」みたいなプレーヤーの後釜になった日なんかもう目も当てられない。当然父兄、OBからのプレッシャーはすごいものが。

よく部活は正顧問と副顧問が強制貼りつきになるが、バリバリ現役プレーヤーで新卒のお兄ちゃん副顧問先生から、退職間際のおっちゃん正顧問シロート先生がいろいろと教えを請う~なんてパターンだってあるのだから、いやはやすごいところ、学校は。

⑦ 叱ってくれる、いさめてくれる人がいない異常空間

同じ教科、学年、校務分掌であっても他の領域には踏み込まないのがよしとされているおかしな「教員文化」・・・これが延々と受け継がれていっていると思うと気がめいってくる。教職員、子どもたちその他もろもろの集合体なのが学校のなのであるから、この組織の健全な運営のためには、健全な批判精神は必要なのではないだろうか?

ダメなものをダメとも言えない、お互い傷をなめ合うようなズブズブの関係はとても正常とは思えない。まあ、他人に構っているほどみんなヒマじゃないし、関心もない、関わりたくないということなのかも。

⑧ 特定の人間に仕事の集中砲火を浴びせる理不尽さ

自分がされたからってムキになっているわけではないけれど、校務分掌の不平等さ不合理&理不尽さはきっとみんな感じていると思う。仕事ができる人間にだけ割り振るだけでも相当にヒドいのに、なんとかやってくれそうな人、断れない、文句の一つも言えない気の弱い人にむちゃぶりするのはいかがなものか?

まあ逆の立場に立って考えてみると、貼りつき案をああでもないこうでもないと考えなくてはいけない上の人もたいへんなのでしょうが、一応好きでなったわけなのだから、末端の心身の安全を図る義務を果たしてもらわないと。私は最後は職務命令出されてつぶされたけど、いまはあれでよかったのだと思える。教師という仕事は好きだったけど、あの働き方(というより飼われかた)を続けてたら間違いなくいまはこの世にいないから・・・その意味では当時の管理職に感謝、ほんとうに感謝。部活動顧問拒否~なんて当時はあり得ないというよりその発想さえなかった、平成ははるか遠くへと行ってしまったのだ。

よく残業代なし云々でブラックブラック~と騒がれているようだが、私の場合この要素はブラックには含まれない。だって辞めた39当時で総支給年7,000,000近く貰ってて、これ以上何を望もうというのか?当時は物欲も人並みにあったけれど、この仕事やってたら土台、買い物に行く時間さえも惜しいくらいなのだから。お金もらうより時間ほしい、寝たい!って思うようになっちゃう。土台、教員やるような人は、待遇目当てでこの世界に飛び込んだのではないと思う。

だから、いくらオカミが教職調整額を増やしたって、たかだか1~3万円のお給金がプラスになるレベルでしょ。これでは教師を志す者の増加にはあまり寄与しないような気がする。教師が相も変わらず魅力的な仕事であることには変わりがないのだから、それよりも教師の働く場の大局的な環境整備(はやりの言葉で言うと)が急務であろう。



教師という仕事のなにがブラックじゃないのか?

病める&辞める人がいる一方、やめるどころかますます毎日イキイキ!仕事に充実を感じまくっているしあわせな人も当然たくさんいる。当然、辞めたいけどもろもろの事情で辞められない、踏ん切りがつかないのでなんとか現場にしがみついているという人だっている。

この人たちをつなぎとめているものは大きく分けると2つ。それはもうお分かりだとは思うが、教職という仕事のありあまる魅力とその待遇である。仕事は教師以外やったことないという幸せな方はあまり気付かないというより他と比べようもないと思うのだが、ほんとうにいろいろな面でこの仕事は特殊すぎるくらい恵まれている。

死亡ひき逃げ事故でも起こさない限り、その地位は生涯安泰(退職後の再任用、福利厚生も含めて)で、シャカリキ熱血教師でも最低限の義務しか果たさないデモシカリーマン教員でも給与は間違っても下がることはなく上昇カーブを描き続け、人生設計も思うがまま。

10分遅れて授業いこうが、考査問題前年度の焼きまわしバンバン使おうが、校外補導後ご自宅直帰しようがよほどはみ出したり、とんがったりしない限り、誰もいさめてもくれない。果ては教科担当クラスの成績が下がりっぱなしになろうが、自分のクラスの生徒が何人辞めようが、当の責任者である本人は何にもその責を問われない。教員オンリーの人たちはおそらく「成果報酬」「コミッション」なんてワードは聞いたことがないと思う。

民間では「費用対効果」「数字」「成果」「実績「コストカット」・・・と日々、個人をコレデモカ!と追い詰める要素がふんだんである。「あなた一人養うのにいったいくらかかってると思うの? その何倍分数字で示してもらわないと会社やっていけないの!」「一分一秒のコスト意識を持て!」などとはよく言われたものである。

いったいぜんたい何が言いたいのかというと、教職とはやればやるほど大変だけど魅力的でドツボにはまる仕事である一方、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜くことが出来る仕事でもあるということ。(自己の良心の呵責に耐えられるかどうかは別問題として)つまりこのまったくと言っていい違う人種が同居している特殊空間が学校ともいえる。(どっちつかずの中途半端な人も当然同居人)

やろうと思えばこれほど際限がない仕事はほかにないであろう。教師の自由裁量に任されている部分がかなりのウェートを占めているのも中毒者を増やす一因となっている。頑張っている自分に酔っているセルフドランカーは見渡してみると結構いるものだ。

となると「働き方」を選べるということになる。いいや選ばなくてはならないのだ。「シャカリキ」教師、「リーマン」教員、「ドッチーモ」先生。だれがどれになろうが誰も咎めやしない。考えようによってはなんとフレキシブルでハッピーな仕事ではないか。

待遇面での身の安全が生涯約束され、成果も進退がかかるほどのものは求められない・・・ということはどっしり腰を据えて長期的計画のもとに教育活動に専念できるということになる。この要素は紛れもなく民間にはないホワイトすぎるもの。

つまり教師人生を健やかに全うしたいのであれば、自己の働き方、学校という職場での生き方をいまこそ見直さなくてはならないということ。




教師であり続けるために
自分はどのような働き方を選ぶか

異動校でモーレツ運動部の副顧問になった。いままでやったことなんてほとんどなかった卓球部。正顧問は事務連絡以外は一切合切練習に顔すら見せることのない完全引率顧問。仕方なくというより自らの意思で生徒のレベルに追いつくまでとはいかないにしても、ラリーの相手くらいはできるくらいのレベルになるべく必死にマシン相手に打ち込みやったり、果てはない時間削って卓球教室にまで通ったりもした。

しかし、これを面白くないと思ったのがこの正顧問。すべてにシャカリキに取り組んでいるのが癪に障ったのであろう。ある日、他に誰もいない分室にやってきて「先生、もうちょっとテキトーにやってくれない? オレの立場なくなるっしょ。前の先生はオレと足並み揃えてくれたんだけど。」と宣った。

「何がいけないのですか?先生も部活に出てもらえると子どもたちも喜ぶんですけどね」みたいに返した記憶がある。

これが彼の逆鱗に触れたらしく、「先生は独り身だから、自分の時間ぜんぶ学校につかえるかもしれないけど、みんながみんなそうじゃないわけ、わかってないんだな。オレなんか学校に出てくるだけでほんとたいへんなんだから」~と自己のたいへん「らしい」境遇を延々と聞かされた挙句、部活に出たくても出られない人。学校に遅くまで残ってたくとも残ることができないかわいそうな人の身にもなってみろ云々のお説教を垂れる始末。

私も堪忍袋の緒が切れかけて、「それはあなたの事情、私には私の事情があり私には関係のないこと」と切り捨ててしまった。正顧問でありながら、部の事務関係一切と練習すべてを人に任せてるくせして、朝の職会などではいっつもいかにもこどもらに寄り添っているかのような大会結果報告をとくとくと述べるものだから私も、もうウンザリしてしまって、大人げなくいきり立ってしまったのだ。

なぜにこんな昔話を持ち出してきたのかというと、前段の問いに答えるため。私なりにすべてを注ぎこんだ教師人生、あえなく身体を壊し、途中リタイア・・・一方の引率オンリー先生はいまでも見事に「先生」稼業を続けてらっしゃる。

カラダを壊しては元も子もないというバカの見本が私。教師を取り巻く昨今の環境を今一度考えてみてほしい。一人の人間の心身を破壊するほどの職場環境が正常であると言えるであろうか?早々にオカミが「環境整備」してくれることなど望めないのであれば自衛手段に打って出るしかなかろう。

若い時分は、みんなそうであろう。生活が仕事一色になっても、十分な睡眠時間が取れればそれでOK!と。しかしいまや、普通に教員やってたらその十分な睡眠時間の確保さえ危うい。そう老いも若きも、いまこそ自己の働き方について見直すべき時なのだ。




それでは、どうすればよいのか?!
これからの教師の働き方

教師という生き方は、働き方、仕事への取組みの姿勢によっては人間の心身を破壊しつくしてしまう仕事であることは先にも述べた。それでは、教師道を全うするためには(自己の矜持を捨てずに)いったいぜんたい具体的にどのようにしていけばよいのであろうか? 本稿の最後に私なりの提案を試みたい。

➀ 割り切り/見切り/思い切り

若いうちは、体力気力に満ち溢れ、おまけに自分の時間のすべてを学校に投げ打つことが出来るかもしれない。しかしこのトランス状態が自滅へとつながっているのかもしれない。私がそうであったように、シャカリキになっているときは、自己を鳥瞰俯瞰できないものだと思う。

こういうハイな時こそ、自分を見つめ直す時間をあえて取ったり、学校の外の景色を見て空気を吸って違い人種と交わることをすすめたい。全速力で突っ走るの結構、しかし教師の道は決してそのすべてを全速力で全うできるような短距離走ではないのである。むしろ、自己の体力気力と相談しながらペース配分を考えて行かなくてはならないロングランであろう。

家庭、親類縁者など守るべき人がいたり、あなたを待っている人、頼りにしている人がいる幸せな人も要注意である。こういう人こそ、割り切り的な働き方が求められる。私の現職時代にも、朝の職会にも顔を出さずいつの間にか来ていて、いつの間にかいなくなっていた家庭人が結構いたものだが、彼らもまた致し方なかったのであろう。

事の良し悪しは置いておいて、彼らは自分の心身を立派に守り通したことによって学校を続けられ、結果として守るべき人をも守ることができた。たしかに彼らの中には給料泥棒に似たような人もいたかもしれないが、大多数の人たちは、自分のやるべきこととそうでないことの取捨選択、そしてどこからどこまでをやるかをうまく見極めていたのである。要は割り切り、見切り、切り捨てである。それなりの思い切りがないとできない相談である。

② 時間で仕事の区切りをつけるという発想

ここ数年でほとんどの自治体で勤務時間をICカード等で管理把握するようになったと聞く。過少虚偽申告など何でもありのようだが、現職の友人の話では、管理職からの「早く帰れ!」コールが逆にストレスになっているという。一向に仕事は減らずむしろどんどんマシマシで、「終わっても片付いてもいないのに、早く帰れるか!」ということらしい。まさに時短が目的化してしまっている感じ。

このなんとも言えない切なさむなしさは私にも理解できる。でも、学校は今日一日きりの仕事ではないのである。学校は続くのである。どこまでも・・・今日一日のために明日、将来を棒に振っていいのか?ということなのである。

➀にもつながることではあるが、いまこそ何を取って何を捨てるかの視点が求められているような気がする。「そんなこと言ったってみんな大事な仕事で、捨てることなんてできない!」という真面目、誠実、几帳面、完全完璧主義の教員から潰れていくのはあなたも知っているではないか?私自身も「何か」をおろそかにすることが怖くてつぶれてしまった。一人に仕事が異常なまでに集中する校務分掌を敷いた管理職を恨んだどころで何ら問題の解決にはならない。与えられ、強制された役割、仕事に割り振れる可処分時間(自分の裁量で自由に扱うことが可能な時間のこと)を考えたうえで、その残された貴重な時間をタスクに優先順位をつけて全力で使い切っていくしかないのである。

仕事が終わっても終わらなくとも、一区切りが付いてもつかなくとも、自分で設定した時間になったらそのタスクは切り上げ他のタスクに切り替える・・・この繰り返しで最終的な一日の終わりを迎えることになる。そして、就業の時間も明日のことを考えてあらかじめ設定しておき、その時間になったら何がなんでも切り上げてしまおう。この思いっきりさが大切。



③ 何に特化し、教師として生きるか?

教師として生き残るために(ただ単に辞めずに~という意味では決してなく、教師としての矜持を保ちつつ)、この考えはこれからますます非常に重要になってくることであろう。教師としての仕事は本当に多岐にわたり、ここまでやったからハイ終わりなどとカンタンに境界線を引くことなどできないもの。それこそすべてにおいて全力で取り組んだとしても際限はなく終わりなどどこまでいっても見えてこないのがこの仕事。

自分の心身はたった一つきり、時間も労力も限られている・・・だとしたら自己のやらねばならないこと、やるべきことの精選が必要だ。校務分掌上、自分が絶対にやらなければならないものをクリアしたのなら、生徒指導上にかかわるもの、相談業務、対人関係にかかわるものをを優先して行い、あとは自分の教師として生きる道の信念に従ってタスクを細分化しこなしていけばいい。

教員には実にいろいろなタイプ、型が存在する。なかにはまれにすべてにおいて突出していて非の打ち所がない「なんでこんな優秀な人が教員やっているんだろうね?」なんて奇特な先生もいらっしゃるが、このような人をわれわれ凡人は目指すべきではない。自分の「すき」「得意」「やりたい、やってみたい」に素直に忠実になって仕事の優先順位をつけていけばいい。

クラス経営、教科指導、研究、生徒指導、部活動、部活動、管理職を目指すために頑張ったっていいし、組合活動にいそしむのも誰にも咎められるものではないと思う。要はあっちもこっちも手を出して中途半端に終わるよりは、何かに特化していくべきなのではないだろうか?教師も専門職、スペシャリストなのであるからして、何かの分野に明るい、オリジナルな専門家であるべきであると考える。

④ 誰かを頼る勇気、任せる勇気

これは先にも述べた「助けて、教えて!が言えない特殊な空間」でも話したことにはなるが、もっともっと教員はほかを頼っていいし、自分の弱さをひけらかしてもいい。すべて自分でかかえこむ~というのはナシにしていこうではないか? 「他を頼ることは恥ずかしいことだ、みんな忙しいのに自分のことで先生方をわずらわせたくない」なんていうのはいまではあり得ないし決してほめられたものでもないのだから。いまこそ、「お互い様」の精神を思い出そう!

そして、「ほかに任せる」という発想もまた今では重要。たいへんだからイヤだから他に押し付けるのでは決してなく、自分でやってしまったほうが早いかもしれないけどあえて他人に任せるのである。私はクラス運営では生徒に任せられるものは極力彼らに仕事、役割として責任を持たせ分担させ、そのかわりお互いの連絡、情報交換だけは密にしてやってきた。しかし、学年を任せられていたときが大失敗であった。学年ではじめて担任を持つものが複数存在したうえ、他とコミュニケーションを取るのが困難なスタッフもいたため学年業務のそのほとんどを丸抱えしてしまったのだ。いまとなってはもう遅いが、任せられない=信用されてない~ときっと感じたに違いない。

人から信頼されていないという人は、そもそも自分以外の人のことを信頼していない。「オレの考えていることは、他人なんかには決して理解できない」などのようにどこか自分を特別視してしまっているのであろう。人から信頼されるかどうかは、やはり自分が他人を信じている、受け入れている~かにかかっていると私はいまでは思える。

ちょっと長めにブラック&ホワイトを見てきたが、今の時代これだけ教職の過酷さたいへんさが喧伝されているのだから、それでもラクしたいなどというトンデモデモシカ先生は間違っても現場には迷い込んだりはしないであろう。だとしたら志ある人にとってはチャンスでしかない!

教職の魅力はいつの時代になっても決して色褪せるものなんかで決してなく、むしろ輝きを増していくものであると信じたい。

「誰か」がつないでいかなければならない教師という仕事・・・あなたにはその「誰か」になる覚悟はあるであろうか?

「さよならだけどさよならじゃない」詞:山田邦子 曲:KAN 歌:やまだかつてないWINK






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