興味も関心も、ついでに経験もまったくない部活動の顧問になってしまいました!あなたなら、これからいったいどのように部活と付き合っていきますか?
考えてみると、なぜ、これほどまでに学校は自らさまざまな役割をディープに抱え込み、肥大化してしまったのでしょうか?このままでは、まるまると肥えた学校に教師が飲み込まれ、その実害は生徒にも伝播していくのは確実です。
今の学校では、大人も子供も心身共に「ゆとり」「余裕」をなくし、お互いが首を絞め合っている状況とも言えないでしょうか?
その最もたるもの、筆頭に挙げられるのがやはり部活動問題でしょう。
教師を志し、これからの現場を担っていく未来の先生たちも、この部活動問題、ちょっと心配ですよね。
そこで今回は、近い将来教壇に立つみなさんに向けて、現在の部活動は何が問題であって、これから学校はどう変わっていくべきなのかについて一緒に考えていきましょう。現場のリアルな現実も一面からとらえるのではなく、両面からあらためて考えてみました。
部活動、教育活動外の位置づけと
合意なき決定、強制顧問制の問題点
部活動は教育課程外の教育活動と位置づけられてはいますが、現状では中学校、高校の教員のほとんどが何らかの部活動の顧問となっています。半(なか)ば強制です。学校の教育外活動という位置づけであるのに。
年度末近くに(大抵、1~2月)に部活動も含めた校務分掌についての希望調書が取られ、教頭との面談で3月中ごろには大方の割り振りが決まるのです。私はこれまでの教師経験のうち、すべてが運動部顧問でしたが、そのほとんどが自分の希望とはまったく違ったものでした。
私はもともと運動が大好きなので、そのスポーツに親しむ絶好のチャンス!と無理に思い込みなんとか乗り切ってきました。しかし、運動が好きな教師、教員ばかりではないのです。実際、運動が嫌いどころか、大嫌いな教員までが顧問となった場合の悲劇をこれまで何度も目にしてきました。(そういう校務分掌、教員配置をせざるをえない現場の切なる実情もあるのですが)
部活動の是非をここで問うているのではありません。部活動という、学校の教育活動外に位置付けられているにもかかわらず、学校で日々行われている部活動の教育的意義の重大さはもちろん認めます。部活動でしかみせない生徒のキラリ!とした表情。そして部活でしかできない指導もそこには確実にあるでしょう。
しかしここで問題にしているのは、半ば強制的に、そしてその貼り付けにまったく公平性を欠き、その道の専門家でもない教員が部活動顧問となっている現実なのです。私はこれを勝手に「強制顧問制」と呼んでいます。
そもそも、教師の専門性が求められ、本来教師でなくてはできない仕事とは何でしょうか?それはズバリ「授業」と「生徒指導」でしょう。(部活動でも、その競技、内容の専門家であったり、競技歴がある場合はその顧問教師にしかできない指導となるのでしょうが・・・)
すべての教員が、授業、生徒指導、学級経営、学年経営、各種事務、父兄対応、部活、渉外折衝等そのすべての仕事をオールマイティーに完璧に遂行できるのであれば何ら問題はありません。しかし、ほとんどの教員はこうはいきません。
つまり、仕事に強弱、優先順位を付け、何らかの仕事をおろそか、犠牲にしているのです。これは時間的制限があるうえ、生身の自分は一人しかいない以上いたしかたないことです。
このように、いくらやってもやっても次から次へと湧いてくる仕事があるというのに、放課後、土日休日のそのほとんどを部活動にもっていかれてしまっては、教員でなくとも心身共にダウンしてしまっても当然です。
部活動は、いわば教員の善意、博愛心、あるいは自己犠牲精神で成り立っている性質のものといえるでしょう。それなのに、教職員の善意、厚意にずっと胡坐(あぐら)をかいたままで、慣習的にその役目を引き受けてきた学校は、あまりにも肥大化し、身動きが取れなくなってしまっていてもはや自滅寸前状態です。
教職員の負担を減らすべく、ようやく最近になって自治体、学校がさまざまな試みにチャレンジしているようです。しかし、近い将来に教師の大幅な働き方改革がなされるとは到底期待できません。ましてや、部活動がこの世からすべて廃止、なくなることなんておよそ考えられないでしょう。
教職員であれど人間であり、家庭もあります。ならば、我が身は自分で守るしかない~と自衛の手段に打って出たからといって、彼らを誰が責められるでしょうか?長時間、長期間にわたる強制拘束が心身へ与えるダメージはたとえ好きでやっていたとしても、計り知れないものがあります。これはもはや「負担」といった域を越えています。
現在、この問題に一番危機感を抱き、自分と生徒、学校そして家庭をも巻き込んで悩み苦しんでいるのは当然現場の教師です。生徒と向き合う時間がない、授業の準備に十分な時間が取れない!という悲しい現実が一番の問題なのです。
一方、生徒の方は好きでやっているとはいえ、これまた本人、家庭へのダメージは大きいものがあります。学習へ支障をきたす、家族との時間が全く取れない、学校にますます縛られることとなり、社会とのかかわり、つながりが遮断されることになってしまうのです。果ては、深刻な健康被害にいたるケースもあるのです。
私のクラスの女子生徒もやはり吹奏楽部でした。尋常ではない長時間、長期間におよぶ練習に次ぐ練習・・・本人のパートはクラリネットだったのですが、さらに自分を追い込むかのように帰宅してからもかなり遅くまで練習していて、まともに寝る時間も取っていなかったのでした。
挙句の果てに学校で過労で倒れ、療養した後も今度は深刻な睡眠障害と摂食障害に陥り、学校も2ケ月以上休むこととなったのでした。理由が理由でしたので、授業時数の不足分は補講等で補充してもらい、何とか卒業はしたのですが(もちろん吹奏楽部は退部しました)卒業後今度はうつになってしまったのでした。
在部時はクラリネットということもあり、だいぶパート争いが激しかったらしいのです。それなのにいくら長時間練習しても練習してもうまくならない、認められていないと思いこみ、練習で自分を追い込むことが強迫観念みたいなものになっていったのでしょう。
このようになってしまっては、もはや彼女の頭には「やめる、退部」という選択肢はなく、「やめたい」という気持ちさえ起きなかったと思うのです。
このように、本人のキャパシティをはるかに超えた部活動は顧問教師、生徒ともども悲劇の主人公にしてしまうのです。彼女もまた部活動のあり方に洗脳されてしまった悲劇の主人公と言えます。
初任、若い教師を蝕む強制顧問制の問題点
初任者、比較的若い教員はほぼ確実に、運動部顧問に貼りつきになると思っていた方がよいです。学生時代、その道のスペシャリストとして大活躍してきた人であれば、専門性を買われて競技歴のある部活動への希望もスンナリ通るかもしれませんが、これも「絶対」ではないです。
実際、これまでの勤務校での例ですが、美術の初任者教員が美術部顧問になれずに、バスケットボール部顧問になった例がありました。彼のことを思い出すと、やはり辛いです。彼の場合、これまでほとんどスポーツになじんでこなかったインドア派であったのが、この物語を悲劇としてしまいました。
2年目も美術部顧問となれずに、バスケットボール部顧問続行で、年度途中で休職してしまったのです。講師経験もないストレート合格教員で、彼なりに一生懸命取り組んでいたようですが、部員とのトラブルでだいぶ悩んでいたようでした。
はじめてということ、そして運動が苦手~ということで生徒にだいぶ馬鹿にされて、次第に部活動から足が遠のいていき、いきついた結論が休職だったのでした。
前に私自身が、どうやってまったくの未経験の運動部と向き合ってきたかを、「全く経験も知識も、ついでに興味もない部活動顧問に!さあ、どうする?すべてはあなた次第!」で話してきましたが、このように前向きに楽しんでやろう!~と思える人間ばかりではないはずです。
そして、そもそも初任者や若年教員は授業、生徒指導のスキルもこれからまだまだ磨かなければならないという大変、かつ大事な時であるのに、未経験部活動に心身をもっていかれる部活動の時間は実にイタいです。
私自身、運動こそ大好きではありましたが、初任地でまったくの未経験のこれまたバスケットボール部顧問となり、授業以上にこちらの負担がかなり来ました。なぜなら、生徒の練習に付き従い、ホイッスルを吹けるようになるまでには、ルールブックも丸暗記するくらいの勉強量と実戦での練習、学習が必要だったからです。
おまけに、高校であるのに父兄が前面に出てくるような、とても盛んな部運営であったため、土日はおろか生徒休業日のほとんどをこの部活動にもっていかれたのにはまいりました。初任でしたので、初任者研修はもとより学ばなくてはいけないことがたくさんたくさんあったのです。
要はバランスの問題なのでしょうが、この部活動負担はかなりのもので、私の場合、明らかに部活動に偏り過ぎていて、あとからそのしっぺ返しが私を襲うことになったのでした。いまではいい想い出とも言えなくもないですが、もっともっと他のことも経験したかったと思うのです。
この校務分掌ミスマッチ、半強制顧問制はいったいどうにかならないのでしょうか?
少なくとも、初任者研修があける一年間は研修、自己研鑽に集中できるようにならないものでしょうか?初任の地は、その教師の教師人生を左右するような大きな意味を持った場所であると私は思います。そのような大事な期間に部活動一辺倒の生活を初任者に送らせても果たして本当によいのでしょうか?
このような悪習は変えようと思えば変えられるはずです。
変える気がないから、悪習を毎年毎年踏襲するだけなのです。
誰もやりたがらない運動部や積極的に活動していて土日が練習、大会で確実につぶれてしまう部活動を初任者、異動者に当てる、そして職員室の席の貼りつきだってそうです。誰でもいちばんイヤなのは前後の開閉ドアの直近の席のはずです。こういった言わば末席を来たばかりのものに強制的にあてがうという学校はいかがなものでしょう。
はじめてのものにこそ、いたわりの気持ちがあるべきだと私は考えます。
初任者が、初任の地の一年間でつぶれてしまう~というのは、もちろん本人の適性、能力、耐性による部分も大きいのでしょうが、奉職した学校によるところもかなりあるのではないでしょうか?初任者が教科指導にかけるじゅうぶんな時間を確保できない、生徒指導について学ぶ機会を奪われる~こういった悲劇は部活動強制顧問制によるところも少なからずあるのです。
ひいては、授業、クラスが荒れるということにもつながるのです。
ブラック部活に存在意義はあるのか?
すっかり悪者になった感の「部活動」ですが、そもそも「部活動の意義、意味、メリット」とはいったいぜんたい何なのでしょうか?カンタンに言うと「部活ってなんでやるの?あるの?」ですね。
建前(たてまえ)で言ってしまえば、ズバリ「心身の鍛錬」。これで片が付くでしょう。
しかし、現在日々学校の内外で行われている部活動は「心身の鍛錬」どころか、「心身の酷使」相まって「心身の痛苦」となり、それこそ心身共に燃え尽きてしまうことさえあるのです。
生徒にとって学業が学生の本分であり、教師はメイン授業で生きるべきなのに、サブであるはずの部活動がメインを脅かし、果ては絞め殺してしまう寸前までいってしまっているのが、「部活動」に「ブラック」という立派なカタカナが冠せられた現在の「ブラック部活」です。
つまり、「ちょうどいいところで止めておけばいいのに、やりすぎなんだよ!」というところでしょうか。ちょっとここで立ち止まって、もう一度「ガイドライン」を見直してみましょう。
ガイドラインの「前文」一部抜粋
(部活動は)体力や技能の向上を図る目的以外にも、異年齢との交流の中で、生徒同士や 生徒と教師等との好ましい人間関係の構築を図ったり、学習意欲の向上や自己肯定感、 責任感、連帯感の涵養に資するなど、生徒の多様な学びの場として、教育的意義が大きい。
ガイドライン策定の趣旨等から一部抜粋
知・徳・体のバランスのとれた「生きる力」を育む、「日本型学校教育」の意義 を踏まえ、生徒がスポーツを楽しむことで運動習慣の確立等を図り、生涯にわたっ て心身の健康を保持増進し、豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力の 育成を図るとともに、バランスのとれた心身の成長と学校生活を送ることができるようにすること
ほんの一部の抜粋ですが、このように部活動は生徒の将来に対して寄与すべきところが大きい、教育的意義のあるものとされているのです。
ガイドラインでは「やりすぎはダメよ!もっと休みなさい!」と言ってはいますが、ここが本当にむずかしい部分だと思います。
平成30年にスポーツ庁が学者識者を交えて「策定」しただけのガイドラインには、何ら法的拘束力はありません。実際、東京新聞が今年3月に春の選抜高校野球出場校対象に部活動練習時間を調査したところ、そのすべてが(無回答をのぞいて)ガイドラインなど遵守してやいないのです。そもそも拘束力もなにもないし、守る気などさらさらないということでしょう。
ガイドラインでは、「1日の活動時間は、長くとも平日では2時間程度、学校の休業日(学期中の週末を含む)は3時間程度」となっているにもかかわらず、これです。
果たして、これらの強豪校はこれらの練習時間のあいだ、チンタラ、ダラダラただ惰性で練習しているのでしょうか?決してそうではないはずです。おそらく綿密な練習メニュー、スケジュールが組まれ、息つく暇もないほどの濃密な時間なのでしょう。
後から詳しく話しますが、私が顧問をしていた卓球部の練習メニュー、時間もすべて考え尽くされてそうなったのであり、決して行き当たりばったりのものではなかったのでした。マネージャーがフォームチェックのためビデオカメラを回しながら、タイマーを片手にタイムキーパーも兼ねていたくらいなのです。
こういった根(こん)を詰めに詰めた部活であったため、私もこの部活のハード練習時間、メニューに納得できたのです。そこには「遊び」とか「なごみ」、「慣れ合い」などの入る隙(すき)はまったくありませんでした。
一心不乱に練習にのみ打ち込むその姿は神々しいまでだったのです。授業中のだらけた格好を普段見ている教科担任としては、これが同じ生徒、人間だとは決して思えなかったのでした。顧問としては複雑な心境でした。
前置きがだいぶ長くなりましたが。「ブラック部活の存在意義」に戻ります。結論から言ってしまうと存在意義、大いにアリ!です。
「ブラック」を大いに必要としている学校、部、顧問の先生、生徒、家庭、親があってこそブラック部活は存在できているのです。
考えてみてください。とてつもない弱小部活、あまり活動していない部活動が上の例のような練習時間、メニューを組めるでしょうか?「ブラック部活」とされている部活動は、それなりの活動実績と成績を残しているはずです。
そこには「勝利至上主義」の論理が当然あります。勝つこと、強いことがすべて~これです。そこに至る過程などは誰も評価してくれやしません。そうなのです、結果がすべてなのです。
「負けはしたけど、こころでは勝った!いままでよくがんばったもんね」~などというのは心のオナニーでしかないということです。
すべてがブラックであるからと言って、これらの部活動にまったく教育的意義はないのでしょうか?そうではないはずです。好きなものが集まって、やりたいだけとことん敷き詰めてやり抜く・・・そこには「何か」があるはずです。部活動顧問拒否先生なんかには決して見ることのできない景色がきっとあるはずなのです。
私も一時期は競技者の端くれでしたから、少しは彼らの気持ちが分かります。自分を追い詰めて、自分の限界を知り、そして限界を超えた時のあの高ぶる気持ちは、本気で競技に取り組んだものにしか理解できないでしょう。学業という本分がおざなりにはなるのでしょうが、彼らにとってそのようなことは正直どうでもよいことであり、彼らの集中力を持ってしたら学業の方も何とかなってしまうものなのです。
とことんやり抜く~このような部活動がなくなってしまとしたら、何かさびしいものを感じませんか?
繰り返しになりますが、好きなものが集まってやるぶんには何も問題はないのです。
「ブラック」と感じる、思うのは正直、まったくやりたくない教員、もしくは部活に意義を見つけてはいるものの、そのやり繰りに悩んでいる人でしょう。これらの人たちがなかば強制的に顧問に貼りつけになる強制顧問制がそもそも諸悪の根源なのです。
強ければそれでいいのか?
チカラがすべてなのか?
ガイドラインで練習時間、活動時間の縮小、削減を求めていながら、一方で各種大会、コンクールの数は減るどころか増える一方。これ、なにかおかしくありませんか?
大会で勝つためには、必然的に質の高い濃密な練習メニューを長時間繰り返さなくてはなりません。いったいどうしろと言いたいのか私は理解に苦しみます。結局、各種大会、入試制度自体が変わらなければ、このような小手先のガイドラインの策定などぐらいでは何も変わらないでしょう。
なぜって、勝つことが義務付けられている大会と中高時代の部活動活動歴、実績を評価する入試制度が依然としてあるのですから。
しかしだからといって、実害を被っている人たちの救済が見過ごされていいわけはありません。早晩にこういった大会、入試制度を変えることができないのであれば、各学校裁量で部活動そのものをコントロールしていくしかないのです。
これまでの学校での勝利至上主義、いわば競技の論理で突っ走ってきたツケがいまになって回ってきたのであれば、これからは教育的意義を至上とした部活動の在り方をあらためて模索、実践していくしかないでしょう。
一部のブラック大歓迎の顧問、生徒はさておいての感じになってしまいましたが、これらの人たちがあってのいまの部活動があるという側面もまた見逃せません。
みなさんの中高時代でもいませんでしたか?「部活の鬼」みたいな先生が。部活をやりに学校に来ているような先生いましたよね。私のこれまでの数々の勤務校でもやはりいました、確実に。
中高教師は教科担任制ですので、それぞれが何らかの教科の教員免許を持っています。それぞれの教科の専門家ではあるはずです。しかし、教員と言えどオールマイティーな人ばかりではないのです。クラス担任、教科担任、部活動顧問、そして生徒指導部のような各セクションに属したり、外部とのかかわりの役割も担っていたりと一人で何役もこなしているのです。
そこには得手不得手、好き嫌いということが当然出てきます。私の場合は、とにかくデスクワークが苦手で苦痛でした。みなさんも初任で学校に入る場は、学校で接する仕事そのすべてが新鮮で勉強になるのでしょうが、教師という仕事を長く続けていくのであれば、「自分は何で生きていくのか?」これを念頭に置いておいたほうがいいでしょう。
つまり、自分は何に重きを置いていくのかということです。
ほんとうに人さまざまです。教科のスペシャリストとなり、自らも学会に身を置き研究探求を怠らない人、教科指導はさておき?生徒指導のスキルに長けていて安心して任せられる人、事務的遂行能力、折衝能力、コミュニケーション力が高く管理職を目指す人、一生クラス担任をやっていたいくらいとにかくクラス経営が大好きな人、そして部活の鬼顧問です。
何で教員になったかと問われて、「そりゃ部活やりたいからだよ」と答える教師が必ずいるはずです。そのくらい、部活動には授業とはまた違った魅力があるのです。私はもちろんどちらも大好きですが、クラス担任と教科担任、そして部活動顧問・・・教師の仕事がこれだけであれば学園天国でしょう。
授業も生徒と同じ時、空間を共有し、非常にライブ感のあるかけがえのないものではありますが、部活動の場合、基本、同志が集まり、それぞれ、またはみなで一つの目標に向かって切磋琢磨していくのです。当然いい時ばかりではありません。
さまざまな人間関係のトラブル、伸び悩み、妬(ねた)み嫉(そね)み、家庭間とのトラブル・・・挙げて言ったらそれこそキリはありませんが、クラス経営とはまたちがったダイナミズムが部運営には確実にあります。
このような負の側面を乗り越えて、みなで何とか乗り切ったときの達成感、充実感はまた格別です。一度この快感を味わったら病みつきになること確実です。やはり、体感、共感といった人間の感覚に訴える部活はスゴいです。
このような魅力にもまたあふれた部活動なのですから、部活動が「自分が自分であるためのかけがえのない存在」となっている教員がいても何ら不思議でもありません。このような顧問にとっては部活動の存在がブラックに映るはずはないでしょう。放課後が楽しみなこの気持ち、私にも分かります。
長時間労働であっても何ら苦ではなく、むしろその自らの労働に誇りをもっているというか、自分に酔っているようなハイな感じになるのですから不思議なものです。
しかし、学校教職員のみながみな、このような部活の鬼教師ばかりではないのです。部活の鬼顧問もまた、学校構成員の一人にしかすぎないのですから、組織には調和というものが求められて当然です。「突出するな、でしゃばるな!」という個人レベルのことでは決してなく、学校全体として部活とどのように向き合っていくか?という大きな転換期に差し掛かっているということなのです、いまは。
また、勝つことよりもやることに意義を見出せ~と言っているわけでもないのです。それは、少ない時間の中でも「勝つこと」を目指すことは可能であると考えるからです。いまこそ、学校のスリム化、高度化専門化が求められているのです。
これまた持論になりますが、これからの学校にはもっともっと「ゆるい」といっても決して遊びではなく、誰もが気軽にスポーツに親しめるような、そのような「部活動」があってもいいと思うのです。スポーツという存在は本来、学生時代の一時期で完結してしまうようなものでは決してなく、生涯を通して鍛錬、楽しんでいくものであると考えるからです。
シャカリキになって自己を極限まで追い詰めるような部活動もあって当然良いし、ゆる~く皆で一生楽しめるようなスポーツを学校で見つける~なんてことがあっても良いのではないでしょうか?
私は校種が高等学校でしたが、現代では高校生の部活動加入率が本当に低いです。中学校時代に猛烈にやってきたものにこそ、高校でも続けさせたいのになかなかそうはいかないのです。彼らに言わせると、「もうあのような大変な目にはあいたくない」「高校生活を楽しみたい」・・・これなのです。
いまこそ、これからの部活動のあり方がもっともっと議論されるべきでしょう。
部活動指導員制度は
部活動顧問の救世主となり得るか?
結論から言いますと、現段階では救世主とまではなってはいないでしょう。新しい取り組みということもあり、まだまだ各自治体、学校ともに手探りの段階です。
勤務条件、採用条件、資格要件もほんとうにさまざまであり、雇用形態はアルバイト、業務委託がほとんどで、当然正式採用ではありません。資格要件は教員免許が無くても構わないところももちろんありますが、そのほとんどは教員免許所持者(授与経験がある)に限定しています。指導員は学校教育法に基づく非正規の「学校職員」と言う位置づけですので、当たり前といえば当たり前なのかもしれません。
あくまでも生徒相手の「指導」なのですから、競技レベルがすごくて、経験があるだけでは何かとたいへんでしょう。特にトラブル時が心配です。教員であったならこれまでの経験則からさまざまな解決策が導き出していくのでしょうが、いくら名選手であっても名指導者になれるという保証はどこにもないのです。
そして各顧問と連携、協力しながら部の運営、生徒の指導に当たっていくという重要な役割であるのに、たとえば週3、一日3時間だけでいつもは学校にいない~という存在は本当に心もとないです。
これらを含めた、指導員にかかわるリスク管理をあらかじめ敷いておくこともまた大切なことでしょう。下手するとさらにさらに問題を抱え込むことになるからです。
しかしですよ、公立で時給1,300円から(私立ではもっと高めですね)の小遣い銭で、ハイレベルな経験、スキルが求められ、そのうえ研修も必須~このような求人に応募がそれほど集まるとは思えません。平日放課後、社会人でしたらまず無理でしょう。となると自由人、フリーター、退職引退教員などの奇特な人たちからしか応募は望めないことになります。
求人では、生徒とともに一緒に汗を流せて、その競技が大好きなら経験不問~と謳っている求人もありますが、それでも現場はやはりスペシャリストを求めているのです。なぜなら、部活動指導員導入の趣旨は、教員の過重労働削減の一助となるということよりも、経験も興味もついでに関心もない教員を陰に日向に支えることにあるのですから。
やはり本気でこの制度に取り組むのであれば、まずは各自治体、学校に一任といったかたちではなく、おおもとのもうちょっとしっかりとした法整備が必要でしょう。そして人を動かすにはやはり、お金です。つまり、どれだけ本気で取り組んでいけるかかっていると言えるでしょう。
ただ、このように新しい風を学校に吹き込むことはある程度は評価できると思えるのですが、ここには多くの問題をはらんでいることにも留意しなければなりません。
教員の多忙化解消のため、部活動の専門性を高めるために部活動を学校から切り離していく最近の動向には、もっともっと慎重なプロセスが必要です。学校が自らの主体性を手放してしまった結果、子どもたちが指導者に恵まれなかった場合やトラブルに見舞われた場合など外部の勢力にさんざん振り回され、悲劇的な状況に陥る可能性もじゅうぶんに考えられます。
結果的に、間に入り調整、コーディネイトしていく負担を負わされるのは学校です。
また、外部の部活動指導員にはお金を使っても、自前の教員にはびた一文払わないという前例踏襲をし続ける学校の在り方も考えていくべきです。土台、部活動を担当する教員とアフターファイブ&土日をフル満喫教員とがほぼ横並びの給料や待遇である状況はどう考えてもおかしいでしょう。さらに細かいことを言えば、部活動と単にひとくくりにはできない相談で、一年365日フル稼働同然のモーレツ部活と幽霊部員数名の部活動の休日手当が一緒というのもどうも解せないでしょう。
本気で変えていくのであれば、仕事の軽重、時間の長短などありとあらゆる評価基準をもとに適正に(と言ってもこれまた難しい問題)評価していくシステム構築が不可欠。
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恐怖!!運動部顧問の実態!
ひとくちに「運動部顧問」といっても市内大会出場レベルから全国制覇クラスまで、そのレベルはいろいろで、その活動状況もさまざまです。その競技歴もまったくない顧問がレベルの高い部活を任されることは稀ですが、まったくないとは言い切れません。
私がいい例で(陸上、軟式硬式テニスの競技歴あり)、異動時に卓球部顧問となりました。この部は県では強豪校で知られ、顧問もこれまでそのほとんどが競技経験者で指導歴も豊富なものがその顧問となっていたのでした。
前顧問がその道のスペシャリストだったのですが、異動で他校に移ってしまったため御鉢(おはち)がまわってきたのです。卓球ははるか昔、体育の時間でちょっとやったぐらいのレベルでしたが、テニスと似たようなものだから何とかなるだろう・・・くらいの大甘に考えていました。
大甘どころではありませんでした。激甘だったのです。
とてつもなく奥の深い競技で、生徒と同じレベルまでにはとうとう最後の最後まで到達することはできませんでした。(当たり前かもしれませんが)
元来、負けず嫌いの性格も手伝って、学校にマシンがあったので、マシンと生徒相手に兎に角、練習しまくりました。生徒のための練習であるはずでしたが、あの頃はとにかく、自分のレベルを上げ、生徒とラリーではなく、試合ができるレベルまで行きたかったのです。そこまで行かないと、生徒の練習相手もつとまらず、アドバイスも何もあったものではないと思ったからでした。
(ソフトテニス顧問もしてました)↓
当時の卓球部タイムスケジュール
朝練60分~(朝のSHR開始前)
放課後練習 15:30~20:00(21:00)
土日9:00~16:00(休憩60分)(二部練:にぶれん:午前と午後に分けて行う練習のこと)
これが私が顧問をしていた間の1週間の練習時間です。もちろん、祝日もです。生徒の長期休暇も基本すべて練習、もしくは練習試合でした。前顧問の練習メニュー、練習時間を最初はそのまま踏襲していましたが、さすがにこれはやりすぎと思ったのと、部活以外の自分の仕事をこなす時間のキープのために練習時間の短縮を生徒たちに求めたのです。。
なんとか生徒たちは納得させたのですが、今度は父兄が前面に出てきました。生徒顔負けの競技レベルの父兄の話を聞くうち、高いレベルを維持するためには必要不可欠なメニューと時間ということがわかり私も腹をくくることにしたのです。(このように競技によっては父兄がとても熱心な競技もあるのです。野球、卓球などはそうですよね)
今では笑い話ですが、異動後一番はじめに生徒の練習に付き合ったときに、21:00を越えてしまい、練習を終えて学校の前まで戻ったら校舎まっくらで誰もいない!と相成ったのです。 体育館で練習しているため、照明も施錠もそれぞれ別々だったのです。異動後間すぐで、最初そのシステムをきちんとつかんでいなかったために、校舎締め出しをくってしまったのでした。
着替えもクルマの鍵もすべて校舎の中です。たまたま幸運なことに、体育教官室で残業をしていた体育科教員がいたため、自宅までウェアの格好のまま送ってもらいました。後にも先にも手ぶらで帰宅したのはこの時だけでした。そのうえ体育館シューズで・・・
このような練習時間ではあくまでも一つの例ですが、教員は何も部活動専従職員ではないのです。その他、クラス担任、教科指導、各部所属(生徒指導部、進路指導部・・・)各種委員会所属・・・その他いろいろありすぎてキリがないですが、当時の私は、完全に部活動が主となりその時間のやりくりで悩まされ、睡眠時間はこの期間平均3~4時間くらいだったと記憶しています。
これだけではおさまらないのがブラック部活のすごさです。合宿、各種大会参加、遠征、練習試合、父兄会、果ては民間の大会まで参加~と年間をとおして、まともに休んだのは正月の3日間だけだでした。これが現実です。
もちろんすべての部活動が、このようなタイムスケージュールで行われているわけではないでしょう。しかし、です。いわゆる「強豪校」と言われている部活動、県大会、ブロック、全国大会の常連校となっている部活動はおおよそこのような感じと思ってもらってまず、間違いないでしょう。
私がこれまで経験してきた学校ではやはり、みなさんの想像の通り、野球部、吹奏楽などの活動状況が凄まじかったですね。もはや「スーパー」を通り越して「ハイパー」「ウルトラ」の世界でした。最も、野球部監督や吹奏楽部顧問などはその道の専門家がほぼなるのでしょうが、はたで見ていてかわいそうだったのは、野球部の部長先生、そして吹奏楽部の副顧問です。
たとえ好きであったとしても、あの拘束時間、土日休日完全拘束でやりぬいた彼らは、やはり「ハイパーサイヤ人」「ウルトラマン」なのでしょうか?でもですね、私を含めたいたって普通の人はいくら努力したって「スーパーサイヤ人」にだってなれやしないと思うのです。
正顧問と副顧問(初任は副顧問?)
それでは、各部の貼りつけの実際はどのようになっているのでしょうか?たいていは正顧問と副顧問(学校によっては第一顧問、第二顧問と呼んでいるところもありますね)が一人ずつというパターンでしょうが、大所帯(おおじょたい)の部活動などでは副顧問が複数体制で、それぞれ役割分担しているようです。
メインとサブという位置づけですが、すべてにおいて実にさまざまです。学校、部活動によって。
メインであってもまったく練習に顔を出さず、大会引率だけ(それも土日ではない平日大会)引き受ける教員も実際いましたし、「副」であろうが、正顧問と同じようにシャカリキになって生徒とともに汗を流す顧問もいました。要は部内での顧問同士の話し合い(場合によっては生徒とも)、個人の裁量に任されているのです。
あなたはどちらのスタイルでいくのでしょうか?
授業とはまた違ったスタンスで、生徒と「何か」を体感、共感できる部活動の意義は計り知れないものがあります。授業では決して見せないキラリとした表情をみせてくれたりもして、部活でしか味わえない感動がそこにはあります!
しかし、繰り返しなりますが、一方で教師の多大な尽力(「犠牲」とは決して私は言いません)によって成り立っているのも紛れもない事実なのです。
これからは時代の趨勢(すうせい)として、徐々に外部の専門家に業務委託されるようになるのかもしれませんが、教師となって教壇に立ったその日から「部活動」問題と真っ向から向き合わなくてはいけなくなるのです。
ご存知のように、「教科指導だけしたい」「部活動はやりたくない!」という人にはそのようなきちんとした仕事が用意されています。 「非常勤講師」という立ち位置、立場です。私も経験したことがありますが、一コマいくらでの契約です。
つまり、授業をするだけでよいのです。授業が始まる前に来て、終えれば帰ってもよい契約ですね。授業のない長期休暇時の給与、そして賞与がきちんと保障されているところがあったり、なかったりと学校によってまちまちのはずですから、これらを希望する方は事前にきちんと確認しておく必要があります。
そして、特に「学校」にこだわらなければ、「専門学校」「予備校」「塾、各種スクール」という選択肢もあるのです。実際、教科教育法、教授術のプロフェッショナルは彼らの中にこそ、いるのかもしれません。彼らは成績向上、資格取得に特化した専門技術集団なのですから。その分、実績、成果が即求められ、学校勤務の人たちと異なり、競争も激しいのです。
学問のすばらしさを伝えられない学校
部活動で放課後、休日のすべてをごっそりと削り取られたそのツケは授業、生徒にいきます。十分な準備も出来ずに臨んだ授業は自分で教壇に立っていても、そのつまらなさ、ノリの悪さが分かります。学校の柱を成すのは何と言っても「授業」であると思うのです。
教師は生徒に自己の専門教科の魅力、面白さを語らなければなりません。
そのためには、十二分の時間と準備が必要!授業が生徒に伝われば生徒は教師を信頼できるし、授業こそが生徒指導の要(かなめ)ではありませんか。教師はただその授業のクラスに行き、授業終了までクラスにいた~という事実さえあれば、授業が成立しようが、つまらなかろうが、基本的に誰も咎(とが)めもしないし、そもそもそういった評価システム自体、これまでは存在しませんでした。
しかし、生徒はしっかりと教師を評価し値踏みしているのです。教師が「部活で授業の準備ができなかったので~」なんて言い訳は生徒にはまったく関係のないこと。学校がその柱たる「授業」をおろそかにし(決しておろそかになどしていない~というのは建前であって、結果としてそうなってしまっているのです。)、このままの道を進んでいくのであればますます、学校は自らの首を絞めることになっていくことでしょう。
学校が生徒の学力を担保できずに、生徒が塾に通うのはなぜでしょうか?
塾講師の経験もちょっと長い私からしますと、おおむね塾業界には教えること、生徒の学力を上げることに長けたスペシャリストが多いのです。なぜなら、彼らは競争の世界で生きているプロだからです。自己の受け持った生徒の学力向上、出口合格のみが、その講師評価の指標となります。父兄も含めた信頼も、成績向上が前提ではじめて成り立ちます。
学校教師は教えるプロであったはずなのに、今や確実に塾業界に教えのプロは流れているのです。私の学生時代のある友人は、とにかく歴史が大好きで、源氏物語の研究に学生時代のすべてを注ぎ、その世界の魅力を熱く何時間も語る専門家でした。
国語教育で地元に奉職希望だったのですが、今では予備校で古文の講師をしています。彼は両親が教師であったので、学校に求められるのは教科の専門性ではなく、トータルバランスであるということにいちはやく気付いたのです。こういった優秀な人材の流失は実に痛いです。
学を極めたスペシャリスト、学問が大好きな人財がどんどん流失しているのです。彼らこそが子どもたちに伝える「何か」を持っているはずなのに・・・学校が本来の学校でなくなってしまうのではないでしょうか。
教師が本来の専門性を取り戻す日
このような日は、ほんとうに来るのでしょうか?最近になってやっと、学校のブラック問題、教員の部活動負担問題が議論されるようになってきましたが、誰もが納得できるような働き方改革までは、まだまだ時間がかかるでしょう。
なぜなら、学校は慣習といいますか「従前通り」が大好きですから。それでもこういった動きが出てきていることは、生徒、教師、学校、社会にとっても望ましいことではないでしょうか。そこで、批判覚悟で「部活動改革」へ向けてちょっと思い切った提案をしてみます。
①部活動顧問は希望制とし、競技経験者を優先とする
ただし、教員の負担をできるだけ公平にすべく、校務分掌は考慮されます。学校全体で校務分掌のルールづくりから始めなくてはいけなくなります。
②欠員を部活動指導員、外部の専門家に委託する
部活動指導員は学校職員という位置づけにやっとなりましたが、指導員以外にも民間スクール、専門家、地域の競技者の力を大いに活用すべきです。外部の血を入れ交わることは大いに学校の活性化となり、開かれた学校への道筋となるでしょう。
③部活動を総合的に統括する専門セクションを創設する
部活動顧問をされた方ならおわかりであると思いますが、部活動に係る事務作業(各種大会参加手続き、諸納付金手続き、父兄向け文書作成等)がなかなかのボリュームとなって教員の肩にズッシリとのしかかってくるのです。負担を少しでも軽減するために部活動に係る事務を一気に引き受けるセクションがあれば現場はどんなに助かることでしょうか!
本来であれば諸外国のように教師に係る事務作業をすべて処理する事務部門があるのが望ましいのですが、そこまではいきなりは望めないでしょうから。
このセクションは単に部活動に係る事務一切を引き受けるのみならず、教師の部活動勤務状況把握もこなさなくてはならないのです。なぜなら、たいていの学校では放課後、土日休日の部活動状況を管理職が管理していないからです。
私が十年以上部活顧問をしていた時、管理職が土日の部活を見に来てくれたことなど一度もありませんでした。これは大きな問題です。問題を問題と思っていないことが大問題だと思うのです。
④部活動手当を手厚いものとする
私が十数年奉職した公立高校は土日にいくら部活動業務に従事しようが一律一日あたり「2,000円」でした。現在では公立ですと「3,000円以上」が相場と聞きます。しかし、退職後一時勤務していた私立女子校では、運動部顧問の場合、日ごとの手当以外に一か月一律「二万円」上乗せプラス、宿泊を伴う部活出張の場合、一日当たり「一万円」が支給されておりました。
いくら教師が「お金のために働いているのではない」と言っても、現在のところ教師の尽力によるこの部活動業務の価値を、お金以外に換算できるものは見つかりません。
やはり、働かざる者との「差」を目に見えるカタチで示すことは絶対必要でしょう。
⑤部活動活動状況を精査、評価する仕組み、セクションの創設
部活動顧問の貼りつき、割り振り以上に現場からの不満が多いのが不正の横行です。こんなことを話すとみなさんは幻滅するかもしれません。しかし、これが現実です。これまで勤務していた学校では少なからず、やってもいないものをやったとして手当を不正受給したり、大会引率を副顧問に任せ、自分は途中から帰宅、果ては来もしない~例を挙げたら明日になってしまいますが、こんなことがまかり通る世界なのです。
すべてがそうだとは決して言いませんが、完全に清廉潔白な場所であるとは言えないのです、学校は。
そこで、このような新しいセクションの創設が望まれるのです。毎年、部活動予算編成時にはその部活動の人数、経費消化状況、活動状況、部活動成績などさまざまな要素を勘案(かんあん)に入れて、各顧問同士が話し合い予算の割り振りが行われます。
そこに、各顧問の活動状況、勤務姿勢もぜひ入れるべきだと思うのです。そもそも本意ではないにせよ、いったん貼りつき、決定事項になったからには教師であり続けるならば全力を尽くすべきであるはずです。練習には土日も含めてまったく顔を出さず、平日の引率だけ喜んで引き受け、手当だけかすめ取っていく~こんな不正自体が糾弾されるどころか、誰も分かっていて指摘しない、できない世界が土台おかしいのです。
教職員の部活動従事業務も教育活動外とはなってはいますが、やはり正当に評価されるシステムに変えていかなければなりません。
かけあしで思いつくままに提案してみましたが、みなさんもきっと気付かれたことでしょう。そうなのです、これらのすべてに「お金」がついてまわるのです。手厚い指導、フォローをするためには人財をもっともっと増やさなくてはならない・・・そうなるといくらお金があっても足らないということになります。
しかし、敢えていまだからこそ、教育に学校にお金を投入すべきなのです。教育行政の話にはなりますが、本気で変えようとしないからいつまで経ってもダメなのです。変わろうとすれば変われるのではないでしょうか?
⑥部活動の在り方を考える保護者会の積極活用
部活動は保護者、家庭の協力なしでは活動できません。私がかつて顧問を務めた部活動でもとにかく保護者が前面に出てきたがったものでした。私の場合、これを逆手に取り定期的に保護者交流会と名付けて行っておりました。
机をキチンと並べて、年度初めの部のこれからの計画を練りあう保護者会から、ほんとうにラフな親睦を目的としたものまでさまざまでした。もちろん、生徒も入れてです。特におすすめなのは、生徒の練習風景を見てもらうことです。
よく練習試合、各種大会などは父兄も来るとは思いますが、練習を見せる部活動はあまりききません。これらの父兄会を通じて風通しが良くなったせいか、父兄の協力、理解が前にも増してよくなったのですから活用しない手はないです。
そして最後に、これはまず実現不可能でしょう。しかし、あえて言わせてください。
⑦部活動ガイドラインの厳守を各校に徹底させ、違反した学校には何らかのペナルティを与える
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やりたい人、ヤル気のある人が顧問になるべき!
適材適所ということばがあるように、要はやりたい人にやらせればいいのです。考えてみてください。まったくその競技の未経験者でヤル気まったくなし、先ほどの例のように部活にまったく顔も出さず平日の引率教員だけはホイホイと喜んで引き受ける。このような教員に誰が教わりたいと思うでしょうか?
一番の被害者は生徒ですが、こういった教員も見方を変えれば、また被害者でもあるのです。教育外活動と言う位置づけであるのに半強制的に校務分掌でその役割を割り振られているのですから。
繰り返しになりますが、これからの時代、学校はもっとスリムになり、各セクションでその専門性をもっともっと高めていかなくてはならなくなります。そのためには現況のなんでも屋教員スタイルから脱却しなくてはいけないのです。
そして、これまでのように家庭、社会がこどもたちのすべてを学校に依存していくのではなく、地域、社会全体で子どもたちを見守っていくスタイルに転換していくべきです。
実際、大阪府ではいじめ、不登校等が多い学校に「生徒指導専門」の教師を配置し、その教師の授業は講師等で負担し、着実にその成果を上げているといいます。このように「従前どおり」ではなく、よかれと思ったことには積極的にチャレンジしていかなくてはこれからの時代、学校は学校としての役目を果たせなくなるでしょう。
教師はその専門性を尖らせてこそ、教師であると言えるのではないでしょうか?授業の準備をする時間も、寝る暇もろくに取れない・・・仕事といえば思いつくのは子どもたちとは直接かかわらない、雑多で煩雑な「仕事のための仕事」・・・
このような教師が専門性を磨くチャンスが与えられていない現状では、自尊感情も自己肯定感も湧いてはこないことでしょう。
ここまで話を聞いて、怖気づいてしまった未来の先生もいるかもしれません。現状は変えるべきだ~とみなが思っていても現に部活は存在し、みなが顧問を受け持つのです。であったなら現状を嘆いてばかりいたって仕方ありません。
やるか否か、真剣に向き合うか否かを決めるしかありません。
特に若いひとたちは「運動部」顧問を持たされる傾向にあります。初任でいったら、まずあたると思ったほうがよいです。親しんだスポーツがないあなたは、今日から何でもいいので運動に親しんでみることをぜひぜひおすすめします。
「カラダを動かす」ということは、身体のみならず脳の活性化にも良いことが分かっています。子どもたちと教室を飛び出し、いっしょに体を動かし、汗を流す~ほんとうのところ、これだけで十分なのではないですか?「体感」「共感」ということばがあるように、カラダでアタマで感じ合える教師がいまこそ求められているのです。
このステージには、あらたな出会い、発見、感動があることでしょう。持論になりますが、運動部顧問は、なにもその道のスペシャリストでなくともよいと思うのです。生徒に寄り添い、一緒に前進していく熱意と愛情さえあれば・・・ 生徒もきっとそのような指導者、顧問教師を待ち望んでいるのではないでしょうか?
どのような顧問、指導者になっていくか?それはもちろん、これからのあなた次第です。
関 連 記 事・情 報
※「全く経験も知識も、ついでに興味もない部活動顧問に!さあ、どうする?すべてはあなた次第!」