クラスを持っていて、いまなお後悔していることがいくつかあります。その一つが、いわゆる「いじり」に関するものなのです。いじりの実態が、実は「いじめ」になっていた事実に気付くのが遅れたのです。
いじられる生徒は「いじられキャラ」などと呼ばれ、一見楽しそうで本人も喜んでいるようにも見えたりします。一方、いじっている方はあくまでも「ウケねらい」「からかい」「引き立て役」などと自分たちでは思っていることでしょう。でも、ほんとうは涙を笑顔で隠していたとしたらどうしますか?いくら笑っていても、心で泣いている場合だってあるのです。
まさにこのようなケースが、私の受け持ったこどもに起きてしまったのです。
教師がリード!いじめといじりの線引きは困難!
「いじめ」と「いじり」の「境界線」なんてものは「ない!」、あってないようなものだと今では言えます。
いじっている者が「いじめ」のつもりはなく「いじり」と思っていても、いじられている当人がイヤな気持ちになったりツラいのであれば、それは「いじり」とは決して言えないでしょう。「いじめ」以外のなにものでもないということです。つまり、本人の気持ちがどう思うか、どうとらえているかがすべてです。
いじっているものの認識など、身勝手なだけであり考慮する必要はまったくないのです。
クラスに実直で正義感の強い、ある男子生徒がいました。自分のことよりも他人のことを優先して考えてあげられる、心に余裕を持った生徒でした。一方、とてもナイーブな面も持ち合わせていました。クラスの係り、委員などにも皆から推されたりすることも多く、いつも愛称で呼ばれたり~と担任としては人望があるのだな~程度の軽い認識でした。
しかし、授業中、彼が発言をした時などに見受けられた場の雰囲気が、彼を嘲笑したように思えたため、これは何かある~と初めて感づいたのでした。即刻、彼とふたりきりで話し合いの場を持ちました。
最初のうちこそ、「いじられるのも悪くない」「まったく気にしていないし、みんなに悪気はないよ」などと強がっていたいた彼ですが、「自分をからかって何が面白いんだ、もううんざり!」と吐き捨て、いつの間にか「みんな」が「あいつら」に変わっていたのでした。
温厚で優しい彼に「あいつら」とまで呼ばせるに至り、遅ればせながら事の重大さに気付いたのでした。案の定でした。暴力こそ伴いませんでしたが、こういった小馬鹿にした振る舞い以外にも彼を傷つけるに十分なクラスの問題行動が浮かび上がってきたのでした。
彼には想いを寄せていたクラスメイトがいました。そのことを知っていた男子生徒たちが、「○○も△△のこと好きなんだから、告っちゃえ!」とあおったのです。これをまともに受けた真面目な彼は、実際告白して玉砕します。それをさらにネタにして彼を嘲笑の的としたのです。
これは男として、人間としても決して許されるべきことではありません。「いじめ」と同等、いやそれ以上に恥ずかしく情けない行為です。危機感を抱いた私は行動に出ました。うまくクラスは回っているとの甘い認識と、私の至らなさが引き起こしたのですから。
まず、「いじり一派」を呼び出し、深く傷ついている本人の胸の内を話しました。その場の全体指導だけに終わらず、継続して個別の指導も何度も行いました。これらに関連した生徒はすべて父兄を召喚して、やってしまった事の重大さに気付かせました。本当は指導部に上げて、学校からの指導も視野に入れていたのですが、担任裁量でやってくれと相成り、とうとう指導に上げることは叶いませんでした。
また、本人の了承を得て(というより、彼自らの進言により)、クラス全体でこの「いじり」と「いじめ」の違いについて考える機会をも持ったのでした。
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「いじられキャラ」でい続けるツラさ、せつなさ・・・教師として何をなすべきか・・・
いじられキャラは、その役割でいる限り、みんなの中で「自分の存在感」というものはあり続けます。しかし、「自分はクラスの雰囲気を明るくしている」「重要なクラスの役割なんだ」などと自分で勝手に都合の良い方向に解釈して、自身を納得させるのはとても危険なのです。
しかし、心中「このキャラをやめたら・・・」という不安、ツラさを抱えていて穏やかではないでしょう。
この不安、辛さ、切なさ、イライラが本人のカラダとアタマココロをむしばんでいくのです。心身の異変をきたすだけでなく、自傷行為や他傷行為などに及ぶことも珍しくありません。まずは、児童生徒の心身の安全確保が第一です。
一番こわいのは、「いじり」から明確な「いじめ」へと発展することです。そうならないうちのごく初期の段階で、この「悪の芽」を摘み取ることが何よりも重要なのは言うまでもありません。
実際の指導で注意しなければならないことは、「あせりは禁物!」です!すぐ状況を変えようと躍起になってはいけません。本人は、イヤなことに対して「イヤ」と言えないからツラいのです。そのジレンマに陥っているから切ないのです。
この気持ちを十分に汲んだうえでの慎重な指導が必要です。あからさまに「いじり」は「いじめ」だ!~とクラスでぶちまけるのは簡単ですが、まずは本人の気持ちを最優先に考えた慎重な指導が求められるのです。徐々にでいいのですが、やはり最終目標は「いじられキャラ」からの脱出、「NO!」と言えるキャラへの脱却でしょう。
「いじられキャラ」でいる時は素の自分でありません。つまり違う自分をあえて演じているのです。こんな状況が長く続くといいことはありません。こどもの生きる場所は何も学校だけではないのです。家庭、さまざまな社会活動、趣味活動、フィールド等、とにかく自分が自分でいられる場所に子供を置いてあげましょう。
集団での状況が好転しない時など、なおさらこういった安息の地がこどもにとって重要になってくるのです。
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「いじり」と「いじめ」の境界線がなくなる怖さ!
大人と多感で成長途上の子供の感覚、モノのとらえ方はかなり違います。まず、教師はこの事実を認識すべきです。
成熟した大人であれば、ドライで割り切った「いじり」が「いじめ」に発展することはないかもしれませんが、しかし相手はこどもです。いじっているうちに段々と感覚がマヒしてくるのです。さらに「いじり」がエスカレートしてきても、「ただいじってるだけ」、「かわいがってるだけ」「わらいを取ってるだけ」~とすべて「~だけ」や「~のつもり」だけで片付けようとするのです。
教師として、このこども特有の危険な考えを毅然とした態度でただす必要があります。いじる側の勝手な「遊んでいただけ」「ジョークのつもり」といったいいわけは通用しない~と生徒に認識させる必要があるのです。
「いじめ」は、心身に危害を加えるほうがいくら「~のつもり」「~だけ」といいわけしても、「言動の事実」のみで判断されるのです。そして被害者がイヤでつらく感じているのであれば、それは「いじめ」と認められるようになっていることをこどものあたまに叩き込む必要があります。
最初は単なる「いじり」であったものが、徐々に徐々にエスカレートしていって、感覚もマヒしていき、いつの間にか「いじめ」そのものになっていくのですからこんなに怖いことはありません。
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人の尊厳を傷つける行為は何であれ「いじめ!」
①だれも傷つけない
②いじられるとうれしい、たのしい
③自分がいじられたい時のみいじってくれる
この条件をすべて満たしたときのみ、「いじり」が「いじり」であると言えるでしょう。人を傷つける言動は何であれ、それは「いじめ」です!まずこの認識、大前提に立ち、教師はリーダーシップを取っていかなけばなりません。
「笑いを取るため、場の雰囲気を盛り上げるためであっても、人を傷つける行為は決して許されないことであり、教師として絶対に許さない!」という決意を示し、このメッセージをことあるごとに送り続けていくのです。ブレてはいけません。首尾一貫が何よりも大切です!
いじっているほうは楽しいかもしれませんが、いじられている人間は心で泣いているのです。たとえ顔では笑ってはいても・・・「こういうのって、なんかおかしいよね、ちがうよね~」こういう声が自然と湧き上がるようなクラスでありたいものです。
そうなのです。こういうクラス、部活にしていくのも教師であるあなたの双肩にかかっているのです。
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最後の一句
これくらい 安易な気持ちが 命取り