「あなたは、生きるために生まれてきたよ 決して命亡くすためじゃない」「きっと みんなが 流れ星 誰かの願いになる」~川嶋あいさんがつくった曲「流れ星」~
両親も今はなく、養父母にも死なれてしまったあいさんは何を想ってこの歌を書いたのでしょうか?
「いのち」、それは自分の意志で手にしたものではなく、代々脈々と受け継がれているかけがえのないもの。だとしたら、自らのいのちを断とうとする「自殺」という行いは許されるものなのでしょうか?そこまで追い詰められた辛さ厳しさ悲しさは、もちろん本人にしか分からないもの。
若さゆえ、追い詰められまわりが何も見えなくなり最悪の選択をしてしまう子供たちのために、いま、教師、大人ができることがあるはずなのです。
あいさんは、人とつながっていないようなどのような人であっても、実はつながっていているんだ! それでも生きていくんだ、生きていかねばならないんだ! と言っているような気がするのです。
小中高生自殺者数320人の現実を
どう受け止めるか?
2016年の警察庁統計によると、320人という尊い命をそれぞれ自らの手で亡くしてしまったのです。小学生12人、中学生93人、高校生215人、全体の3分の2を男子が占めています。
あくまでも統計ですが、その理由として、学校関係問題が約4割、家庭問題が2割5分、健康問題が2割としています。
大人の自殺が年々減少しているのに対して、子どもの自殺は横ばいもしくは微増状態なのです。大人、成人の自殺も含めてここ日本では、自殺の実態調査把握、研究が諸外国と比べてたいへん遅れていると言わざるを得ません。
「いのち」というものは亡くしてしまったら、取り戻すことはできない尊いものであるがゆえ、その予防が何よりも重要なはずです。学校での自殺予防教育は、ほとんど行われていないというのがその実態でしょう。
なんでもそうですが、起きてしまったことはどうしようもないこと。誰かの死を決して無駄なものにしないために、その死を徹底的に見つめなおし、そこから学べるものを得、次に活かすことが何よりも重要なものになってくると思うのです。
どのような現象、要因が重なると、こどもは死へと向かうのか?そして、まわりの人間はどのようにかかわっていたのか?これらを徹底的に洗い出していくのです。そうすることによって、300ものいのちが「死」を選択せざるを得なかった「現実」と「背景」から、きっと浮かび上がってくる「何か」があるはずなのです。
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何が「異常」なのか?
なぜ、現代は生きづらいのか?
夏休み明けの「9月1日」にこどもの自殺が突出しています。早く学校に行きたくてウズウズしているこどもがいる陰で、この日を深刻なつらい思いで待たざるを得ないこどもがたくさんいることを思うと胸が痛くなります。
現代のこどもは、さびしがり屋でとにかく傷つきやすい繊細、ナイーブな面と、他に対して攻撃的な面の二つの顔を持ち合わせています。自分を中心に見過ぎで、なんでも自分がいちばん!なのです。そして、人間関係をつくっていったり修復したりして、いい関係にもっていくのがとても下手なようです。時代の変化ゆえでしょうか。
むかしは同年代、異なる学年での遊び、集団活動を通して子どもなりの、子供ならではのソーシャルスキルを磨いていきましたね。泣かし泣かされ、励まし励まされて大きくなっていったものです。現代の日本はどうでしょうか?
「便利が不便」の一言でしょう。人を通さず、感情を交えず済んでしまうことがなんと多くなったことでしょう。間違いなく、現代がすごく生きづらいこども(に限らず人間全体)が、たくさんたくさん何とか生きているのです。
友人と繋がっていないととにかく不安!
友達はいるには、いるけど話を合わせていくのがしんどい、ストレスたまりまくり!
人にどう見られているか、嫌われてないかにとにかくこだわりすぎ!
異常です。異常とは「正常でないこと」なのです。
決していじめなんかじゃなく、「孤独孤立」が認められていた「よき学校時代」を知る者としては悲しい限りです。友人関係とは、お互いが認め合う過程の中で自然と結ばれる関係であって、人為的に機械の中から生み出される関係では決してないと思うのです。そういったものから生まれてずっと続いていく友情も、もちろんあるのでしょうが、面と面を突き合わせ育んでいく友情と比べると、なんとも面白くないものだと私は思います。
みんなに「いいね」されなくともいいのだ!
私はわたしの「ありのままで」いたいんだ!それでいいんだ!
それが許されないのが現代だとしたら、やはり、「異常」で生きづらい世の中ですね。特に学校がすべての子供たちにとっては・・・
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何が子どもの「自殺予防」につながるのか?
これまでのような一斉授業で、共通の価値を一方的に教師から伝達していくような「予防教育」では無理があるでしょう。
「自殺はいけません」
「他人を傷つけてはいけません」
「いのちが一番大切、尊い」
「自殺で悲しむ人がいます」
「どんな生き物でもいのちがあります」
これらの上っ面の言葉で、どれだけこどもたちの心を響かせることができるでしょうか?
小さいアリは踏みつぶせても(殺せても)子猫の頭をひねりつぶせる人はあまりいないことでしょう。なぜ?命に軽重があるからでしょうか?それとも、罪の意識の重い軽いではなく、感覚的なものから来るものなのでしょうか?
そして、他殺と同じように、なぜ自殺はいけないのでしょうか?「自殺」は触法行為ではありません。
果たして、この答えを見つけられる大人がどれだけいるでしょう?
それは「個」と「孤」から読み解くことができるような気がするのです。
全体の「絆」でつながっているように見える「個人」も、「孤独で孤立」しているようにみえる「孤人?!」も、全て等しくこの地球上の構成員であり、いったん生を受けたからには命尽きるまで、自らの使命を果たし、命を全うする義務があるのです。
つまり、自らを傷つけることは、他人を傷つけるのと同じということなのです。
人間誰もが、自らの意思で生まれてきたわけでは決してない以上、死ぬるときを勝手に決めていいわけがないのです。自分の命は自分のものであると同時にみんなのもの、この地球上のもの~という考え方です。
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「自殺不安」に苛まれているものからすれば、何を甘いことを~となるのでしょうが、私自身「自殺」を考えたこと両手併せても足りないのです。それでも何とか生きてきました。日々辛くとも生きていかなくてはいかないのです。それは生きていかなくてはいけない「義務」があると同時に、私ならではの生きる道「権利」があるからなのです。
日々、教壇に立つ教師は、「生」と「死」についての自分の思いを真剣に語ることから始めていくべきなのではないでしょうか。そこからすべては始まります。そしてこれらの活動は一時のもので終えてしまうものではなく、長期にわたって行われるべきものなのです。
もちろんそこには、どのような「個」、そして「弧」も認め育んでいくという教師のあたたかく、決して見捨てない眼差しが必要なのは言うまでもありません。
人間だれしも必ずぶちあたるさまざまな悩み、問題も、ブレイクスルー思考、自分と向き合う時間、人との絆からその解決の糸口は見つけられるのでしょう。
日々なんとかギリギリ生きている子どもたちを教師は認め、励まし、子どもたちもまたお互いに思い合う関係をいまこそ築いていこうではありませんか。
そしてがんばっている先生自身も、自分で自分を「いいね」しようではありませんか!
最後の一句
どんな子も 生きる権利と 義務がある
「流れ星」川嶋あい