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「あの夏いちばん静かな海」北野武監督~一生に一度、こんな夏が来る~真木蔵人/大島弘子/小磯勝弥









ほぼサイレントムービー&サイレントロマンス、そしてノスタルジー・・・

とても静かだ。すべてが「静」であり、際立った「動」も抑揚もない。聾唖者カップルと海、サーフィンにまつわるひと夏のストーリー・・・
そこには当然会話など存在せず(手話なども一切なし)、彼らを取り巻く人たちのあたたかい眼差しを通して二人のこころ模様が浮かび上がってくるだけ。

タイトルが語り掛けてくるように、「あの夏」とは過去形であり、貴子(大島弘子)の追体験の対象なのかもしれない。季節は巡り巡って「あの夏」以来、なんどもなんども夏が通り過ぎていった・・・いくら季節、歳を重ねてもやはり、ひと夏であった「あの夏」が「いちばん」なのであり、かけがえのないものだったに違いない。

ただ「いちばん静か」であっただけでなく・・・

そこには「何か」があったはず・・・

そしてもしかしたら、「あの夏いちばん静かな海」とは貴子の「あの夏」なのではなく、観る者にとっての「あの夏」なのかもしれない。それぞれの胸に去来する「あの夏」・・・
そんな開かずの扉を開けるきっかけとなってくれるような映画でもある。

キャッチコピーは「浜辺に捨てられた折れたサーフボード、もう誰も振り向かなかったけど二人にとっては大切な宝物だった」「一生に一度、こんな夏が来る」

残された者はいつも切ない・・・

それでも生きていかねばならない。普通の毎日はそんなことお構いなしにどんどん進んでいくのだから・・・

ストーリー自体はいたってシンプル。登場キャラクターも恐ろしく少ない。

ある日、折れたサーフボードを拾った茂(真木蔵人)はサーフィンにどんどん夢中になっていく。それをいつも波打ち際で優しく見守る貴子。夢中になるあまりまわりが見えなくなってくるが、やがて彼のひたむきさ、真面目さにみなあたたかな手を差し伸べるようになっていく。

それは「かわいそうな人」などという憐れみから来るものではなく、単に「仲間」「同志」として自然とそういう風になっていったのだろう。はじめは見様見真似であった彼の波乗り技も磨かれていって、サーフィン大会で入賞するようにまでなる。そんなある日、いつものように貴子が海に後からやってくるが、そこには茂の姿は無く、波打ち際でただよう彼のサーフボードだけが残されていた。

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茂がその後どうなったのか映画では何も描かれていない。たぶんいなくなってしまったのだろう~そう観る者に思わせるだけ。

ラストのこのシーンだけでなく、はじめからラストまですべてにおいて観る者にその解釈は委ねられていて、その想像の幅は無限大である。それだけ観る者の自由度は高い作品ではあるが、創りて、特に聾唖者カップルを演じる真木蔵人と大島弘子の苦労は並大抵のものではなかっただろう。

と勝手に思っていたら、のちに真木蔵人は監督の演技指導は一切なく素で自由にやらしてもらった~と語っていたのを知り、ガッカリしたのと同時に素の彼を見たような気がしてなぜかうれしかったのを覚えている。

黒澤明監督、淀川長治も絶賛したというこの作品の根底に一貫して流れるのは「静」であり、そして感じられるのは人の温(ぬく)もり、「温度」である。彼らを取り巻く人たちの眼差しがやさしすぎる。

ゴミ収集会社の先輩、サーフショップの店長そしてサーファー仲間、ズッコケ2人組(北野武の少年時代を描いたNHK連続ドラマ「たけしくん、はい!」でたけし少年時代を演じた小磯勝弥がサッカー少年役)・・・みんな茂が好きなのだ。特にズッコケペアが実にいい味を出している。

茂がサーフィンを始めたことを最初は小馬鹿にし、からかうがほどなくして彼に感化され自分たちも興味を持ちはじめ、サッカーをすっぽかし相方と2人でズッコケサーフィンを始めるにようになるのである。

北野武監督の前2作の暴力的な描き方と打って変わって、フツーの人、特に弱者とされている人たちに向けられるこのあたたかな眼差しはいったいぜんたいどこから来るものなのだろうか?
そして、どうしようもないくらいのこのかったるさ、けだるさ、バツの悪い間の長さもどこから来るものなのだろうか?

どこにも緊張感など存在せず、どこにでもいるようなフツーの人の日常、普通の時間がたんたんと普通に描かれているだけなのだ。定点カメラというのだろうか?アップも非常に少なく、本当に日常のワンシーンを切り取っただけの印象を受ける。そこが北野監督の狙いだったのだろう。ただ単にどうでもいいようなシーンを延々と撮ったわけではなく、根底には彼なりの計算で、余計なものをすべて削ぎ落し尽くしたミニマリズム思想が流れているのであろう。

この絶妙な「間」があるからこそ、観る者の想像力を掻き立て、その幅が無限の広がりを見せるのだ。

最後に、彼が「聾唖者」という聴覚障碍者にスポットを当てたことに注目をしてみたい。

この作品に登場する人たちはみな、耳が聞こえない~ということで大上段には構えておらず、普通のことと捉えている。監督も日常風景の中にみんなチャンポンのように溶け込ませてしまっている。しかし、茂が出場したサーフィン大会は耳が聞こえない出場者がいることなんて露思わず、みんな耳が聞こえる&話すことができる~という前提で演技がどんどん進んでいく。

あらかじめ気を付けておかねばならない茂もどうかしているが、大会運営は呼び出しコールに応じなかった(られなかった)茂を失格とする。うなだれる茂の表情に、サーフィン大会の失格だけではない何かを宣言されたような哀しさを私は見た。

マジョリティーはマイノリティのことなんか気にも留めないのが今の世の中・・・この映画が撮られて30年近く経つがいまも昔も何にも変わらないのだ~とつくづく思う。打ち寄せる波は私たちが死んだ後もその営みをこの地球が滅びるその日まで繰り返すであろう。

いまさらサーフィンなんて~なんて声が聞こえてきそうだが、それぞれ人は自分の世界を持っていてそれぞれの世界観がある。そんなどこにでもいる普通の人たちに監督がつぶやいたような作品である。ほんとうに「いちばん静かな」映画である。

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おまけ~私の好きなシーン~

①茂の清掃会社の先輩が茂をサーフィン大会に出させてあげようと社長に直談判するシーン

お願いするのに、社長の机に手をつきながらタバコをふかし、それも社長の灰皿で火をもみ消している。

②サーフボードはバスに乗せられないよ~と断られ、貴子のみバス乗車、茂は歩きで帰途に就くのであるが、貴子が彼に追いつき茂が貴子の肩を抱き寄せるシーン

ほんとうにこれが唯一のラブシーン

好きな素振りを見せあったり、恋人同士がよくやるような仕草等一切なし。サーフィンやっている茂を砂浜からただ見つめてるだけ・・・脱ぎっぱなしの服をていねいにいつも畳んで。
目と目で分かり合える二人っていいね。

③ひょんな行き違いでケンカをしてしまった二人。しかしある日、ふざけて海に落ちてしまった人が助け出されるズッコケシーンに遭遇し、顔を見合わせて笑いこける~これだけでもう仲直り

おまけ 余計かな?と思ってしまったシーン

①ラスト 茂のサーフボードにサーフィン大会で撮ってもらった二人の写真を貼り、貴子が海に流すシーン

せっかく想像に任せてくれたのに、敢えて現実を突きつける必要があったかどうか?

②ラスト いかにもお涙頂戴よろしく、貴子のフラッシュバックなのかどうかは分からないが、これまでの思いでシーン、スナップを総集編のように並べるショット

観る人によってだろうが、久石譲のBGMと相まって一気に涙腺崩壊を狙いすぎ。あざとさが見え隠れして、この作品の狙いから少し逸れるような気がしてならない。でも久石譲の音楽はグッド!この作品に抑揚、躍動感を与えていると思う。

ヒロインの大島弘子、まさしくまぼろしの女優である。映画初出演にして初主演。そしてこれが彼女の最初で最後の仕事となったのであるから。以降、一切合切、TVにも映画にも出てはいない。彼女のその後のミステリアスさが、なおさらこの作品を物悲しいものとしている。

聾唖者である主役二人は当然まったく話さない、その他の人たちの言葉もいたって少ない。それなのになぜこうも観るものを退屈させないのか?その答えはあなたのこころにきっとある。

『あの夏、いちばん静かな海』1991年 101分

監督・脚本・編集 北野武

出演 大島弘子/真木蔵人他











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