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30年ぶりの村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」再読は私に何をもたらしたか?踊らされるのではなく、踊るのだ、自らの意志で!

私がどうしても、「ダンス・ダンス・ダンス」に戻らなくてはならない理由。それは、そこからやり直さなければならなかったからだ・・・

作中の「僕」が、いるかホテルに行かなければならなかった理由をもじってみた。

人は、自分の道を誤ったり、行く末を案じた時に必ず立ち返る場所がある。それが、どのような結果を招こうとも。学校勤めを辞め、短くない時間が流れ、何とか自分の居場所を再び見つけたつもりでいた。しかし、ここもまた安住の場所ではなかったようだ。







ふと、最近そんなことを思うようになっていた自分がいた。そんな時に実に30年ぶりに手に取った本が「ダンス・ダンス・ダンス」

もちろん、昔買った上、下は無くしてしまったので買い直した。春樹さんのあの独特の世界観に浸りたかったのと、30年前の何ものにもまだ染まり切っていない自分にあの時代にタイムスリップしたくなってしまったから・・・

春樹さんの他の作品を読んでいる方はもちろんお分かりかと思うが、前作とつながっていたりする人物も登場してくるが、今回はそれは切り離して独立した世界として私はこの作品と再び向き合うことにした。

読み終えてまず思ったことは、時間が経っただけでこんなにも作品に対するイメージが変わったり、作者の発するメッセージもまるっきり違ったものに感じられるようになるものか?ということであった。

当時、学生であった私は、「何を実にカンタン、シンプルなことを、ワザワザむずかしくこねくり回して、言葉あそびが好きなんだから、この人はもう・・・」「結局、人間みんな死ぬわけだし、そんなに気難しく考えなくても、もっとラクに行こうよ」くらいにしか思えなかった・・・恥ずかしながら。

主人公の「僕」。34歳、バツイチ独身、スバル乗り、アパート暮らしのフリーライター・・・「僕」の年齢を超えてしまった「私」が「いま」この小説から感じるのはあいかわらずの「虚無感」と「虚脱感」、そしてその対極にある「希望」。過去の虚しさとこれからの期待をいっしょに味わえる村上ワールド炸裂である。

僕、五反田君、ユキ・・・満たされないもの、大きな荷物をそれぞれ抱えて閉塞感満点であるが、未来に希望を抱かせる存在、それがユキとユミヨシさんであろう。「羊男」はたしかに存在したのかもしれないが、やはりいまを生きる私たちは幻想の中で誰かに踊らされるのではなく、現実の中で確実に自分でステップを踏んでいかなければいけない。

解釈本、研究本も出ているくらいだから、感じ方とらえかた、解釈の仕方も本当に百人百様であろう。したがって、ここでは、極力私の今の解釈を抑えようと思う。読み方、感じ方などあってないようなものだし、みんな本くらい自由に読みたい。

大切なことは、そこから何を得、糧にしていくかということではないだろうか?

高度資本主義社会に生きる私たちは、春樹さんの言う「システム」の中に組み込まれていて自分の世界を自分で生きているようで、生かされているだけ、そうただ単に踊らされているだけなのかもしれない。

しかし、「踊らされている」とは分かってはいても、私たちは踊るしかないのだ。生きていかなくてはならないから。ただ、どうせ踊るしかないのであれば、私は自分の意思で自分のステップで踊りたい。



羊男に自分の居場所、行きつくところが分からないことを告白した僕に対して、羊男はこう答える。

“踊るんだよ。音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってことはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃ行けない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。… (中略)だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。… (中略)それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り”

羊男はこうも言っていた。「こっちの世界に来ないよう、踊り続けろ!」と・・・

作中の「僕」の問題、闇は実際、私自身の問題だったのかもしれない。そう思えてきた。やけに重なるのである。

現実と幻想・・・

その境目はほんとうにあるのであろうか?違いってもしあるとしたら、いったいそれは何であるのか?この広い世の中には幻想の中に生きる喜びを見出している人たちだってきっといるはずだ。

たとえまぼろしを見続けていようとも、現実から目を離さない限り人はこの世の中でうまくやっていけるはず。

このとらえ方の決定的な違いが五反田君と僕であろう。五反田君はこう言っていた、生きていた時分に・・・

~「いや、そうじゃない。君と僕とは違う。僕は一人の女を愛している。そして、それは全く出口のない愛情だ。でも、君はそうじゃない。少なくとも君は何かに導かれている。いまは混乱しているかもしれない。でも僕が引きずりこまれているこの感情の迷路に比べたら、君の方がずっとましだし、希望だって持てる。少なくとも出口があるという可能性はある。僕のは全くないんだ。その二つの状況には決定的な違いがあると思うね」~

自分の中の自分をどう処していいか分からず、自分がなにものであるかを最後まで知らず、人を殺めてしまい最後には自分をも殺してしまった五反田君。

五反田君は現実を生きているようで実は生きていない、いや生きられなかった、いわば生きる屍であったのだ。かわいそうに。「僕は今に女房を殺すかもしれない。コントロールできない。それはここの世界で起こっていることじゃないからだ。(これは作中でこのように強調されている)僕にはどうしようもないんだ。遺伝子に組み込まれているんだよ、はっきりと」

コールガールを殺した後のこのセリフである。もうこの世の中では完全にアウトである。

しかし、僕はかろうじてこの世の中の現実に踏みとどまることができた。

それはユキとユミヨシさんの存在があったからだ。

僕と相通じていたはずであった五反田君は死んでしまった。五反田君が幻を生きていたのであったとしたら、年の差21歳の不思議少女ユキは思いっきりのリアリスト。「もし僕が中学生だったら君に恋していただろう」というセリフはちょっと恥ずかしかったが、お互い見えない何かに導かれ惹かれ合っていくものの、僕は現実を、先を見ることができた。

その隙間を埋めてくれたのが、決して幻ではなかった生身のユミヨシさん。

僕はユミヨシさんによって再生できた。よって羊男はもう見えなくなってしまうだろう。




ラストで僕が言った言葉が実に重たい。「この世界は脆く、そして危ういのだ。この世界ではあらゆることが簡単に怒り得るのだ」

そうなんだ、何が起こってもおかしくない世界、それが私たちが生きている「いま」なのである。昨日までの日常が当たり前でなくなるこの世界。

何一つとして確実なものなんかないのかもしれない。

こういう時代だからこそ、いまだからこそ「確実なもの」「絶対的なもの」を愚直に求めて生きる生き方があってもいいのかもしれない。たとえ、そんなものがなかったにせよ。

所詮、現実であるこの世の中だって、一瞬の幻にすぎないのだから・・・

私に残された時間を考えるとき、「やはり生き急ぐしかないな」そう素直に思えた。

「この世の中ではあらゆることが簡単に起こり得る」

このフレーズは絶望とも希望とも受け取れる。受け取る側の受け取り方、感じ方によって。

自己の意思とは別の所で見えない「何か」に踊らされているとしても、やっぱり私は自由意志で「踊っている」と死ぬ時まで思っていたい。

このサイトは主に教師志望の人が多く訪れてくれているが、そういった方がこの本を読んだとしても、何か得るものはきっとあるであろう。まさに自分で踊っているようで踊らされている・・・学校はそのような世界かもしれない。

あらすじ(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「僕」は3年半の間、フリーのライターとして「文化的雪かき」に従事していた。1983年3月のはじめ、函館の食べ物屋をカメラマンと二人で取材した。書き上げた原稿をカメラマンに託すと、「僕」は札幌行きの特急列車に乗る。「いるかホテル」に行ってキキ[注 2]と会うためだ。しかし「いるかホテル」(正式名はドルフィン・ホテル)は26階建ての巨大なビルディングに変貌していた。

「いるかホテル」の一室で羊男と再会し、札幌の映画館で中学校の同級生の出演する映画を見る。同級生の五反田君は生物の先生を演じていた。ベッドシーンで、カメラが回りこむようにして移動して女の顔を映し出すと、それはキキだった。

眼鏡のよく似合う女性従業員から、ホテルに取り残された13歳の少女を東京まで引率するよう頼まれる。少女の名はユキといった。

奇妙で複雑なダンス・ステップを踏みながら「僕」は暗く危険な運命の迷路をすり抜けていく[6]







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