教育・教師 生徒指導/教育技術

教育格差が家庭の経済格差だけでないワケ~









この国、日本では建て前では、すべての子供が等しく学ぶ権利を有することになっているが、昨今の教育格差の加速化は見逃せないものとなっている。家庭、子どもの貧困対策について考えるとき、学校・教師が果たすべき、果たせる役割は実際大きいものがある。

日々の生活に係る経済的援助だけをとってみても、高等学校であれば就学支援金、奨学給付金などのような様々な援助の窓口となり、進学に当たっては多種多様な奨学金制度の情報を提供し、一緒に考えていくことができる。

お金にかかわることだけでなく、家庭での虐待、心身の貧困等とも学校、教師はあえて目を背けるのではなく、これからは正面切って向き合っていかなければならないであろう。しかし、教師が子どもに精一杯寄り添っていくと言っても、おのずから限界があり、できることと出来ないことがあるのである。自分の子供のように、すべてを投げうってまで尽くすことなどできるはずもないことをまず、教師であるならば自覚すべきである。

なぜなら、安っぽい博愛精神や教師としての使命感、情熱だけではいかんともしがたいものであることを私自身痛感してきたから・・・

まずは、すべてを背負い一人で何とかしていく~などという青臭い考えは捨てるべきだと私は思う。自分が学校という枠の中で果たすべき役割、自分ならできることをその子供のために考えていくしかないのである。

自分がかかわっているこどもは、何もその児童生徒だけではない。その子供一人にかかりっきりになった場合、おのずから他の子どもには目が届かなくなっていくであろう。

その子供のために一途になれるのは本当にスゴイことかもしれないが、全体の奉仕者であるはずの教師は絶えず全体を鳥瞰するようなバードアイビューを絶えず持つべきではないだろうか。今回は、一教師としてこどもの貧困のためにできることを一緒に考えていきたい。

学校、教職員だからこそできること・・・
負の連鎖は断ち切れるか?

受けるいわれのない虐待等の辱めを受けている子どもたちを何も、国、文科省も放っておいているわけではない。最近では、スクールソーシャルワーカーやスクールカウンセラー等の予算を取ってさまざまな施策を試みてはいるが、まだまだ悩める子どもたちにとっての完全な対策とはなってはいない現状は周知のとおり。

それでは、このような解決すべき問題に対して学校、特に教師は何をなすべきなのであろうか?一番大切なことを先に言いたいと思う。それは日々こどもたち、家庭と接している教職員には、さまざまな支援を必要としている子ども、家庭を正確に把握するチャンスがあるということなのである。

本当は行政等の緊急な支援が必要であるのに、そのような情報を得ることができないばかりにほんとうに必要な支援が受けられずにいる家庭、子どもがたくさん実際存在する。こういったこどもたちが教育的不利益を被ることだけは、教師として何とも耐え難いはずであろう。

当然ではあるが、問題は学校でそのすべてが解決するわけではなく、行政をはじめとした諸機関との橋渡し的存在をも学校はつとめなくてはいけない。しかし、この重要な役割を担っているはずの学校、教師が十分な役割を果たしているとは現状では言えない。

こどもたちと向き合うことが大切であるのに、満足な時間も取れずこれまで私自身も何度もそのチャンス、子どもたちのサインを逃してきた。こういった私自身の反省から、クラス開きの時から、父兄こども向けのクラス通信で、支援を必要としている家庭には、さまざまな支援が受けられる方法があること、またいつでもこういった相談に乗ることができることを折を見て触れていた。

それだけではなく、生徒に向けてSHR、LHR等でもメッセージを発信し続けもした。

しかし、いくら情報を発信し続けても想像されるように、なかなか実際に家庭は学校、担任に相談しようとはしない。敷居が高い、学校、教師をそもそも頼ったって問題など解決しない~というだけではないのである。彼らにも当然自尊心というものがあり、公的扶助、各種サービスを受けることができるのにあえて困難な道を選ぼうとしてしまうのである。

私の経験からすると、こういった家庭の援助のためには時間がかかりすぎるくらいかかってしまう。すべてはまず、信頼関係を築いてから。そして、sまざまなサービスを受けることの必要性と何よりこどものために今、必要なことを根気強く説いていくしかないのある。




情報を提供していくことの重要性は分かった。それでは、他に教師としてできることには何があるだろうか?そう、先にも話したが、日々、児童生徒とかかわっている教職員には、いち早くこどもの助けて!サインをとらえるチャンスがあるということなのである。

教師であるならば、何気ない普通の会話から、五感をフル活用して生徒の変化、異変に気付くよう神経を尖らせておく必要があるののは言うまでもなく、そのような機会を自らつくりだしていくべきなのである。

教師を長年続けていると、惰性で楽なほうに流れたり、いつもどおりのやり方で済ませようとしていく傾向がないだろうか。気持ちはもちろん理解できるが、果たしてそれでよいのあろうか?日々、子どもたちは変化しつづけ、毎年新しい子どもたちが入ってくる。対処の仕方としてのルーチン化は危険がありすぎである。

教師であり続ける限り、生徒の変化、異常にいち早く気付けるような準備、手だてが絶対必要なはずである。

弁当を作ってももらえず、買うお金ももらえず、
そして僕は途方に暮れる・・・

家庭が経済的に貧しいため、昼食時の弁当が買えず一人、昼休みが早く過ぎ去ってほしい~とただただ思っている生徒、各種納入金が払えず、絶えずビクビクしているようになってしまった生徒・・・すべて、彼らに罪はないと思う。

貧乏、貧困、お金がないことは罪なことなのであろうか?最低限満たされている人たちはきっとこう言うはず。「自己責任だよ!」果たしてほんとうにそうなのであろうか?

好きでそうなっているわけでもなく、働けど働けど一向に貧しい家庭は実際、事実として存在する。こういった人たちが切り捨てられていく社会は健全とは言えない。

そこで相互扶助の考えから一歩踏み出して、一方的に分け与えるのではなく、こういった人たちを変えていく仕組みづくりを提案する。こういった人たちが必要としている各種サービスが誰にでも分かりやすく、利用しやすいものにしていくこと、経済的に苦しいのであれば稼ぐ力を付けるための教育を施すこと。これらはこれからの時代、絶対に必要なことではないだろうか。

一時の施し(ほどこし)でお腹は満たされても、明日の糧とはなり得ないのである。明日になればまた当然お腹もすいてくる。これまで、学校ではお金に関する教育はほとんどされてこなかった。私の校種は高校商業であるが、お金を扱う学問の商業教育でさえ、貧困と真面目に向き合ってきたとは言えない。やっと本格的に金融教育がスタートを切ったわけであるが、まだまだ手探りの状態と聞く・・・

そこで、校種教科問わず学校でこそ、金銭教育を広く浸透させていく必要があるのではなかろうか。遅かれ早かれ社会に出ていく彼らに、お金の問題は絶えずついていく。なぜ、これまで金銭教育に日本は目を背けてきたのであろうか?

それはお金は汚いもの、お金の話をするのははしたない~といった日本独特の考えが根底にあるような気がしてならない。暴論かもしれないが、英語、プログラミングなんかを小学校でやるよりも、金銭教育、消費者教育などお金にまつわる知識技術の教授を教科として確立してもらいたいものである。

私がはじめて担任を持った時のこと。昼食時はいつも、行き場を無くして校舎の片隅で時間を潰していた女子生徒がいた。最初、私はどう対処していいいか分からず、私の買った弁当を半分、分けていたりした。今思うと、なんて無神経でひどいことを彼女にしてしまったんだ~と思うのである。




彼女のプライドを、ズタズタにしてしまった。そんなちっぽけな一時の施しなど何の助けにもならなかったはず。彼女のはにかんだ様な、作り笑いが今でも忘れられない。こういった現実を目の当たりにして、当時の私は本当にショックだった。彼女の場合、父親が借金を作って蒸発してしまった家庭だったのである。

自分がこれまで生きてきた中で、日々のごはんに事欠く、ひもじい思いなど一度もなかったから。それまで自分では、当たり前と思っていたことが当たり前ではなかったのである。

貧すれば鈍する~という言葉があるように、すべてにおいて最低限が満たされていなければ当たり前ではあるが、学校どころではないはず。こういった隠れたサインを絶えず発し続けている子どもたちへの日々の目配り心配りが教師に今、求められているのは間違いない。

子ども、母親共に毎日毎日休みなく働いてもなお、日々の弁当を買うお金のことを心配しなくてはいけない・・・こういった家庭が現に存在する事実をどう捉えるか、果てはスルーしてしまうのか。教師としてのこの差は大きいと思う。

私の痛い反省から学べることは、教師の経済的状況が一般家庭でも当たり前などと思ってはいけないということであり、教育公務員はかなりかなり、あらゆる面で経済的には恵まれすぎているとういうことである。ある程度年齢がいき勤続年数もそれなりである教員夫婦家庭では世帯年収は2,000万円近いであろう。

毎月当たり前にように下がることの決してない給与が自動的に振り込まれ、果ては定年後から死ぬその時まで手厚い保障が約束されている自身の待遇を「当たりまえ」ととらえるか、鳥瞰俯瞰できるかの違い・・・これまた大きいと思う。

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教育格差のはじまりが親の経済力だけではないワケ

教育格差の最大要因は実は「経済力に乏しい家庭環境では、子どもにありったけの教育サービスを受けさせてやることができない」~だけではないのである。問題はそう簡単に論じることはできない。断じてしまえば、家庭の経済力の無さを生み出すのは、ただ単にその家庭人の稼ぐチカラの無さだけではなく、その家庭に連綿と連なる家庭環境、いわば家庭文化、慣習からくるものだと思ってよい。

私は家庭訪問に行くとまず、子どもの勉強部屋、自室を見せてもらうよう頼んでいた。家庭訪問を数多くこなす自ずから見えてくるものがあるのである。

経済的に貧しい家では、まず子供の勉強部屋と言うもの自体がない。兄弟たくさんのウチでは居間に兄弟親子雑居寝~なんてパターンはザラである。子供が放課後稼いだアルバイト代が家計の柱~などという家庭では勉強なんてどうだっていいのである。子どもの未来への投資なんかよりも、イマの糊口をしのぐことのほうが大事に決まっている。

このような家庭では当たり前のように「学習、勉強」に対する価値というものがとてつもなく低い。教育困難校ではこのような家庭の子どもたちが多く集まってきているのだから、自ずから「勉強=ダサイ、恥ずかしい」という意識が蔓延している。

進学校では当間のように皆、寸暇をおしんで勉学にいそしみ、下校時も彼らの学生カバンはパンパンに膨れ上がっているというのに、一方われらが教育困難校ではカバンは糸で縫ってペチャンコにし、教科書の類は自分のロッカーの「書棚」に雑然と放り込まれている・・・この現実の「差」

このように、貧しくなるにはそれ相応の原因があるように、子どもの教育に対する親の意識が乏しくなるのもまたそれなりの理由があるのである。

この二者は相関関係にあるのは言うまでもない。教育に対する熱量がまったくない家庭では、仮にいくらお金があったとしても子どもを上の学校にやろうという気持ちなど起きるはずもない。実際、私の担任した生徒でも同じようなことが起きてしまった。

家は代々土建業を営み、父親がかなり手広く事業を展開し成長させ、地域では広く名の知られた会社の一人息子であった。親は高校卒業後は即、自分の会社に入れて就業させたい、子どもの方は教師になりたい~でいつまでたっても平行線のまま・・・

「土建屋に学はいらない。生まれた時から跡を継ぐと決まっていた。」で最終的に息子を説き伏せてしまった。「お金でこの子に不自由をさせたことはない。この仕事を継ぐことがこの子の幸せなんだ。」と度々の説得にも全く応じることはなかった。結局、彼は家業を途中で投げ出し、家を出て社会人となり、働きながら時間はかかったが通信制大学を卒業し、現在では小学校でいきいきと働いている。

お金がいくらあっても、このお父さんは愛息をしあわせにしてあげることはできなかったのである。

彼の場合、自身の努力によりこの負の連鎖を断ち切ったわけであるが、貧しさ(経済力、意識)をもたらす家庭環境や家庭慣習など代々継がれてきたものを変えることなど、そうたやすいことではない。

 

 

子どもは、親(の所得)と出生地は選べず
みんなそれぞれ・・・が許される社会に

生まれてくる家庭、地域など子どもが自分で選べるはずもない。子どもにはなんの罪もない。しかし、この生まれの偶然、巡り合わせが「学歴(環境)格差」「経済格差」となり、連綿とその子の子どもの世代にまでこの「教育格差」が受け継がれてしまっているのが現状。

教師として数校を経験した方なら、この格差には気付いていることであろう。高校で基本的生活習慣等のしつけが必要な「教育困難校(いわゆる底辺校)」とハイパーな進学校とでは、ご存知のように家庭、父兄の教育に対する意識から、家庭環境、経済力までまるで異なる。(あくまでもアベレージ的なことを言っている、ここでは)

教育困難校の父兄はどうしても学歴も高校卒業どまりであり、進学校の家庭では当たり前のように大卒ばかり・・・とは容易に想像がつくことと思う。

野口英世先生のように、家庭の貧困、出生地をものともせず、わがの努力とまわりの人たちの援助と導きで大成した立派な人ももちろんたくさんいるのであろうが、たいていの子どもたちは、生まれた家庭と地域から多大な影響を受け、この逆行を跳ね返すのはたやすいことではない。

本来、いろいろな境遇の家庭、子どもたちがあって、いて当然のはずなのであるが、しかし、現在に至る明治以降の近代化教育は均一性、画一性を私たちに求めてきたきらいがあり、そこから異質なものを排除する傾向が生まれてきてしまったようである。

こういった他とは違った人、劣っている者に対する排除の心というのは、いじめや差別の萌芽とはなり得ないであろうか?教師であるならば普段から学校、クラスあげて、いろいろな人間がいて許される、お互いに協力、助け合う全体の雰囲気をつくりあげていかなければならないのは言うまでもない。

そして、一人ひとりに優しく、時に厳しく寄り添っていく教職員の双肩にこどもたちの未来がかかっていることを、もう一度再認識すべきだと私は思う。学校もまた、いろいろな教職員、そして子供たちがいていい場所のはずなのだから。













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