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男女別学は生き残る!女子が共学ではなく女子校を選ぶいちばん大きなワケ~教員採用女子校のススメ!





共学も選べるのになぜにわざわざ好んで女子校を選ぶのか?~ふと思い浮かんだこの問いにちょっと取り付かれて、かつて勤務していた女子校で子どもたちにアンケートを取ったことがある。母数を多くしたいがためにさまざまなクラスでトライしてみた結果、多数を占めた主な理由は私の予想したものなんかではなかった。

異性の眼を気にせず勉学に集中したい、気楽に過ごしたい~などの理由ももちろんあったのだが、ほとんどの生徒がその理由に挙げたのは「将来のため、女子力を高めたい!」これだった。としごろだったら、青春を楽しみつくしたいとか、ときめきたいと思うのが自然なのに、なぜにわざわざそのチャンスを失うことをあえてやるのか?とギモンに感じていた私は時代遅れもいいとこだったのである。

キョウービの生徒は男女問わず、交際相手は必ずしも校内限定というわけではない。ネットでかんたんに他人とつながることのできる時代だから、無理やり校内で面倒なプロセスなんかどうも面倒に感じるようだ。実際、彼女たちの多くは他校生、大学生、社会人なんかの彼氏持ちだった。

いまこの国では男女別学は確実に減少している。特に公立学校での男女共学化が著しい。2024年現在、公立の男女別学が存在するのはわずか「8県」にすぎない。長い間、伝統的男子校・女子校として存在してきた地方の有名進学校などでもどんどん共学化が進んでいるどころか、流れとして公立の別学校は完全に絶滅危惧種扱い。

しかし一方、地方(特に北関東)の高校、毎年、東大などに数多く進学させている一部の超有名進学校(特に私立)などではいまだに男女別学のスタイルをなんとか堅持している。埼玉県では男女別学を何とか残そうという県民の多くの声が上がり、OB、OGだけでなく大論争になっているが、この国、「日本での」潮流に逆らうような動きがいまだなぜあるのだろうか?ここに今回のテーマのこたえがあるような気がしてならない。

男女別学、共学・・・それぞれにいいところ、デメリットを内在していてどちらが正しいなんてことは誰にも言えない。ただ多くの時間を共学校、女子校で働いてきた経験から言えることは、「男女別学の教育的効果」は確実にある~ということ。これらのことは長年世界中で研究されてきて世界の常識になっている。実際、世界に目を向けてみると日本の流れとは逆行したものとなっている。これが現実。

そこで今回は、女子校の教育的効果、そして男女別学のメリット、デメリットをいっしょに考えていきたいと思う。

 

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男女別学?共学?どちらが自然?
男女別学は果たして「性差別」なのか?

「交流教育」という言葉を一度は耳にしたことはあると思う。「ニッポニカ」によると交流教育とは「障害のある子供が、小学校や中学校などの障害のない子供と交流することによって、学習面や生活面などにおいてさまざまな経験を交換しあい、人間形成、社会適応、学習活動など種々の面で、教育効果を増大させるために行われる教育活動」と定義づけている。

この意味付けでは主体はあくまでも「障害のある子供」になっているが、実は大事な視点が欠落している。そう、交流されるほうの側、健常(差別用語かもしれないが)な子どもにとっても当たり前なことではあるが、教育効果が増大されるのである。つまり、混ざりあう両者どちらにもメリットがあるということ。

最近では自治体によっては、小中学校、特別支援学校間の教員異動交流が義務付けられているところもある。隣接領域のこどもたちと直に触れあうことで得られるものは大きい。このように私たちの生きるこの世界は、様々な人たちとの関係性の中で築かれるもの。

性差、障害のあるなしによって本来区別されるべきものではない。そこをあえて「別学」にしてきたのは、たてまえは何らかの「教育効果」を期待して~ということになっているが、実際のところの大きな理由は「教育効率」のためであろう。分けて行えば時間、心身の疲弊を効率的に振り分けることができるのだから。

この「効果&効率」を期待して、あるいは「ある目的」のため、男女という性差をもとに男女を真っ二つに区切ってしまってできたのが「男子校」「女子校」。

ジェンダー論を振りかざす人たちは、なんでもかんでも男女平等、均一画一化されていないとダメなのかもしれない。こういった人たちは、埼玉県立浦和高校に女子生徒が入学できないのは「性差別」だ!というかもしれないが、だったら浦和第一女子という超進学校があるよ~と私は言いたい。

たしかに一つ一つの高校だけ取り上げて物事を考えてみれば、それはもっともらしい差別に「映る」かもしれないが、浦和エリア全体の高校を一体としてまとめて見てみると「選択肢」はありすぎるほどあふれてるのだから。逆に埼玉県公立すべての高校が共学となってしまったら、「男子校」「女子校」で学びたい!という生徒にとってはどうしてくれるのだ~という話になってくる。それこそ、教育の多様性はどこにいってしまうのだろうか?

たくさん、かつ雑多な選択肢からそれぞれがそれぞれの考え、事情によって高校を選べる~ごく最近まで当たり前であったことが当たり前でなくなる。そんな最近の流れがなんとなく恐ろしく感じる。

こんな私であっても、自分の子どもを学ばせたいと思うのはやはり「共学校」。共学に学び、共学校での奉職が長かったためかもしれないが、社会に一歩足を踏み出せば、そこには当然老いも若きも、男も女も当然いる。中高の多感な人格形成期にごく当たり前の雑多、パワフルな経験を積み知見を広めておくことは大切なことではなかろうか。
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女子校勤務で気付いたこと

長年勤めた公立高校を退職し、しばらくのブランクを経てたどり着いたのが私立の女子校。たまたま自宅から通えるところで空きがあったため、深く考えることなく決めたのだったが、入職初日から驚くことばかり。

これまで比較的、女子の割合が多い学校を渡り歩いてきたが、生徒が女子だけというのは初めてのこと。ある意味、特殊かつ不自然な空間であった。ずっと男女別学で過ごしている人たちから見たら当たり前のことかもしれないが、私にとってはあまりにも新鮮すぎて当初は戸惑うことばかりだった。

全体的にみて、いちばん強く感じたのは、共学校以上に女子の「格差(という言葉が適当であるとは思えないが)」がありすぎるということ。女子校で過ごすことで得られるであろう「利益」をこれでもか!というくらい享受しているものがいる一方、クラスカースト最下層に位置しているとの自覚がある生徒などは耐えて忍んでの忍従の世界・・・

子どもが学校生活になじんでいるか、学校生活を楽しんでいるかなどは教師稼業を長くやっていれば、誰しも一種のカンみたいなもので嗅ぎ取るではないか。明らかに女子だけの空間に適応しきれていない一部の女子はどこのクラス空間にも存在した。しかし一方で、そんなもの我関せず~唯我独尊路線をひたすら突き進む硬派女子も確かにいたことが痛快で面白かった。

つまり、女子だけの空間で過ごすことによって、共学とはまた違った女子の人間関係がつくられていき、序列化が進んでいくということがだんだんと見えてきたのである。ただ、「序列化」と言っても、上位のものが下の者に対してあからさまな強制の態度をみせたり、いじめなどの人間として許されないものは見受けられなかった。それぞれがすみ分けというか、おたがいに干渉せず、されないでそれなりに過ごしている~というふうに感じた。

また一方で、女性特有の生真面目さ、繊細さ、やさしさ~こういったものを直に感じられたのも事実。プリントを一番後ろの生徒が集めて教壇に持ってくるとき、すべてきちんと揃えてこちら向きに両手で相手の目を見て渡す~社会人であればできて当たり前のことですが、これをほとんどの生徒にやられた日にはガツンと来た。




女子に特化した教育を学校をあげてやっていたのであるからして、女子力が否が応でもアップするわけ。極めつけは授業の開始と終了時。前にも何度も話したが、私は授業チャイム開始に間に合うように毎時、職員室を後にしていたのであるが、生徒が全員起立無言で教師を待っているのです。否が応でも教師は早め早めに教室にいかざるを得なくなる。

そして終了時「終礼」をした後、教員が教室を去るまで全員起立での見送り。最初は仰々しくて内心イヤ、うっとうしい(失礼)と思っていたのだが、これが毎時毎回となると習慣とは恐ろしいものでなぜか、このスタイルが清々しいものに思えてきたのであるから不思議。

「型」はあくまでも最初は、カタチだけのものなのかもしれないが、それを続けることによって「習慣」となり、やがてその人の心に入っていく~という教えらしい。宗教系の学校でも何でもなく普通の私立高校ではあったが、「カタチ」「スタイル」を非常に重視した学校であった。

校則に拘束されることも非常に多く、当然学校という器からこぼれてしまう生徒も少なからずいたのだが、ほとんどの生徒はそのようなことは入学前から分かり切っていたことであるので当たり前のように受け入れられていたのである。公立学校によく見受けられる後出しじゃんけんクレーマーとは雲泥の差であった。

この点もまた、私には非常に新鮮に映った。公立勤務すべての学校がいわゆる「教育困難校」であった私などは、夢にまで出てくるくらいこの校則には苦しめられたのだから・・・むしろ彼女らは厳しくしてくれるから、女子教育にチカラを入れ、自立自律の精神を養ってくれるところだから~と期待して入学していたのである。

一年が過ぎるころには、男女いっしょくたにして、すべて同質ととらえて画一均一的な教育を施すのは、男女それぞれが本来もっているはずのすばらしい特質をダメにしてしまうのではないか?とさえ思うようになってきたのである。

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女子校はなぜ女子生徒を惹きつけるのか?

冒頭でいちばんの理由を言ってしまったが、そのほかにも彼女たちなりの、こまごまとしたそのワケはたくさんあった。あくまでも私がかかわった子どもたちの理由であるが、他の女子高の生徒たちの考えとそう大きく離れてはいないであろう。

➀ 男子がいる環境では、ジェンダーバイアスなどがかかって、否が応でも性差に応じた役割を演じなくてはならない

② 男子がいない環境のなか、クラス役員、生徒会活動、部活動などで思いっきり活躍したい

③ 憧れの先輩がいる(自分も後輩に憧れられるようになりたい)

④ 「女子校」はブランド、在学中は思いっきりこの特権を活かしたい(卒業後も女子校出身はブランドになるという)

⑤ 制服がおしゃれでかわいい、コーディネート、アイテムが豊富

⑥ 男の眼を気にしないで高校の3年間くらいは過ごしたい(男子からの評価、中傷(ビジュアルメイン)がイヤ、乱暴な男子、男自体が嫌い~という理由もあり)

⑦ 受験があるので、高校の3年間はあえて女子校で勉強に集中したい

⑧ 女子校で生涯の友を得たい

⑨ 親に強くすすめられた(親は女子としてのしつけ、たしなみ、生活指導に期待していることもわかった)

⑩ この学校のカラー、特色、個性に惹きつけられた

以上は入学前の彼女たちの志望動機であったが、入学してからこの学校でよかった~と感じたことは、カンタンに言えば「女性らしく振舞うことを強要されない雰囲気でのびのび生活できること」ということらしい。まわりが見えている以上にこれまで、彼女らは異性の眼を気にして生きてきたということなのだろう。




一方、教師サイドから見て感じた女子校の魅力、特性とは以下のようなものであった。

➀ 男子生徒がいない分、すべて自分たち、女子だけでクラスから学校生活を成り立たせていかなくてはならい。そのため自ずから役割分担も増え、女子自らがリーダーシップを取らざるを得なくなる

② 女子の特性、発達段階に配慮した教育を実践している教師(特に女性教師)が多い(女子教育のエキスパートも多い)

③ 女子数の分母が否が応でも多くなるので、多様な女子生徒と向き合うことになり、自らを省みるチャンスも増える

④ 女子先輩、女性教員が多いため身近なロールモデルが存在し、ライフデザイン、プランニングについて考えたり、そのアドバイスがもらえたりしやすくなる

⑤ 女子大学、女子が多い学部、学科の推薦枠が多め

⑥ 生活指導、生徒指導が行き届く

これは共学と男女別学双方を経験した人ならきっと感じることであろう。共学の場合、どうしてもツッパリ、やんちゃな男子生徒に多くの時間と労力、精神を持っていかれがち。おとなしくって、何も問題がないだろうと思われていた(私が勝手に思い込んでいた)女子生徒がある日突然「先生、わたし学校辞めます」と来た日には自分の不甲斐なさを相当恨んだ。

こどもが女子生徒だけであると「指導がラク」という意味では決してなく、生徒一人一人に目が行き届きやすくなる~という意味で多くのメリットがあると私には思える。

また、男子と女子で指導の方法、叱り方などはそれぞれ個人の特性を踏まえたうえで、性差によるものも考慮に入れて当然行うべきであるが、対象が女子生徒オンリーなのであれば、指導のポイントも搾れることになってくる~とこのようにかなりいいことがマシマシになるのである。

⑦ 学力が伸びやすい、教育的効果が高い

私からみて、⑦、これがいちばん大きいのではないかと思う。私の校種教科は高校商業であったが、普通科就職クラスなどでは男女半々で「簿記」などの商業科目も教えていた。そのころに比べての伸び率が群を抜いていた。打てば響くというのであろうか、こちらの熱量、思いが素直に伝わりやすいのには驚かされた。ひとくくりにするつもりは決してないが女子ならではきまじめさ、コツコツ努力をすることをいとわない「何か」が女子だけの集団となることによって、何らかの化学反応を引き起こしたとしか思えない。

やはり「男女別学」は学力から見て教育的効果が高いのではないのだろうか?気になって試しに「東京大学合格者ランキングトップテン」を調べてみたら開成、灘、麻布、栄光、などの男子校に混じって桜蔭が大健闘していた。卒業生の約4分の1を東大に送り出していることになる。TOP10にこそ入らなかったが、雙葉、女子学院、豊島岡なども10名以上の合格者を輩出。このように、公立私立問わず、それぞれの分野で突出した実績を上げている高校は男女別学に多いことは事実であるが、これらの高校はいずれも独自の校風を打ち出していることでもまた有名である。

女子校で唯一トップテン入り常連の桜蔭が気になって、この高校についてこれまたちょっとだけ調べてみたので紹介したい。教科学習、勉強だけに明け暮れている訳でなく、さまざまなイベント、大会などを重視していて生徒の自主性を重んじる校風であるという。建学の精神からして「女性の自立」なのであるからして当然と言えばそうなるのであろう。

➀ 高校の2年まではなんと、部活強制参加

② 2年時「礼法」「女性学」の授業がある

③ 2年時以降の英数では習熟度別少人数クラス編成

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男女別学がなくなることの危機

物事には何であれ一長一短あるもの。確かに男女別学のメリット、教育効果は無視できるものではない。しかし、いかに別学の教育効果が優れていても私がもし奉職したり、自分の子どもを入れるのであればやっぱり男女共学校で行きたい。子どもが希望すればの話になってはしまうが。あたまでは理解している効果や効率、よさを犠牲にしてもなお有り余るメリットが共学にはあると私には思える。これまでクラスをいくつか持ってきたが、男女一体一丸となってさまざまな問題に取り組んでいくあのライブ感が忘れられない。

もうこれは個人、各家庭の価値観の問題になってしまう。どちらもそれなりに魅力的なのであれば、両者をてんびんにかけ、すこしでも子供の将来に益するほうを選べばいだけのはなしになる。効果や効率ももちろん、限られた時間の中、求めるものであるからして重要なファクターではあろう。しかし、唯一言える確かで大事なことは、選択肢はたくさんあったほうがいいということ。

男女共学、男子校、女子校~三者三様それぞれが持っているオリジナリティー、よさ、機能みたいなものを、それぞれの学校がマイスクールカラーを打ち出していき、最大限に発揮していけばいいだけのはなしなのかもしれない。

繰り返しになってしまうが、この「選べる」、「選択肢が残されている」ということが私にはとても大事な事のように思えてならない。

目を転じて今度は教員志望者のファーストステップ、教員採用試験についてちょっとふれてみたい。

教員採用試験合格後、教諭となれば公立高校の場合、異動でもしかしたら別学を経験できるかもしれないが、男女共学の流れはもはや止められないものとなっているので将来的には厳しいかも。(ただ、公立の男女別学となると生き残っている化石みたいな学校は、どこもかしこも「超」のつく進学校ばかりである。)

となると、男女別学校に奉職したいと願うのであれば最初から私立に専任として行くしかないことになる。

長い教員生活の中で別学の経験しかないというのは、一人の教師としていかがなものであろうか。偏った考えかもしれないが、私個人としてはぜひどちらも経験してもらいたいと願うのである。その経験が、どちらにも良い方に作用するのは間違いないから。

教師としては、共学、別学を「選べる」ことは選べるのだが、最初にむずかしい決断を迫られることになる。時間講師、常勤講師としてさまざまな学校を渡り歩きたい~という人は別として、たいていの先生は教諭、専任としてひとつの学校、自治体に奉職することになる。従って「私立?公立?」「共学?別学?」を決めなくてはいけない。教職経験の浅いうちにこの決断を迫られるのだからたいへん。

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しかし、教師としてもこの「選べる」ということが、私にはまたとても重要な事に思える。教師もまたさまざまな人間がいて、男子に特化した教育を極めてみたい、女子校文化を絶やしたくない~などさまざまな思いを胸に奉職している方々がいるはずだから。

この「選べる」自由を教職員、生徒、保護者から奪う「共学一本化」の流れはとてもとても私は容認できない。




女子校ショック

① トイレは教職員用しか使えない(これまでは、生徒用の男子トイレもワルサ防止のためにちょくちょく使っていたのに不便極なことこの上なし・・・)

② 更衣室無し、教室で着替える着替え時はカーテン使用するクラスとまったく意に介さないクラスがあってビックリ。「じきに慣れるよ」~と言われても・・・)

③ クラスにもよるが、掃きだめのような環境で異臭がプンプン(異性の目がないとこうまでなってしまうのであろうか?クラス担任の指導力にもよると思うのだが・・・)

④ 夏服冬服ともお金をかけているだけあってとってもオシャレ!(且つシャツ、リボン、ソックス等のアクセ関係もバリエーションがいろいろあって、おしゃれを彼女なりに楽しんでいる)

⑤ クラス、教科を担当していないまったくの見ず知らずの生徒からもちょくちょく声を掛けられる

⑥ 公立高校に比べて女性教員の割合がけっこう多め、かつ発言力高し、パワーバランスがそれなりに均等化

⑦ 生徒指導では身体的な問題であったり、デリケートな事案のケースでは特段の配慮が必要(当然、指導部も半分以上が女性教員が占め、公立男性教員偏重とは大違い)仕事のできない、指導ができない教員はたいへんな目に・・・(女子校特有の生徒指導スタイルがあり、共学時、対男子に対する指導力だけでは太刀打ちできない場合も。トライアンドエラー、学んでいく姿勢が求められる=よって、合う合わないの落差が激しいかもしれない)

落差を感じたことはあまりにもありすぎて日が暮れそうなのでこのくらいに。しかし、全体的に見て感じたことは、やはり女子ならではの女子力を見せつけられたということなのである。さりげない気遣いというか、相手を思いやる余裕というものが学校全体からにじみ出ていたとでもいのであろうか。校風に近いものを感じたのであった。

一律共学化の是非

現在、埼玉県で公立高校を一律共学化すべきかどうかの議論が行われている。男子校が女子の入学を拒むのは女子差別撤廃条約違反ではないかという苦情が県に寄せられたことに端を発している。だったら、女子校が男子生徒の入学を拒んでいる現状はどうなるんだ~という声も聞こえてきそうではあるが、共学化反対の論調がだいぶヒートアップしているようだ。

埼玉県の県立高の共学化を「早期に実現すべきだ」とする県の第三者機関からの勧告をめぐり、男女別学校全12校の保護者代表が、各校で集めた意見を大野知事と県教育長あてに提出した。共学化の賛否をたずねたアンケートでは、各校とも6割弱から9割が「反対」とした。

反対意見の割合が高かったのは浦和高(93・5%)、浦和一女高(90・6%)、川越女子高(88%)など。「男女間の役割分担がなく、リーダーシップが育成されやすい」などの声が寄せられたという。一方、「時代の流れに合わせるべきだ」と、共学化に賛成する声もあったという。

男女別学で学んだOG、OB、現に学んでいる男子生徒、女子生徒、そしてその保護者関係者のほとんどが共学化に対して「反対」と言っているのに、外野のああたらこうたらは彼らにとっては「うるさい」「大きなお世話」に映っていることだろう。

好きで入って、受けている教育的サービスにも満足しているのに、なぜに外野が土足でズカズカと入り込んで「別学で学ぶ」我らの権利を奪うのだ?と彼らは思っているに違いない。共学一律化をとなえる人たちの考えの根底にあるのは、お決まりのジェンダー論だったり時代の流れである。



私見になるが、ジェンダー論を男女別学に持ち込むのはちょっと違うのではないか? 発達段階に応じた性差による特性というものが現に存在する。現在の男女別学は実に理にかなった効率的な教育方法と言える。また、時代の流れを唱える人たちには「世界の潮流」を眺めてもらいたい。先進国では男女別学はそれこそ時代の流れなのである。日本のこの動きは世界とはまったく逆の方向に向かおうとしている。

私的には先にも述べたが、共学のマイナス面も含めて、自分の子どもを入れるのであれば共学を推したいが、一律共学にはゼッタイ反対である。私が頑として反対の立場をとるのはカンタンにまとめると以下のような理由からである。

➀ ほかに(共学)の選択肢が当然ある。行きたければそちらにいけばいいだけのはなし。何もあなたの共学に進みたい~という権利を侵害もしてないし、奪ってもいない。他の人の「男女別学で学びたい!」という権利を侵害しないで~と私は言いたい。(他人の別学に学びたいという選択肢を逆に奪うことになる)

② 男女別学の否定こそ「教育の多様性を損なう」

③ 公立高校の90%以上が共学であるのに、男女平等とは程遠い現状。顕著な教育的効果を上げているのは一部の別学超進学校~という現状を鑑みた時、なぜに教育的効果をあげている学校をわざわざ解体する必要があるのか?という素直な疑問から

結局は「学校にどこまでの機能を求めるのか」に行き着く。学校教育に求めるものはひとそれぞれ。その選択肢は多い方がいい。

男女共学、別学のなかから「共学」を選ぶ、「一律共学」しかないなかから「共学」に進学する~この二者間の「選ぶ」「進学」する先はみな同じ「共学」ではあるが、両者の持つ意味はまったくと言っていいほど異なる。なぜなら、前者は男女共学、別学という選択肢が存在し、そこから自らの意思で「選択」しているからなのである。またまた繰り返しになるが、この「選べる」ということがほんとうに大事なのである。








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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