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モンスターペアレントに専用窓口!はアリか?教師・学校不信がマシマシに?~これからの教師の保護者対応~ 

とうとうここまで来たか!奈良天理市のモンペ専用窓口(子育て応援・相談センター(仮称))開設に巷では英断、全国にこの動きが広まるべき~とみる向きが多いようであるが、今一度立ち止まって考えるべきではなかろうか?

わたしも長いこと教師稼業をやっていたので、難しい保護者対応の大変さ過酷さは痛いほど理解はできる。これまでも、どうやったら家庭、父兄とうまくやっていくことができるかの考察を一緒に考えてきたが、私がこれまで話してきたのは、あくまでも直(じか)に保護者との話し合いがあってのものである。

しかし、今回の天理市の専用窓口開設は、この前提すら覆すものである。最近、正規の勤務時間以外の電話を受け付けなくなった学校、自治体などが話題になったが、今回の天理市の取り組みは、保護者からのクレーム直電(じかでん)を真っ昼間でも受けないというかなり強い姿勢のもの。果たしてこの決断は「快挙」となるか、それとも「暴挙」になってしまうのか・・・

この運用運営の全体像、詳細がまだ見えてこないので何とも言えない部分もあるが、しかしこの問題は、やり方を一歩誤るととんでもないことになってしまうのは目に見えている。

そこで今回は、このタイムリーな話題である天理市の学校問題クレーム専用窓口開設について考えてみたい。








クレーム・意見専用窓口開設に至ったいきさつ

天理市の伊勢和彦教育長が語った、今回この窓口を開設するに至った主な理由をカンタンにまとめると以下のようになる。

➀ 市が実施した全小中学校教員の8割近くが保護者対応を負担、不安に感じ、実際その6割以上が校務(公務)に支障をきたしている。

② 2023年の7~9月までのあいだに実に5人の教師がこの問題で退職し、7人が休職に追い込まれた。

③ 保護者を交えた意見交換会で保護者の一定の理解が得られた。

彼がメディアのインタビューに応じて語ったことは簡単に言ってしまえば、「理不尽な要求を突きつける保護者によって教員は相当メンタルをやられている。これは、学校だけで対応する問題ではない」ということ。

また一方、市政のトップである並河市長はこうも語っている。教員は「大人対応のプロではない、保護者の満足度が上がる」

伊勢教育長の発言はある程度は理解はできる。だが天理市長のこの口上はどうであろう?まっとうなものとして受け取ってしまう人もいるかもしれないが、一度でも教壇に立ったものであるならば、この言い切りには疑問符をつけるはずだ。

教師は何も「子ども対応」オンリーのプロでは決してない。子どものよりどころである家庭の保護者対応のプロでもなければならないのである。なぜなら、家庭と教師は、子供によりよく寄り添っていくために手を携え合う同士のような関係であるから。ここに上下関係などない。お互い対等の立場なのだから。

それでなくとも激務である教員が、うまく保護者との関係をつくっていくのはけっこうしんどいものがある。それでも保護者不在の学校教育はあり得ない。特にこういった難しい家庭ならなおさらである。天理市の並河市長のこの物言いは現場をあまりよくわかっていないものであると言わざるを得ない。

先の保護者との意見交換会でも少数ながらもこういいた向きがあったと伝えられた。「学校が親の声を聞けなくなったら、本当に大事なことをわかってもらえるかどうか不安」まったくをもって同感。至極まっとうな意見であろう。


天理市の実際のモンペクレーム

それでは、実際に天理市で学校に寄せられたクレームにはどのようなものがあるのか、一例を挙げてみたい。

~クラスの子どもが宿題をしてこなかったので、教員がその子供を残して宿題をやらせたところ、子どもが家へ帰ってからストレスからか家の壁に穴をあけてしまった。これに激昂した保護者が教師を家に呼びつけた。~というもの。

いかがであろうか?

われわれ教員は保護者の意見、声、要望、要求を常に聞かなければならない。それが至極まっとうで健全なものである場合に限ってであるが。転じてこの理不尽高圧極まりないケースではどうだろう?このようなわけのわからない電話をしてくる親などは、いくらこちらが誠意をもって説明をしても(当たり前だが下げることのない頭は決して下げない)平行線をたどるばかりなのでまともに相手にするべきでないのだ。

私だったらこういう。「私は教師としての務めを果たしただけです。子どものためです。」

家に来ることを強要してきても、相手のペースに合わせて下手に出る必要など全くなし。急を要する案件であったり、こちらに明らかに落ち度がある場合なら、こちらから行かなければならないが、詳しく話をしたいのであればそちらからどうぞ~と私だったら言ってしまうが、それでは角が立つというのであれば百歩譲って、こう言うのではどうだろう。「私もこのことで直接伺って話をキチンとさせていただきたいと思っておりますが、本日は大切な校務がたくさん入っておりどうしても行けません。明日の夕方ならそちらに行ってお話できますが、いかがでしょうか?」

こちらに非がないケースで、すべて相手ペースで話を進める必要などもまったくなし。

年度末近くにもなって、家庭との関係がこれではいままで何をやってきたのか?と言う向きもあるかと思うが、いくら担任が家庭との良好な関係構築のために骨を折っても、相手のハートにちっとも響かないなんてことはままあること。せっかく直に話せる貴重なものを、最初から相手にへりくだり、こちらが下に出ることによって対等な関係が崩れ去り、うまくまとめることができるものも常に相手のペースに引き込まれてしまうことになってしまう。

出だしの対応を誤ってはいけないのである。


私は難しい保護者とどう向き合ってきたか

私自身、十年以上学校に奉職してきて、対応がかなりしんどく時間がかかる父兄対応もそれなりに経験してきた。(それこそメンタルやられる一歩手前の)いまの先生方が負担や不安に感じられる気持ちも十分に理解はできる。しかし現在の先生方の様に、保護者対応がもとで病んでしまったり果ては辞めることを考えたなんてことは一度もなかった。

なぜなら、保護者、子ども、学校教職員等学校を取り巻く人たちとの人間関係はうまくいかなくて当たり前~という前提に立って、そうならないようあらかじめ日ごろからの努力を積み重ねてきたから。少しづつ少しづつ距離を縮めてお互いを知っていく過程そのものこそが非常に大切なのである。

この努力なしに一気にインスタント仕立てに、問題が起きたからと言ってあわてふためいてなんとか事を収めようと思ったって土台無理がありすぎる。

おたがいの接触の頻度も上がり、お互いがそれぞれを知っていくようになると、たいていの家庭は問題が起きた場合だって「先生もここまでやってくれたんだから仕方ねえな」なんて具合に相手に言ってもらえるようになるものである。

私がこれまで、日ごろどのように保護者対応に努めてきたかは「元教師が語るクレーム・モンスターペアレント対応の極意~信念、自分の柱を持つことの大切さ~」で詳しく話しているのでここで詳しく語ることは控えるが、こちらの日ごろの積み重ねであったり誠意がまったく伝わらないどころか違った意味にとらえられ敵意むき出しで突進してくるトンデモペアレントもまた存在するのが保護者対応のむずかしさである。

そのようなトンデモ保護者対応の事例も話しているので、現在保護者対応に悩まれている先生の何かの参考になればとも思う。

要は自己の矜持、信念に従って動けばいいだけのこと。まわり全体を鳥瞰俯瞰する余裕はもちろん必要であるが。自分の中のうちなる主人の声に耳を傾けてみよう。教師としての道を踏み外したものでない限り、なにも恐れることはない。いったいぜんたい何が怖いのか?自分の信念を捨ててしまったり、自己を見失うことの方が私はよっぽどこわい。時には強くたくましくあらねばならないときもあるはず。




天理市の試みの運用のむずかしさ

天理市の実際のこの相談窓口の運用の実際が詳しくまだ報じられていないので、突っ込んで論じることはできないが、ファーストステップで教師、学校ぬきでの対応はまず考えられない。

最初は担任、担当教員がはなしを受け、対応が難しい場合に限って学校全体で協議の上相談窓口にまわす~というシステムで回さないと不毛な軋轢をうむのではないだろうか?それこそ、学校、教師不信が増すだけになってしまう。どうしてもいくらやっても~というケースに限っての仲裁役に徹するべきではなかろうか?

(静岡の中学で10年以上中学教員を務めたというスギヤマさんは、今回の決定を「英断」とし、「そもそもうまく処理していくこと自体が無理、専門職の人が当たるべき」~と断じたが、そもそも「専門職の人」って誰? まさか教育関係者ではなく、「クレーム処理専門のプロ」?)

一方、学校全体でのクレーム対応の組織化、しくみ化、非常時のマニュアルづくりも同時に欠かせないものとなってくる。

当たり前のことではあるが、教師の口から直接言わなくては通じないものもあるはずである。

保護者対応のルーティン&鉄則

➀ 生徒指導の鉄則と同じ

事が起きたら、まずは保護者にすべて「吐き出させる」。一方的な物言いも、まずは話を全部聞く、傾聴する。相手が落ち着くまで。(相手の言い分がまったくの言いがかりであっても、人格までも否定してはならない。相手の人格を認めないと、こちらも否定されてしまう)ここに上下関係はない。平等である。子どものために手を携えていく同士のようなもの。

② 学校で把握している状況、背景、実態、事実関係、そして学校の現在の状況をくわしく丁寧に説明する。時には文書にすることも。この時、必要以上に身内をかばったり、保身に走ったりすると状況が悪化するのは必至。またいくら保護者、児童生徒に非があろうとも一方的に事実を並べ責めるのは逆効果。これはあとからいくらでもできる。

③ 記録は必ず取り、事後の上長、管理職への報告も忘れずに

保護者と話しながら記録を取るのは相手もわかっていることなので特段問題はないであろうが、音声録音は別問題である。こればかりは無断録音はあとから分かった場合は、相手の不信感がマシマシになってしまう。もちろん、保護者の無断録音もアリという前提で話し合いに臨まないとあとからとんだ言質を取られてかえって問題複雑なものにしてしまうことも。

④ 話し合いの時間、回数、期間も限度アリ


振り回されてはいけない。先にも話したようにお互いフィフティフィフティの関係であるはず。すべて相手ペースであってはならない。いかに重要な問題であっても教師、学校がみている子ども、保護者はこの一人だけではないことを忘れてはならない。教育公務員もまた全体の奉仕者なのである。全体のバランスもまた大切。




⑤ 一人で抱え込んではいけない

キャリアをつんだ教師はなおさら他を頼るということに抵抗があるかもしれないが、完璧完全主義はここでもうかく作用しない。キャパ越えの場合は、けっしてひとりで抱え込まず、管理職、同僚の意見を仰ぐこともまた大切。生真面目、誠実な先生もまた人に相談することには抵抗がある。「みんな忙しいのに、こんな自分のクラスのことで・・・」「自分で処理できないなんてなんて思われてるだろう・・・」なんて思ってしまうのである。

基本は自分自身で踏ん張るしかないのであるが、他の意見が何かの参考や突破口になることだってあるのである。問題がさらにさらに大きくなってからではなく、その前に。

⑥ こどもの発達障害だけではなく、大人の発達障害(本人が気づいていないケースの方がむしろ多い)も頭に入れておくべき

当然、こういった場合には別のアプローチもまた必要になってくる。

⑦ 時にはあきらめることも大切

無論、子どもへのアプローチをあきらめるということでは決してなく、保護者と平行線をたどり続けるのもやむなしとするということである。いくらこちらが努力や誠意を積み重ねていっても、常に保護者のハートに届く訳でもなし、ダメなものはダメ、ダメな時はダメなものである。時間が解決してくれる時だってもちろんある。

⑧ 好かれよう、いい人でありたいという気持ちは結局自分がかわいいだけ

事なかれ主義、相手を怒らせないよう、なんとかこの場をやりすごせばいい~などという安直な考えも厳禁。自己に忠実であれ。時には教師の強い姿勢を示すことも必要。

最後に繰り返しなるが、いちばん大切なことはやはり、こうなる前の普段からの不断の積み重ねがいちばん。少なくとも日ごろからわがクラス、部活動の子どもたちとの家庭との接触を守備範囲に入れておけば、たとえ有事の時であって保護者の感触もまた違ってくるものである。私は生徒、保護者との関係もつかずはなれずの距離をキープし続けてきたが、親しき中にもなんとかで熱くなりすぎ、近くなりすぎも考えもの。

教師であるならば、やはり全体を見渡せる余裕をもちたい。と同時に他の声に耳を傾けるおおらかさと自己を顧みる謙虚さもまた大切な教師の資質かと私は思う。

いずれにせよ、保護者対応で将来ある教師が辞めざるを得なくなる事態は悲劇以外のないものでもない。どうにもならない事は学校の外の世界にだっていくらでもある。これから先生が出会うべき子どもたちのためにも、もう一度ご自分の教師人生を振り返ると同時にこれからについても考えていただきたいと思う。

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