毎日のようにメディアを賑わしているのが「教師の不祥事」。教師も人間。人間故、罪を犯してしまうのでしょうか。でも教師である以上、普通以上に叩かれます。高潔な人格が要求される仕事に就いてしまったのだから仕方ないです。それなのに、教師の不祥事はなぜ後を絶たないのでしょうか?教師の置かれた特殊な職場環境だけが問題ではないはずです。そこには「甘え」が育つ土壌があること、そして人間だれしもが持つ「弱さ」がいちばんの原因となっているからなのでしょう。
欲望という名の学校
酒、金、女・・・教員以外でも、この「3つ」は人間の欲望の代表選手みたいなもの。私が在職中に見聞きした教員の不祥事も、この3つがほとんどでした。酒が入っての暴力、同僚とのドロドロの不倫、多額の借金・・・当然、いずれも免職とまではなりませんでした。これが、死亡ひき逃げ事故、飲酒事故、生徒に手を出す、公金に手を付ける・・・などとなれば一発懲戒免職でしょう。
飲む打つ買う~男が道楽の限りをつくす言葉ですが、酒、かけ事、色事以外にも教員の身を滅ぼすものがあります。現在の教員の場合、「クルマ」と「児童生徒」がこれらに加わるのです。
後述しますが、私みたいにカーキチ高じて借金ダルマになっても人様に迷惑をかけない範囲であれば、「バカねあんたも!」で済まされますが、学生協、共済から借りまくって返さない返せない、挙句の果ては公金に手を付けてしまった・・・は哀れです。
お金持ちですべてキャッシュで買ったとしても、その大切なクルマで人様を傷付け逃げてしまった~は完全にアウトです。ひき逃げ、当て逃げ、飲酒運転が厳罰に処せられるということはみなわかっているはずなのです。それなのになぜ人はこうも愚かになれるのでしょう?
やはり自分の中に確実に存在する「弱さ」のなせるわざなのではないでしょうか?そして、自分、自分の仕事に誇りを持っているかどうかが、道を踏み外してしまう人ととどまれる人の違いなのではないかと私は思うのです。我がの中に矜持があれば、たとえ過ちを犯したとしても、さらに恥の上塗りをするようなマネはできないはずです。
大都市であればクルマ通勤は許されていないところもあるでしょう。しかし、大部分の先生方はクルマを通勤の手段として使用していることと思います。どうか、ハンドルを握るときは自分だけでなく自分の大切な家族、子どもたちのことを思い浮かべてください。
教師であり続けるためには犯罪者になるわけにはいかないのですから・・・
クルマ以上に身を滅ぼすことになってしまうものに児童生徒とのかかわりがあります。「かかわり」と言っても、普通に見られる生徒教師間の関係ではなく、尋常でないアブノーマルな関係のことです。これらは日々当たり前のように報じられていて私たちは慣れっこになってしまっている感が否めません。しかし、他人事ではないのです。
実際に、幼い児童へのわいせつ行為等で懲戒免職になった同僚がいました。このような行為は教員である前に、人間としても許されることのない行いでしょう。悲しいことに、児童生徒を自己の欲望の対象とみなす教員もどきが、「学校」というカラを隠れみのにして欲望を満たしている現実があります。実際に手を出すか出さないかは別として、こういった人間も実際存在するのです。「子どもが好き!」って言っても、また別の意味での「好き!」なのですから正直、怖いです。先の同僚は「~ちゃん大好き」などと公言してはばからない「変な人」だったのです。
みなそれぞれにオリジナルであり、個人のものの考え方は尊重されるべきですが、それが全体の利益に反し、どうしても受け入れることのできないものである場合、その想いは自分の中に封じ込めることになります。
実際に、その思いが実力行使に出されなくとも、こういった人たちが悶々として教育活動に携わっていることが私は隠された危機であると思います。
しかし、現在表沙汰になっている問題は、実際にその思いを行動に移してしまった実に情けなく哀れな人たちです。
教員は閉鎖的な環境でストレスが溜まり易いから~なんて言い訳は通用しません。何もストレスがたまる仕事は教員に限ったものではありません。教師になる以前と退職後、民間で長く勤めていましたが、それぞれにオリジナルなストレスがあり、それなりに苦しみました。
問題は、踏みとどまれなかった、本人の弱さにあるのです。普通は、ギリギリのところで心がストップをかけるものでしょう。繰り返しますがそれでは、一線を越えてしまう人と、そうならないものとに存在する「差」とは一体何なのでしょうか?
そうです。これまた繰り返しますが、自己の職業に対する「矜持」とか「誇り」といったものを自分の中に持っているかどうかの差なのではないでしょうか?
仮に私がこのような欲望を自分の中に持っていたとしても、恥ずかしくて、何より自分自身に対して恥ずかしくて、とてもじゃないけどそのような行為には及べません。
自分を律するとかどうとか、そういう問題以前の、自分自身の在り方の問題であると私は思います。
要は「志」を亡くしてしまったということなのでしょう。
ここまでは正常な人間を前提に話をしておりますが、これが「病気疾患」となればまた話は別です。実際、日々メディアを賑わしている破廉恥教員も、「つい、魔が差して・・・」の人と「完全な病気」の人に二分できます。後者は頭では分かっていてもどうしても自分を律することができないかわいそうな人です。自分では自分をどうしようもできないのですから、人様の子どもを学校で預かれるはずもありません。
これは完全に病気なのですから、専門的なケアが必要になるのは当然でしょう。
この特殊性癖者の問題については、ここではディープすぎて話しきれないので、「本当に教師に向いていない人とは③~一番なってはいけない人たち~特殊性癖者」でちょっと詳しく述べています。
Sponsored Link
生徒に厳しく、自分に甘く
もちろん、学校、生徒のため、自分の時間、労力のすべてを投げうって日々、邁進している教師もたくさんいます。しかし、一方で学校、児童生徒を食い物にしているような、権利だけを貪っている教員もまた多く存在する・・・というのが現実でしょう。
最近、やっと見直されてきてはいますが、何ら成果も求められず、対生徒においては絶対的優位に立っており、その上とんでもない不祥事を起こさぬ限り、退職、老後まで一生安泰というのですから、そこにおごり、たかぶりといった感情が起きないほうが不思議です。教師たるもの、この、世間と大幅にズレている感覚を、常に「おかしい」「これでいいのかな」と危機感を持って、意識し続けなくてはいけないのでです。
現職の先生方、これから教師を目指す方は、どうか自分を常に客観的に見続け、自己を律することのできる人であって欲しいと強く願わずにはいられません。
私がハマった誘惑の数々・・・
ストレスを何で発散するかは人それぞれです。私の場合はギャンブルと衝動買いでした。褒められたものではないですね。ただ、当時はとにかく気を紛らわすものが何でもいいから欲しかったのかもしれません。ギャンブルといっても「ロト」という数字選択式くじ。
ギャンブルのあの高揚感はほかの何物にも代えがたく、味わったことにしかきっとわからないでしょう。しかし、次第にエスカーレートして熱が入りすぎてきて、本業に支障を来しそうになってきたところでストップ。しかし、教員はギャンブル狂になってしまったり、多額の借金で首が回らなくなっているものがたくさんいるのも事実ですよね。お金など、公務員ということで一発で審査に通り、いくらでも貸してくれますもの。過去の私を含めて、こんなストレスの発散の仕方は要注意かもしれません。
そして、次に夢中になったのがクルマ!当然、乗れるのは一度に一台だけなのに、一番多い時は5台も所有していた真正クルマバカ!バカを繰り返し20数台これまで乗り継ぎ、置き場所に困り、月ぎめの駐車場まで借りていました。買うまでが最高にハッピーで、登録してからは意味もないパーツをいろいろ取りつけたり、いじったりととにかくお金をかけまくりました。かけすぎました。地方だったら家二件建つくらい・・・まさしくクルマバカ!誰も、他人の乗っているクルマなんてどうだっていいのに~ということに気づくのが遅すぎました。
現在はモノにとりつかれた日々とはおさらばしておだやかな日々を送っています。しかし、当時は感覚が完全に麻痺していました。何百万というクルマのローンが頭金ゼロで、即審査を通り、自分のもとに届くのです。考えてみればほんとうに恐ろしいことですね。
お金の使い方は「消費」と「投資」、そして「浪費」があるとよく言われますが、私の場合まさに浪費以外の何物でもありませんでした。そして、お金以上に失ったのは、これらにかかわったかけがえのない時間でした。
※ カーキチの車2台以上持ちの幸せとツラさ~クルマという商品の魅力と魔力~
※ 教員が真っ赤なスポーツカーは非常識?~いったい教員はどんなクルマに乗ったらいいの?(教員のクルマ選び指南)
Sponsored Link
本当の誘惑
最後の最後で、誘惑に屈してしまいました。それは、「教員やめたい!」誘惑です。ここで話すと長くなりすぎますで、こちらについては「私が教師を辞めた理由~戻れることなら~」に詳しく述べました。ある意志を持って教師を自ら辞しました。辞めたいまとなっては、やっぱり少しの後悔と未練はあります。でも、教師を続けていてもおそらく後悔したでしょうし、どちらに進んだとしても「正解」というものはないと思うのです。
現職で毎日必死に持ちこたえている先生方、これから教師を目指す未来の先生たちは、一生涯一教師でできれば終えてほしいと私は思います。一度は教師を志した人はきっと心の中にロマンを持っていると思うから・・・私がいま味わっている、このちょっぴり後悔、そして懺悔とも表現しがたい思いは味わってほしくはないのです。教職は、人間がその一生を賭けるにふさわしいロマンにあふれた仕事なのですから。
最後の一句
誘惑は いつも自分の 中にある・・・