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教師の公平性~特定の生徒とばかり話す罠の怖さ!~全体を見渡す





この怖さについては、現職の教師であるならば痛切に感じていることと思います。しかし分かってはいるけれど、どうしても手っ取り早く話しやすく、そして話した~という満足感の得られる「特定の生徒」に集中しがちです。

こんな時、教師としてどのようにすべきなのでしょうか?普段なかなか話しかけてこない、こちらからの話しかけにも反応があまり見られない児童生徒にこそ、「何か」が隠されているような気がしてなりません。




絶対目標!毎日クラス全員と話す!は可能か?

一日中、クラス児童と過ごせる小学校教師と中高教師とでは大きくその環境も変わってきますが、ズバリ「こころがけ」と「努力」次第で可能です~と言い切りはしましたが、これがなかなか私の場合たいへんでした。

私の場合、自分のクラスでの授業は週2時間+LHRのみ、あとは朝と帰りのSHRが頼り~という状態でしたので、これらのショートホームルームを極力使いきることにしていました。

たとえば、朝一番の出席確認、大変短く簡単に済ませてしまいがちではありますが、この貴重な時間を無駄にしてはいけません。私はよほど時間的に余裕がない時以外は必ず「ひとりひとり」を呼名し、「アイコンタクト」を取っていました。

これだけでも、こどもたちにとってみれば何かが違うはずです。私も最初はやってしまいましたが、欠席の生徒だけを確認チェックしてハイ終わり~というのはせっかくのチャンスがあまりにももったいないです。

たとえば、声掛けの声音(こわね)などで生徒の今朝の様子がわかったり、アイコンタクトにより何か訴えかけているようだ~と感じ取ったりと何かしら得るものがそこには必ずあるのです。自分のクラス以外の教科担当のクラスでも、この「全員呼名」は即実行したほうがよいです。

毎回毎日、呼んでいると当然接触の機会も増え、生徒の方からも話しかけてくることが多くなってくるものです。ただ、この「全員呼名」にはちょっとした注意が必要です。生徒名簿をいつも頭から、下を向いてただ呼ぶだけ~ではあまり意味がありません。

必ず、生徒ひとりひとりと向き合い、目を合わせ目で語りかけることです。その時、呼名だけでなく「おはよう!」でも「今日もよろしく!」でも何でもよいですので「一言」添えると効果バツグンなのです!

こうも毎日「全員呼名」を続けているとそれが当たり前になってくるのですからお互い不思議ですね。ただ、やはりマンネリ化は否定できません。私はちょっとしたアクセントをつけるために、呼名を出席番号の若いほうからだけではなく、一番最後からとか奇数のみ→偶数、男子女子交互交互とかいろいろやっていました。

そして、ゲーム性を持たせるために、例えば「犬の名前」とか言って「ポチ」「ジロウ」、「犬の種類」ときたら「柴犬」「秋田犬」「アフガンハウンド」~とかいわせるのです。工夫次第でいろいろできますよ。

呼名は何も担任教師がやる必要がありません。私は週1度は輪番で生徒にさせていました。この間、教師はただボケーっとしててはいけません。生徒同士のやりとりから何かつかめるものを読み取らなくてはならないのです。

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ちょっと長めに朝晩のショートホームルームについて話してきましたがこの短い時間だけでなく、生徒に声掛けできるチャンンスは「こころがけ」と「努力」次第でゴロゴロ転がっています。教科指導、廊下でのすれ違い時、部活動、登校指導時などなどいくらでもそのチャンスがありますね。

私は日ごとに「声掛けチェック表」をつくってファイルにしていました。そうすると自ずから「偏り」がでてくることに気付いたのです。本当に話す生徒とは一日に何度もそのチャンスはあったのに、朝の呼名一度きり~という生徒はいつも固定しがちだったのです。

そこで、ここで得られた「偏り」に気付いた生徒を重点的に話しかけていくようにするのです。しつこさや深追いはNGです。お互い生身の人間同士、深追いはいけません。人間ですもの合う合わない、好き嫌いはあります。

しかし、教師はあくまでも、どこまでいっても「教師」。全体の奉仕者なのです。一部の奉仕者であっては絶対だめ!公平性中立性を保ちつつ、そこに潜む問題をつきとめようとする姿勢が求められるのです。かんたんに言うと、苦手な児童生徒にも平たく公平に接するということです。

何も問題がない生徒こそ~「何かある!」

これは私の過ち体験談になります。クラスに成績優秀、友人関係良好、教師受けもよく、家庭関係も良好な女子生徒がおりました。ある日の放課後、直接職員に来て「話があります」というではないですか?何か悩みでもあるのかな?くらいに軽く考え、相談室で聞いたはなしは驚きでした。

「学校やめることにしました」・・・これです。「やめたい」「やめようか」の「相談」では決してなく、「決めた」の「報告」なのでした。今でもその情景をハッキリと覚えていますが衝撃でした。何も問題がない~と勝手に自分の都合のよいほうに解釈し、決め付け、幾度となく出していたであろう「こころのサイン」にまったく気付かなかった、いや気付こうとしなかった自分が本当に情けなかった。

それから何度も話し合いを持ちましたが結局、彼女の決心が変わることはありませんでした。彼女は口に出してこそ、クラスそして私への不満こそ言いませんでしたが、ずっと言い続けていたのだと思います。こころの中で「もういやだ!」「もういいや!」と。

この事件に衝撃を受けた私はさらにできる限り生徒との時間をもつように努めました。昼をできるだけクラスでとるようにしたり、放課後一日一人づつ面談の時間を取るようにしたりと。しかし、本来いるべきはずの彼女はもういないのでした。

実際、私がどのようにしても、果ては違うクラス担任であっても事情は変わらなかったかもしれません。しかし、私が彼女のサインに気付かなかったことが大きな過ちであり、教師としての努力を怠ったことになった事実に違いはないのです。

このように、変化、こころのサインを表に決して出そうとはしない児童生徒もいるのです。教師はこのような生徒にこそ最大細心の関心を寄せ、歩み寄り寄り添う努力を続けていかなければならないのではないでしょうか?

そして、結論!

問題は「表」だけでなく「裏」にも潜んでいる!

「気付かない」のではない、「気付こうとしないだけ」!

「全体の奉仕者」であることの再確認!













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