何も言わずともそこにただいるだけなのに、なぜか陽だまりのようなあたたかい気持ちになれたり、励まされたり・・・そんな教師の存在って、きっとあることと思う。
なぜだろう?きっと、教師としての姿勢・生き方、人としての在り方に何か感じることがあるからなのだろうと思う。私自身振り返ってみても、あまり接点のない教師であっても、大好きな教師はたくさんいたし、その先生たちから多くのことを学んできた。
教師も成り立てのころは、子どもたちと接する部分がすべてのように勘違いしてしまいがちである。私も若いころは、直接子どもたちと関わる接点のみが大切であり、そしてすべてであると思っていた。
これが誤りであることに気付いたのは、クラスで取ったアンケートがきっかけであった。学期ごとにクラスでの問題点、感想、意見など自由に書かせて自分のクラス経営に活かしていたのだが、ある時一人の生徒の走り書きが目に留まった。
「どんな人にでも同じように怒るのでよい。」とただ一言だけそこには書いてあった。これが普段良く接し良好な関係にある生徒なら別段驚きもしないのであるが、彼は自閉の傾向があり、クラスの子どもたちともほとんど口をきかない生徒であったのだから正直、私はドキッとした。
正確には「怒る」ではなく、「叱る」「指導する」なのだけれども、子どもにしてみれば同じことなのだろう。彼は中学の頃、クラス生徒、担任から不当な扱いを受け、自分の殻に閉じこもるようになったという。私も彼との距離を縮めるべく、いろいろと試みるも壁にぶち当たっていた最中であったので、とにかく彼が自分の意見を述べたのがとてもうれしかった。
ほとんど会話らしい会話もできず、彼との接点は授業で私が彼に送るアイコンタクト・メッセージくらいだったのに、なぜ、なぜ?~と思ったがしばらくして私の頭でもなんとか理解できた。それはクラス開きをはじめとして、事あるごとに「ダメなものは、ダメ」の理由を説き、クラスの誰に対しても同じように扱うことを徹底してきたからだったのだろう。
走り書きの真意を後から彼に何とか聞くことができたのだが、クラスボスだろうが成績ハイスコアの女子生徒であろうが自分たちと同じように扱われる~というのは彼にとっては新鮮で痛快だったというのだ。
「私の知らない所できちんと見てくれていたんだ~」改めて教師としてのブレない立ち位置、一貫とした姿勢を示すことの大切さに気付かされた。そしてまた、逆に心配になってきた。「~ということは、自分がいるだけで、誰かに悪い影響を与え、いやな思いをさせてはいないだろうか~」と
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彼から私は大切なことを学んだ。直接には誰かのために何かをしなくとも、指導しなくとも、結果的に誰かに「何か」を感じさせることがある~ということを・・・私に自分自身の「あり方」を見直すきっかけを与えてくれた彼には感謝の言葉しかない。こういった意味で教師、大人は子どもたちから学ぶということが日々たくさんあるのではないだろうか?
人さまのこどもを導こうとか、教えてやろうといったたいそうな考えは本当はおこがましいのではないか?教師はもっと謙虚になってもいいと思う。自分の存在が、生き方が「何か」を感じさせる、もっと欲を言えば影響を与えちょっとでも救いとなるような生き方、姿勢を目指すべきなのではないだろうか?
先生方のまわりにも、直接接点は少ないかもしれないけれど、みなさんに励まされているこどもたちがきっとたくさんいることだろうと思う。日々の忙しさにかまけて、目に見えない大切なもの・・・失ってしまわないよう私も生きていきたい。
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