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「学級崩壊の原因は親、家庭!」とのたまったトンデモ珍コメント~ネット中傷なんかまともに相手にしないのが一番~

今回、久しぶりにトンデモ珍コメントが付いた。

学級崩壊の原因は、親、家庭だろう!!何が教師の責任だ!!何もわかっていないこういった無責任な記事が教師を追い込むんだ。なぜそれがわからないのか。だまっていろ!原文ママ

学級崩壊の原因は親!と決めつけ、
教師のせいではない~という恐ろしい発想

そこには、子どもたちに寄り添っていくという姿勢はまるでなし
これでは子供がかわいそう・・・学級崩壊にもなるはずだわ・・・

こちらのコメントが付いたユメザスの元記事は「学級崩壊するクラス、教師の特徴~クラスと授業に思いがあれば~」。 教師が自らを振り返ることの重要性を私の体験から綴ったものであるが、このコメント主のネームがなんと「保護者」なのである。

学級崩壊で悩んでいる教員が素性を偽って「保護者」としているさもしさがミエミエであろう。保護者が教師を擁護するために、このように初対面の相手に対していきなりどつくとは思えない。

もし、このコメント主が本当に保護者なのであれば、「元教師がバラす、これは困った!担任に嫌われる保護者のパターン10選」をぜひ読んでもらいたい気持ちでいっぱいである。担任との関係がこじれてしまっているのであろうから・・・

当サイトは検索流入が9割以上なので、「学級崩壊 教師」とかでワザワザググッていただいた結果、自己の自尊心を満足させる回答でなかったのでネガテイブコメントで憂さ晴らしといったところだろう。「生徒が悪い!」「すべて親のせい」・・・なんて記事、期待してたのかもしれないが残念!

そもそも、「何でコメント承認して、コメントで回答しないの?」「こんなところで遠回しに語ってんの?」って思われるかもしれないが、こういった出来上がってしまった、こどものような「大人」に何を言っても無駄であるし、私自身そのような時間と労力がもったいないので相手にしないだけなのである。泥仕合ほど醜いものはないし。

これが精神衛生上いちばん。こういったまったくの的外れコメント、荒らしや中傷で困っていたり、悩んでいる方がいたら絶対に、正面からまともに向き合ったりしてはゼッタイダメ!彼らは自分のコメントに相手が反応してくるのが何よりうれしいのである。

そもそもこの記事を書こうとしたのも、ネガティブコメントに悩んでいる人の一助になればと思ってなのである。

建設的な批判、意見ならもちろん受けるし、私だってキチンと聞く耳は持っているつもり。もちろん、私の意見がすべてで、いつも正しいことを言っているなんてこれっぽっちも思ってはいない。繰り返しなるがただ、自分の長い教師経験から得られたものが今、悩んでいる人の少しでも助けになればとの思いでこのサイトを運営しているだけなのである。

それでは、なぜ私がこの人のコメントに回答しなかったのか話したいと思う。








私がこのコメントを相手にしなかった訳

① 社会人、大人、人としてのマナーまるでなし

そもそも、初対面の見ず知らずの人間に面と向かって、これと同じセリフを吐けるのであろうか、この人は。そうであろう、言えやしないであろう。あくまでも私の推測の域を脱しないが、現場でも言うべきところで何も言えない悶々とした鬱積を多く抱えているのではないかと思う。

相手の見えない所で見えない対象であるから、何を言っても許される、どうせ誰だか分からないだろう~くらいの甘ったれた考えで自分のうっ憤を晴らしているだけの悲しい人なのかもしれない。

もし私が、たまたま見たサイトで自分の考えと異なる記事に接した時、コメントするとしたら

「私はこのように思いますが、いかがでしょうか?」

「これこれ、こういう理由であなたの意見は同意できなくて、まったく合点がいかないのですが、どう思われますか?」

などのように、自己の意見を述べるにしても、相応の良識が求めらて当然である。それをこのコメント主はまるで分っていない。第一にして、「大人」としての口のきき方がなっていない。よって返答に値なしと判断した。

② ハナから決めてかかっている

「学級崩壊」と一口に言っても、実際さまざまな要因が複雑に絡まって起きているのが現状であり、この人が言うように「親、家庭だろう!」(この場合、「推測」の「だろう」ではなく、相手に怒りをぶつける言い方)と一つの対象、要因にすべての責任を押し付けることは決してできない。

たしかに、家庭が学校、教師に協力的でないどころか子供を扇動するような親もそれなりにいたし、しつけが全くなっていない子どもなんてザラであった。

それでも、私の場合自分の教科担当のクラス、担任クラスでは学級崩壊など起こらなかった。彼らは、普通にだまっていう事を聞くような子どもたちでは決してない。私の経験校はすべて、最初は教員をチカラ関係という色眼鏡で嘗め回すような、いわゆる指導困難校ばかりだったのである。

これを、このコメント主は「たまたまラッキーだっただけ」~と片付けるであろうか。冗談じゃない。教師であるならばみなやっていることであるから、特段威張れることでもなんでもないが、人知れずそれなりに悩み血のにじむような努力を続けていった結果やっとこ、家庭も徐々に協力的になっていき、気がついたら子どもたちが自分についてくるようになったのである。

このような環境下では小手先のテクニックなんていうものはまったく通用しない。こちらの本気をとことん貫き通し、親も含めて彼らと本気、本音で付き合っていくしかないのである。

たとえ不器用であっても、泥臭く青臭くても、教師の決してあきらめない真摯な姿勢というものは、いつか通じるとまでは行かなくとも彼らの心に何かしら響くものがあるのではないだろうか?

おそらくこの「保護者」という人も、本心ではすべて家庭の責任などとは思っていないはずである。自分が正しくないということは内心、分かっていることと思う。

いまどき、学級崩壊の原因が家庭のみにある~などと本気で信じている人などいるまい。もし、本気でそう信じているのであれば、これは本当に恐ろしいことである。一種の狂信者以外の何ものでもない。そして、まるっきり教師に向いていない人間である。

なぜなら、その責をすべて家庭、保護者に押し付け、教員自らのせいではないと「断定」し、問題から目を背け、逃げの一手であるからだ。つまり自分の努力を放棄した人間であるからだ。

家庭、子どもが問題をかかえていたのなら、その原因、背景を理解しようといっしょに汗をひたすら流し、添い続けていくのが教師の務めではないのか?そういう重責を担っているのが教師という仕事のはずではなかったのか?

それなのにそれなのに、初対面の相手に対しタメ口で、一方的に相手を否定し、自分の意見が絶対とする姿勢は私はまったくをもって理解できない。

これでは、議論の余地がまったくない~と判断し、スルーすることにした。

③ この人の「無責任」という言葉が嫌い

「無責任」とは、自分の言動に責任をもつという態度が無いこと。

私だけでなく、自己の言動に責任を持つのは社会人であれば当たり前のこと。それを無責任という言葉で片付けられるとは心外。

サイト、ブログを運営しているものであれば、誰だってライティングには細心の注意を払っているはず。特に他を傷つけたりすることに関しては。私のその記事は人を傷つける内容であっただろうか?再読してもまったくわからなかった。どこが「無責任」なのか?

たしかに「文責」という言葉はあるが、このようなサイトに責任なんてあるのであろうか? 誰を傷つけるわけでもなく、自己の経験に基づいた考え、方法を誰かの助けにでもなればと思って、細々と披露しているに過ぎない。お金をもらって書いている訳でもなんでもないのである。

そもそもあなたが、無責任だと言いたい。言いたい放題、勝手言って、人の土俵に土足であがりこんできて無礼千万極まりないって感じ。自分で悩んでて検索かけてカチン!と来たからって、他人をからかっていいという法などない。

明らかに誤ったことを書いたり、他を誹謗中傷する内容でない限り、何を書いても許される表現の自由というものを誰でも有している。その侵害に当たるであろう。

繰り返しになるが、私は自分の考えがすべてで常に正しいなんてさらさら思ってはいない。当然、違った考え、意見もたくさんあるだろう。それはそれで尊重もしている。しかし、自分考えと相容れないからと言って、他人を完全否定したり罵詈雑言を浴びせたりしたことなど一度もない。

嫌悪感を感じたならスルーすればいいだけのこと。それができないということは、決して「大人」なんかではなく大人の身体の中に幼児性を抱え込んでいることの証左。




④ 人間として嫌悪感を覚えた

こういった教育ブログを続けていると、本当にいろいろな方と巡りあえて私自身、ほんとうに勉強になる。

これまで、生徒から父兄、そして現職の先生方、教師志望の人たち~とさまざまな人との出会いがあった。たとえ批判的な内容のものであってもさまざまな気付きが得られたり、教えられたこともたくさん・・・

人間誰だって好き嫌いはあるが、自己の考えを堂々とぶつけてくる人たちには、共通して相手を思いやる寛容な気持ちが現れていた。自分の思うような回答でなくとも、自己の感情を乱さず、冷静に対処できる社会的なスキルがあった。それが普通の大人というものだろう。

それがこのコメント主はどうだろう。「子どもっぽい」なんて表現したら子供に対して申し訳ない。子どもはもっともっとピュアな部分を大事にもっていたりする。時に残酷でもあるけれど・・・

こどもっぽいのではなく、「話したくない!」「相手にしたくない!」という嫌悪感を私は覚えたのである。コメントをもらったからといって、そのすべてに即、誠実に回答しなければいけない~なんて決まりがあるわけでもないし。

基本的に自分のことしか考えていないし、自己の正当性を疑っていないので冷静な議論を戦わせることなんてこれっぽちも期待できないと私は判断したのである。きっと自分だけの狭い視点からみた正義というものに極端にこだわっているため、冷静な判断などできなくなってしまっているのであろう。

自己重要性という人間の基本的欲求が満たされていないかわいそうな人だと思えば腹も立たない。他をこきおろし、下に見て、自分をアピールすることでしか彼は自分の欲求を満足させることはできないのである。何でもものごとには順序、やり方というものがある。

失礼千万なコメント云々の前に、自分を棚に上げて、その責のすべてを「家庭、親」に押し付けるなど言語道断である。この言動だけで教員失格と断言できる。もし、彼が本気でそう信じて教壇に今も立っているかと思うと背筋が寒くなる。何より、こどもたちがかわいそうでならない・・・

自己を省みる余裕があり、努力を続けられるひたむきさが備わっていることが教師の最低の条件だったあの時は、遠い昔のはなしになってしまったのだろうか・・・

ネガティブコメントで悩んでいる方、彼らのその欲求をあなたが満たしてあげる義理なんて何もないことにどうか気付いて欲しい。無視、無関心が彼らにはいちばんこたえるのである。



ネット上、SNSで誹謗中傷を受けたり、
罵詈雑言を浴びせられたらどうすればよいか?

ユメザスの関連記事「いじめの恨み一生忘れない~消えない悩み、流せる方法~ネガティブコメントで憂さ晴らし~」を読まれた方はお気づきであろうが、今回のトンデモコメント主は全然穏やかなほうである。

この記事にもあるように、「ささっと消えろ」「死ね詞ねシネ」「憎み呪い続ける」などなど、これまでたくさんのネガティブコメントをもらったし、誹謗中傷もたくさん受けてきた。私の運営するブログ、サイトは他にもあるが、だいたいまんべんなくそういったコメントを頂戴している。それでも私はお構いなしに運営し続けている。なぜか?

それは、こういった中傷を補って余りある、「何か」リターンがあるからに他ならない。ネガティブコメント以上のサンクスメール、励ましや気付きをたくさんたくさんもらっているのである。それなのに、ちょっとくらい気分の悪いコメントつくからってやめてしまうのはなんとももったいない。

人それぞれの考え方、ものごとのとらえ方があるし、事の重大さもまちまちであろうから一概に片付けることはできないが、要は流せばいいだけのはなしなのである。相手と同じ土俵には決して上がらず、相手にしない、視界に入れなければいいのである。

だから私は今回のコメントをもらった時も、コメントを承認せず、即ゴミ箱へ入れた。視界に一切入れず、流しきれいさっぱり忘れるだけ。(ただし、重大な強迫めいた文々などは後々の証拠のために保存しておかなければいけない)

私には残された時間が少ないので、毎日毎日やらなければならないことが本当にたくさん。このようなどうでもいいようなことに自分の大切な時間を使い、神経をすり減らすなんてまっぴらごめん。彼に付き合う義務も義理もまったくない。

先の関連記事でも話しているが、「死ね」とか「お前」とかのキーワードが入ったコメントははねつけるような設定をしている。同じメッセンジャーが何度も何度も絡んでくるような場合はIPアドレスを拒否してそのメッセンジャーが閲覧できないようにもしてしまっている。悪質コメントが付く前の予防策は結構大事かもしれない。

他人の考えやもののとらえ方を変えたり、矯正してやろう、謝罪反省させたい~という考えは時にたいへん危険な要素をはらんでいる。さらに深みに入り込み、そこから二度と抜け出せなくなってしまこともあるだろう。

テラハの木村花さんを自殺に追い込んだ悪質コメントとされた内容は、「顔面偏差値低いし、性格悪いし、生きてる価値あるのかね」「ねえねえ。いつ死ぬの?」などだった。この特定されたコメント主は逮捕なんかされることなく、書類送検どまりだったと聞く。なんでもこれだけでは、罪名が「侮辱罪」にしか該当しないのだそう。

人を死へまで追いやったというのにこれである。それだけ、つぶやく側と受け散る側のひらきがあるということだろう。私も「死ね」「特定してやる」などと言われたことはあるが、「殺すぞ!」と言われたことはいまのところない。「殺すぞ!」とまで言われなければ「脅迫罪」にはならないというのだから如何ともしがたい。

諸外国に比べ、こういった誹謗中傷が軽く見られている我が国では、いまこそ早急な法改正、厳罰化が求められている。

私と木村花さんのケースを単純に比較することなどできないが、木村さんの場合、私のようにサラッとなど流せるような簡単な内容ではなかったのだろう。そして何より、すべて真面目にものごとを捉えてしまう木村さんの性格が災いしたのかもしれない。ネットの書き込みで死ぬなんてばからしい~とカンタンに片付けることができない非常に重たく難しい壁がそこにはある。

このように、真剣にまともに向き合うことにより、かえって自分を追い詰める結果となってしまうのだ。



思い悩むあまり、「ネット 誹謗中傷 特定 削除」とか「ネット 誹謗中傷 相談」「情報開示請求」などと検索すれば、そこには、自分を救ってくれるかもしれない!と思わず思ってしまうような、中傷相手を特定する方法や弁護士法人などがたくさんである。しかし、こういった情報、手段に頼って救済される人はごくわずかであることは容易に想像がつく。

たくさんのお金と時間、あなたの労力、そして神経をギリギリまでにすり減らして得たいものとはいったいぜんたい何なのだろうか? 自分をこんなにも追い詰めた相手を懲らしめてやりたい気持ちは、私にも理解できる。しかし、このような方法を用いたからと言って、相手は本当に悔い改め、あなたに本心から謝罪するものなのであろうか?

私はそうは思わない。そんな殊勝な人ならば、ハナからこんなひどいことに手を染めるはずはないからだ。繰り返しになるが、他人を変えようとしたり、分かってもらいたいと思うことは時に自殺行為になる。自ら、そのような人間とは距離を置いたり、付き合いを遮断するしかないのだ。

本当にこの世の中にはさまざまな人間がいる。会う会わずとも人付き合い、人間関係ほど複雑で難しいものはない。一見こんがらかってわけのわからない問題も、実は高みから俯瞰してみたりすると実はシンプルすぎるほど単純だったりすることもよくある。

一生会うこともないような人との問題に日々思い悩むよりも、身近な人、あなたに近しい人との時間をもっともっと大切にしてほしいと私は願う。人間だれしも、生まれた時から死へのカウントダウンが始まって、生きていられる時間は刻々と削り取られていっているのだから。

あなたの大切な時間(イコール命の一部分)をもう、そのような人たちのために使うのはよそうではないか。

※ 「ネット中傷地獄で自殺未遂、出家…元女性アナ「被害者の駆け込み寺」を作るまでの壮絶体験【再掲】











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