たかが「ことば一つ、ひとこと」とあなどってはいませんか?あなたのそのたった一言で、子どもの将来、人生が違ったものになってしまうこともあるのです。よいほうにも、悪いほうにもですよね、もちろん。
ことば一つで俄然ヤル気が出てきたり、一気にヤル気が失せたり・・・と言葉の持つパワー恐るべしです。日々、子どもたちと交わす何気ない会話・・・教師自身が自覚していなくとも、子どもたちにとっては一生こころに残るものもあるかもしれません。
そうなのですね、教師の一言は重たすぎるくらい重たいものなのです。そうだとしたら、先生!あなたの発する一言、ひとこと・・・より慎重さが求められて当然ですね。
今回は、教師の話し方について細かいことは後回しにして、基本的なスタンスや考え方について話していきます。
話を聞くものの立場に立ってみる
話し上手は聞き上手・・・という言葉があるように、人の話をきちんと聞ける~というパワーも話すこと以上に大切なことです。
まず、上手な話し手を目指す前に、一度話を聞く側の立場に立ってみましょう。
どのような話でしたら聞きやすく、ずっと聞いていることができるでしょう?
明るく
かんたん(誰にでもわかる)
簡潔
明瞭
正確
具体性
これらの要素がスピーチを構成する最低限でしょう。これらを満たさない場合、教師のスピーチ、授業は児童生徒にとってストレスのたまる苦痛なものになってしまいます。
これ以外に内容の深さ、面白さなどももちろん加わってきますが、これらは二の次です。
また、これらの最低条件をクリアするためには当然、生身の人間が話すわけなのですから
声のトーン
声の弱小
スピードの緩急
表情
視線の送り方
などにも当然心配りが必要です。
教師は免状を取って教採に受かったら、赴任一日目からいきなり教壇デビューの特殊な職業です。講師の経験があったとしても、「先生と呼ばれる」人たちのそのほとんどが、話し方・スピーチの専門的トレーニングを受けてきたわけではないのです。
また、「デビュー後」も専門的な鍛錬の機会がある場合は少なく、ほとんどが実践の中で鍛え、磨かれていく~と考えられています。
教師の話は長い
つまらない
何を言っているのか
何を言いたいのか
わからない
などとよく言われる問題の多くは、ここに問題があるような気がしてなりません。自分のスピーチを顧みる機会も、磨いていくチャンスも自分から探って努力していく以外なかなかめぐってこないのですから・・・
私がこの危機的状況を脱したのは、すべてはビデオカメラのお陰です。
こちらの大切さは、これまで何度も話してきましたのであえて今回は触れませんが、自分のスピーチ、授業を自分の眼で正視するということは教師であるならば、とても大切なことです。私もはじめは、自分のスピーチ・姿を自分で見るまでは何かおそろしく、そして実際目にした日には衝撃を受けましたが、いまではいい思い出です。
あらためて繰り返しますが、この「聞くものの立場になってみる」ということはとても大事なことなのです。すべてはここから始まるのですから。きっとあなたも、新たな気付きと発見が得られることを約束します。
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言ったはずだろう?は教師のはずかしい勘違い
自分を顧みない話し方からは、さまざまな問題が浮かび上がってきます。
言ったはず
聞いてないよ
もその一つでしょう。
教師はおおむね、自分の「言った、伝えた」ことは「伝わった」と思いがちです。
つまり「伝えたこと」=「伝わった」ですね。
ですが、これがとんでもない勘違いなんですね。
このことを知らなかった先生は、「伝えた」と「伝わった」とはまったくのベツモノであることを、まずは理解することから始めなければなりません。
自分のことばに責任を持つ!「自分への戒めだよ!」
このことを心がけると、必然的にことば選びに慎重になります。
この言葉使ったら、どう生徒に受け取られ、どう影響を与えていくのだろうか?などと考えることになります。
それだけ、ふだん教員は意識しないで、何気ない思い付きで話しているということなんです。
そうなのですね、一時一瞬の思い付きや気持ちの揺れなどで安易にことばを発しているのです。これは過去の私の反省でもあります。
私の現役時の先輩は、その日一日生徒と話した会話の内容を克明にメモして記録として残し続けていましたが、彼の一言がいまでもハッキリとこころに残っています。
「自分への戒めだよ!」
つまり、記録としてよりも自戒という深い意味が込めらていたのですね。
私も教師時代は、話す生徒が偏らないよう「声掛けチェックシート」なるものを自作して活用していましたが、さらにその上をいく先輩には感心させられることばかりだったのです。
長くてつまらなくて意味不明?
どうして、教師の話は長いのでしょうか?つまらないのでしょうか?
ついでに何を言いたいのかわからないのでしょうか?
そうですね、間が空くことが怖いかのように機関銃のように話し続けてた先生ってよくいましたね。
それは、明らかな準備不足が原因というのが理由の一つ。
そして、先ほども話しましたが、自分を客観視できていないからなのです。
この事実に気付いたのは先述のように、だいぶあとからのことだったのですが、客観視なんてできてたら、こわくてこわくて、ダラダラと自分の人生観やら読んだ本の感想なんて話せませんよ。
例えこれらのことを話すにしても、それなりの準備が必要であるべきで、思い付きで話されたこどもはたまったものではありません。話を遮ることもできず、ただだまってじっと話が終わるのをただひたすら待つしかないのですから・・・
話すのであれば、話すこどもたちのことを考えながら端的にまとめて、具体的にわかりやすくためになるようおもしろく話すべきなのです。
よくいるではありませんか?子どもたちを前にしたダラダラ無駄話は得意?としているのに、職員会議などで簡潔、正確に話すことができずダンマリを決め込んでいる人って。
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前向きで明るいことばを使おう!
今日は教師の話し方の基本的な部分だけにとどめておきますが、最後に教師の使う言葉自体の重要性についてかんたんに話して終わります。
実は、自らが使うことばについてきっちりと責任を持つことと同じくらい「ことば選び」も重要です。
普段みなさんは、どのようなことばをつかっていますか?
よく言っちゃう、使っているくせというか傾向というものが必ずありますよね。
先生のその言葉、前向きで明るいものですか?それとも、否定的で相手を暗くさせるものでしょうか?
命令調ですか、それとも誘導調でしょうか?
何気なく言い放ったその「一言」が平気で子供を傷つけることばであったり、暗くさせたりしてしまったりしていませんか?
次回は教師が使う「ことばそのもの」について一緒に考えていきましょう!
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