教師を辞めたいときに 教育・教師

死にたい、教師を辞めたいときに読む本~どう生きるかは「どう死ぬか」~

ここのところ、当サイトに寄せられる相談内容が教師の「辞めたい!」「辞めようか?」、そして「」に関係するものが多くなってきています。

世相を反映して教師の負担がこれまで以上に増え、心身ともにギリギリまでのストレスにさらされているのでしょう。

辞めたいシリーズ」のコメントや個別相談で幾度となく話してきたことですので、こちらでの深入りは避けますが、どちらに進んだとしても「道」は当然あります。

よって、辞めるにせよ残るにせよ、正解不正解、成功失敗などは当たり前のことではありますがありません。

もしあるとしたら、それは個人の感情の問題でしょう。








残るも去るも、それなりの「覚悟」というものが要ります。

要はその「覚悟」がホンモノかどうかということだけなのではないでしょうか? その思いが中途半端が故に悩むのでしょう。

問題は一見複雑そうであっても、実は非常にシンプルなものなのかもしれませんね。

私自身のこれまでを振り返ってみても、どちらとも言えないのです。学校に残っていれば見えた景色もあれば、辞めたからこそ体験できたこと、出会えた人もいっぱいいるのですから。

正直言いますと、いまだに学校への未練はまだ完全には断ち切れてはいません。しかし、辞めたことを悔いる自分にだけはなりたくないがために、これまで自分なりに必死に前を向いて歩いてきました。

迷うのも当然、そして必然・・・

より良い自分になるための分岐点なのですね、いまは。

そんな迷えるあなたのために、私自身が道に迷った時、本当に救われた本を今回は2冊紹介します。本当はもっともっと紹介したい本があるのですが、「教師をやめようか?」という時にこそ、ぜひ読んで欲しい作品を厳選しました。

私にもあなたにも必ず訪れる「死」・・・その時は、「悔いのない人生だったな」って思いたいじゃないですか?

人の死は、その人が「どう生きたか?」に連なるものなのではないでしょうか?

そのような意味でこの2冊は、「人間が生きる」ということについて深く考えさせられた本でした。



「不思議な少年」マーク・トウェイン

とにかくどこまでも、悲観的で暗い。人間社会と人間を、終始一貫冷徹且つ冷静に「サタン」と少年たちとの交流を通して描き切っている。

少年たちが「サタン」と呼ぶこの不思議な少年は果たして悪魔か?それとも全能なる神なのか?

さまざまな奇跡(人間から見るとそう思える)を巻き起こすことができるサタンからしたら、われわれ人間はおろか、この地球さえもちっぽけな取るに取らない存在なのかもしれない。

「そんなちっぽけな星で、どうでもいいような人間たちだけれどもみんなせいいっぱいがんばっているんだね」

「人間っていいね」

などとは最後まで一言も言わない。むしろ、人間を人間の持ついやらしさ、醜さ、卑しさ、情けなさ、恥ずかしさを通してこれでもか!というくらいこき下ろしている。

果ては、「良心」などというものを人間は持っているというが、そんなものは「ない」とサタンは言い切る。

本当に人間は自由意志などは元来持ってはおらず、ただ単なる機械仕掛けの存在なのであろうか?

十中八九、「悪を」選択し愚行を繰り返す人間に明日はないのか?

こんなにも偽善的で愚かである人間ではあるが、それでも私は人間とこの世の中を嫌いにはなれない。




たしかにサタンが言うように、この世の中は一瞬の夢であり、幻なのかもしれない。

永遠を手中に収めたサタンからしたら、なんとも馬鹿らしい話だろうが、束の間の夢だからこそ、人間は人間なりにもがきつづけ踊り続けるのであろう。

たとえ、それが自らの意志によるものではなく、他者に操られ導かれたものだったとしても、人は最後まで自分らしく、そして人間らしく生きたいはずだ。と私は思う。

こんな私の戯言をサタンはきっと鼻で笑うであろうが、こんなちっぽけな私だってサタンを鼻で笑って片付けてやることもできるのだ。

「人間は人間なりにいまを生きているのだ」

「お前は、この苦しみの中から「光」を見出だすことは永遠にあるまい」~と。

読み方により、思いっきり落ちるところまで落ちることもできるし、その先に一条の光を見出すこともできる迷える人におすすめの作品。

教員は教壇に立つことになったその日から、行先不明のベルトコンベアに乗せられたような存在かもしれない。自分の意思とは関係なく、退職のその日までコンベアのうえで演じなければいけない。教師であることを。

自分自身の意思で最後まで演じ続けらた人の終着駅は果たして「幸福」なのか?

自らの意思?で、途中下車をした私のような存在は「不幸」なのであろうか?

その答えはきっとそれぞれの胸の内にある。

あらすじ~出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1590年5月、オーストリアのエーセルドルフ(Eseldorf ドイツ語でロバの村、すなわち愚者の村の意)に、自らを「サタン」と名乗る少年が現れる。サタンは不思議な力をテオドール達に次々と見せる。そこにピーター神父が通り、財布を落とす。サタンはその中に大量の金貨を入れて返すが、同じころに占星術師の金貨がなくなっていたため、ピーター神父は窃盗の罪で投獄されてしまう。

その後村では次々と事件が起こる。サタンはその様子を見るたびに人間を嘲る。

そのうちにピーター神父の裁判が始まる。裁判は神父にとって圧倒的に不利なものだったが、サタンの計らいにより無罪となる。しかしサタンは神父に嘘の判決を伝えたため、神父は自分のことを皇帝と思い込んでしまう。サタン曰く、人間が幸福になるには、正気でなくなるしかないと・・・

こちらを読了した暁には、ぜひ同じトゥエインの「人間とは何か」もあわせて読んでもらいたい。さらに、人間の有り方、生き方について深く私は考えさせられた。

「宇宙からの帰還」立花隆

「いま自分の向き合っている仕事が、どれだけ子どもたちに影響を与えているのだろう?」

「自分の存在とはいったい何なのだろう?」

「自分はどこに向かい、そしてどこに行きつこうとしているのだろうか?」

「自分の果たすべきミッションは、ほんとうにこれなのだろうか?」

「なんでわたしは、いま学校にいるのだろう?」

そんなこと思ったことはないだろうか? 私自身何度思ったことだろう。そんな時、何度か読んでいたのがこの「宇宙からの帰還」。

とにかくスケールが壮大すぎて、宇宙に行ったことがないものにはすべてがすべてファンタージにしか映らないがしかし、著者が直にアメリカの宇宙飛行士12人に独自取材するなかで、あぶりだされていく彼らの宇宙体験は迫真に迫るものがある。

なにせ、宇宙に行ったことがあるものは本当に限られているのだ。



一口に「宇宙体験」といっても、宇宙船の中だけの体験と、実際に月面に降り立ったり、宇宙遊泳したりと宇宙空間に身を投じるのとではまったく、その感じ方、ひいてはその後の人生に及ぼす影響というものがまったく異なってくるという。

それほど、宇宙体験は人間に強烈な「何か」を与えるらしい。狂人になってしまったもの、ビジネスで大成功を収めたもの、宗教家に転じていったもの・・・宇宙体験は間違いなくこれまでの人生観を覆すものになるとみな論じている。ただ一人の例外を除いて・・・

この「ただ一人」の宇宙体験が、私はいちばん気になった。これもまた宇宙体験の成せる業なのであろう。

彼らのほとんどが科学者、技術者、医学者、軍人など、「目に実際に見えるもの」を追求してきたプロフェッショナルであったというのに、一様に宇宙体験後は宗教、哲学、思想などのように「実際に目には見えず」思うもの、考えるものに傾倒していった事実は何を示しているのであろうか?

人間の存在を超えた「何か」を、みな彼らは「体感」したのではなかろうか? それを「神」と感じるものもいただろうし、神の存在を超えた創造主のような「何か」を感じたものもいたはずだ。

こんな宇宙体験をしてしまった日には、もう日常のゴタゴタ、ちっぽけな悩みなど、どうでもいい些事に映ること必至なのであろう。

実際に宇宙空間から地球をこの眼で確かめてみたい!きっとそう思うであろう。

いかんせんこの著作が世に出たのは「1985年」のこと。つくば万博が開かれた年なのだ。最近新版が出されたというものの古さは否めない。しかし、考えさせてくれるものが多すぎる名著であることは間違いない。おそらくと言うか間違いなく私は宇宙体験はできないまま死ぬことになるが、彼らがしてきた宇宙体験を共有した感じになれるだけで素直に読んでよかった!と思えるのである。

ただ、これらの宇宙飛行士の中には日本を始めアジアの戦争に実際に参戦したものがいた事実を告げなければいけない。この時代、米ソの宇宙空間進出競争が激しさを増していき、宇宙空間の平和利用など二の次だった時代のはずである。

あれから30数年経った今、私たちは考えなければならない。これから先、人類はどのようなかたちで宇宙空間に進んでいくべきなのかを。

宇宙飛行士の一人は、「宇宙空間の環境は厳しすぎて、人間が争うことより手を携えて協力していくことになるような不思議な空間だ」のようなことを述べていたが、彼の言葉がただ単に「夢物語」で終わらないことを私は祈る。

最後に宇宙飛行士の一人、ジェリー・シラーが著者に語った一部を紹介したいと思う。

「実際、宇宙から見たら、人間の作ったものはほとんど見えないくらい小さい。見えるものは、海、山、川、森、砂漠、もっぱら大自然のみだ。自然の中における人間の営みの小ささを見ていると、人間というものは、人間が考えているほどたいした存在ではないのだということがわかってくる。

それだけではない。地球から目を離して、宇宙全体の広がりに目をやると、今度は宇宙の中における地球の存在が、やはり人間が考えるほどたいしたものではないことがわかってくる。

大気圏外から宇宙を見ると、地球から宇宙を見るときの5~6倍は多くの星が見える。空一面が銀河の如く見え、銀河は星でできた固形物であるかのごとく見える。地球はこの宇宙空間に充満している無数の天体の一つにすぎないのだ。

人間が考えるように地球がなにか特別の存在であるというのは、単なる人間の思い込みに過ぎない。

人間は地球の上では大した存在ではなく、地球は宇宙の中ではたいした存在ではない。

だから、人間は宇宙の中では取るに足らない存在であるという事が、宇宙を眺めているうちに突然わかってくる」

「死にたい」~「死」というものは、人であれば間違いなく誰にでも訪れるもの。それが、ただ早いか遅いかの違い・・・時間の長さ、たんなる「量」の問題に過ぎない。

そして、どう生きたか・・・「質」の問題。

今の私の双肩には、「量」よりも、この「質」の問題が重くのしかかっている。










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