生徒指導/教育技術

生徒は「呼び捨て」か、「君、さん」付け?話し方を教えるのも教師のつとめ~「あだ名禁止」「さん付け奨励」を考える 





はじめて教壇に立つ時、児童生徒をどう呼ぶか?教師誰しも一度は迷うことでしょう。途中から呼び方を変えるのは、お互いなんだかしっくりこないですよね。

そこで、今回は子どもの呼び方の決め手になるポイントをまとめてみました。また、子どもの話し方について、どう指導していったらよいのかもいっしょに考えてみましょう。

 

「苗(名)字」でなく「名前」で呼ぶ

私の場合、最初から「呼び捨て」それも下の名前で行く!と決めていました。理由は単純。自分がそう学生時代、呼ばれたかったから。苗字、姓で呼び捨てで呼ばれるのは何か、囚人みたいというか、よそよそしくていやですよね。何か自分じゃないようで・・・

そして何よりもアンダーネームには、名付け親の願いが込められていて、本人の証(あかし)である~といった個人的な思いこみで、そう呼ぶことに決めたのです。ここのところはもちろん人によって受け止め方、感じ方が違って当然ですね。

実際、この呼び方についてアンケートも毎回実施していましたが、この「下の名前」、そして「呼び捨て」で呼ぶ方法は概ね歓迎されていました。

結局このスタイルで最後まで通しましたが、必ず一発目の「クラス開き」、「授業開き」で生徒に確認を取ることを忘れませんでした。「下の名前で呼ぶけど、抵抗ある生徒は後からでいいので言って欲しい!」と。当然「名字」で呼んでほしい~という希望もわずかですがありますので、確認は必要でしょう。

それぞれの家庭の事情があったり、親御さんの願いなどが込められた我が子の名前ですが、最近の若い世代の親御さんたちは、子どもたちにキラキラネームやとんでもネームをつけることをまったく厭いません。カタカナでまんまの「キラリ」とか、宗教からきているのか「シオン」、「マリナ」ではなく「マリーナ」など一度聞いたら忘れられないインパクトバツグンの名前がズラリです。こういった自分につけられた名前があまり自分の中で受け入れられないでいる子どもの心情もくみ取ることは必要です。

生徒は「さん付け」?「呼び捨て」?

最近の生徒は「呼び捨て」にされることに慣れていない者も多く、抵抗がある生徒もいることでしょう。それに加えて最近の「さん付け」奨励です。子どもたちでそう呼びあうことをすすめるだけでなく、小学校では教師の多くがそう呼んでいるそうです。

一度「さん付け」で行くことにしたなら、余程のことがあってもなくとも最低一年はそれで通さなければいけないでしょう。先述のように私は「アンダーネームの呼び捨て」で通しましたが、あくまでこれは私の場合であってそれぞれのスタイルがあって当然です。

これも授業開き、クラス開きの時に手短に説明してました。「呼び捨てにするということは、決して馬鹿にしたり、下に見ているということではなく、教師であるとともに、学校での親、兄のような存在でありたいと思っているので、自分の中では「さん付け」はどうも他人行儀でしっくりこない。自分的にはアンダーネーム&呼び捨てで行きたい。異論のある生徒は遠慮くなく言ってほしい」~と。

これまた、中には「君づけ」「さん付け」にしてほしいという要望もわずかながらあったものの、そう区別して読んでいるうちに本人たちが気恥ずかしくなったらしく結局呼び捨てになっていったのでした。

生徒と真摯な態度で相対するために、自分のおごりを常に戒めるためといって「さん付け」で通していた同僚ももちろんおりました。それぞれの自己の「内なる主人」の声に忠実に従えばいいだけのことです。教師になったくらいですからきっと「志(こころざし)」は内に秘めているのでしょうから。




統一感のない呼び方は絶対NG!

しかし、時、場所、児童生徒によって、「呼び方」をいろいろ変えることは、絶対にいけません!教師にそのつもりがなくとも、生徒によっては「差別」と捉えるからです。呼び方一つで一々うるさい、細かい~という声が聞こえてきそうですが、実は教師が考えている以上に、生徒にとって「呼び方」というものは重要なものであり、「呼び方」の違いに敏感に反応するものであるということは、忘れてはいけないことでしょう。

「差別」と「区別」は明らかに違います。教師が「区別」して使い分けているつもりであっても、こどもらは「差別」として受け取ってしまうかもしれないのです。

大事なことなので繰り返しますが、教員サイドにしてみれば些細(ささい)なことかも知れませんが、実は児童生徒にとってはとても大切なことなのです。

「ひいき」や「差別」から起きる様々な問題が起きぬよう、教師には細心の心配り、心遣いが求められるからです。

教師が生徒をあだ名で呼ぶのは、最悪極悪!

教師として、絶対にやってはいけないことは、児童生徒を「あだ名」で呼ぶことです。あだ名が元となっていじめになった場合、教師がいじめに積極的に加担したことになってしまいます。こどもに一生の傷を負わせてしまうことは絶対にあってはなりません。

また一人をあだ名で呼ぶことになると線引きも大変でしょうし、あだ名で呼ばれないものとの「区別」「差別」も問題になってきてしまいます。もしどうしても絶対何があってもそう呼ぶ!としたなら、本人公認のあだ名をそれぞれ挙げさせて全員ニックネームで呼ぶべきです。

私が中学生だったころ「ひろし」というクラスの人気者がいました。みんなに「ヒロ」とか「ヒロくん」と呼ばれていたのですが、クラス替えがあり担任が変わったとたん新しい担任はこともあろうか彼を「ヒロポン」と呼び始めたのです。

どうして私の担任がそのような「蔑称(担任にそのつもりがなくても本人は相当嫌がっていました)」で呼ぶようになったのか記憶はたしかではないのですが、やがて彼は「ヤクチュウ(薬物中毒の略称)」と侮蔑されるようになってしまったのです。御存知のように「ヒロポン」は昔の覚せい剤の一種の別称です。今でもヒロは担任を許せずにいることでしょう。

たとえば、そのあだ名で呼ばれることが本人も気に入っていてまわりの誰もが認めるものである場合はどうでしょう。これでもダメなのです。これまた私の昔の話になりますが、「吉田さん」と「なつきさん」という女子生徒がいました。今度は教科担任がこのふたりだけを「ヨッシー」「ナッキー」呼ばわりです。よほどのお気に入りだったのが生徒目線からもわかり、正直気持ち悪かったです。

本人たちも自分たちだけが特別扱いされているように感じていたのでしょう。そのあだ名で呼ばれるときは、何ともバツの悪そうな感じでした。こういった教員サイドによるデリカシー、感性、共感性のなさで相当数の子どもが今日もまたどこかで傷ついていることでしょう。

繰り返しになりますが、統一感のない呼び方も一切ダメ!例外を一つ認めると、あとはもうなし崩しです。たかが名前ひとつで・・・では済まされないのです。

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子ども同士の「さん付け」奨励、「あだ名禁止」の賛否両論はあって当然
ただし、子どもに考えさせるチャンスを奪う一律強制はあり得ない

「さん付け」「あだ名禁止」もそれぞれ一長一短があり、簡単に「良い」「悪い」で片づけられる問題ではないことは誰にもすぐにわかることです。しかしこれらは子どもたちに無理強いできるものでは決してありません。仮に強制するにしても、子どもたちの納得いく説明があって然るべきでしょう。

そもそも白黒ハッキリさせられないものを、学校サイドで奨励だったり強制すること自体がおかしくはありませんか?「あだ名」の全部がぜんぶ「悪」なのではなく、やはり個々のあだ名によって判断するのが、まっとうなやり方でしょう。本人が嫌悪感を覚えるものならNG、当然侮辱したり人格を貶めるものなんかあり得ません。

もっとも学校サイドで一方的に抑え込んでも、学校限定で、それも表向きだけに終わってしまうことになると思います。なぜなら、キョウビの子どもたち、小学校低学年辺りからスマホ、PCに慣れ親しみ、自分の手足のように扱うではありませんか?学校の目の届かないところで。SNSは言うに及ばずさまざまなプラットフォーム、ツールを用いて好きなように呼び合うでしょうね。

こういった問題を、全体、子どもたちを交えて話し合う前に学校側から一方的にNGを突き付けるやり方は、真に子どもサイドに立った考えなんかでは決してなく、学校、大人側の都合丸出しの浅はかな行為以外の何ものでもないでしょう。

子どもたちは、「相手をどう呼んだらいいかな?」「こんな言い方したら友だちはどう思うだろう?」などのように自分の中、そして友人同士で考えていく過程でさまざまな人間関係を学んでいくものです。傷つけあい助け合っていく過程があるからこそ、学びがあるのです。

それを大人の浅はかなうわべだけ取り繕った考えで、子ども同士の呼び方を強制するなどということがまかり通る学校、社会は末恐ろしいと私は思います。「あだ名」で呼び合うことで相手を傷付ける恐れがある、いじめに発展してしまうかもしれない、あだ名で呼び合うことで起きる悲劇を、少しでも未然に回避できるかもしれない・・・などのようにきっと考えてのことだと思いますが、果たしてこういったことは大人サイドが奨励強制するものなのでしょうか?

「最近クラスでのお互いの呼び合い方が乱れているようだ。もしかしたら誰かを誰かが知らないうちに傷付けているのかもしれない。今、呼ばれている自分のあだ名がイヤなもの、友達がそう呼ばれていて「ひどい!」と感じている呼び方があったら記入するように」

と私のクラスで無記名でのアンケートを取ったところさまざまな子どもたちの言いたくてもなかなか言い出せなかった内なる声を聴くことができました。



「ずっとイヤでしょうがなかった。こういくチャンスがあってよかった」

「どう呼ぼうと自分たちもバカではないので、いちおう相手を考えて呼んでいるつもり。でもちょっとふざけすぎたかも」

「いまのニックネーム自分でも気に入っている。このネームのおかげで女子も気軽に声かけてくれるようになったし」

「なぜか私はあだ名、誰もつけてくれない。なんか差別されてるようで正直つらい」

後日こういった意見を踏まえたうえで、クラス全体に個人名、特定のあだ名を告げることなしに、「もう一度、自分たちだけでクラス全体で話し合うように!」とだけ告げたのでした。あとはクラス委員に進行を任せ私は成り行きを見守るだけで子供たちなりに自分たちの言動を振り返ることができたのでした。

高校生は高校生なりに相手の立場に立って物事を考えられるのです。子供と言う存在は良くも悪くも人間関係に揉まれたくましくなっていくものなのではないでしょうか?そのような機会を奪いかねない画一的&統一的な一律奨励、強制はいかがなものでしょうか?

あだ名が誰の目にも明らかな蔑称であったり相手の尊厳を傷つけるものではない限り、互いに認め合っていればOKなのでしょう。相手をどう呼ぶといった子どもに与えられた自己決定権にまで介入する必要はなしです。子どもたちだって相手を傷付けない限り自分たちの好きな呼び方できっと呼びやいはずです。彼らなりのコミュニケーション、間合いの取り方というものがあるのです。

あだ名を禁止にしたからと言って、いじめが少なくなる~などといった単純な話ではないはずです。人間関係と言うものは。

本当に大切なことは事前の余計すぎる忖度などではなく、傷つけ合いながらも人を思いやる気持ちを醸成させていく過程そのものでしょう。この過程を見守るのが学校。この道のりぬきにしてカンタンに「コレにしてね!」「これはダメよ!」それはないでしょう。

あだ名は「相手を親しんでつける名前」というふうに定義されています。あだ名はおろか、子ども同士で呼び合うのに「呼び捨て」禁止、極め付けが「短縮形禁止」・・・友だちの「浜田省吾」さんを「ハマショー」と呼んではダメなのですね。

「さん付け」にしたってそうです。私的には大きなお世話!って感じです。子ども同士って出会ったばかりのころはお互い「くんづけ」「さん付け」で話してて、距離が縮まっていくうち呼び捨てになって言ったり愛称で呼ぶようになるじゃないですか?

無駄で無意味な大人の気遣いすぎって感じですよ。子ども同士であきたらず教員が子どもを「さん付け」って・・・勘違いすぎる「おこさま」を量産するだけに終わらなければよいのですが・・・やはり言葉遣い、呼び方に呼ぶ方の気持ちがこもっていて、かつ相手が受け入れOK!な状態でないとダメですよ、どうしても。

もちろん、人によっては「さん付け」によって相手を敬う気持ちが生まれるのかもしれませんが、相手を敬う気持ちというものは人間と人間がお互い付き合っていくなかで培われるものでしょう。言葉のききざわりだけで相手を尊重できるものなのでしょうか?

問題が起きないよう、少なくしたいがための大人の浅知恵がかえって問題を大きくすることがないといいのですが、最近の教育動向はどうも私には解せませぬ。私ごときがどうこういったって何にも変わりはしませぬが本当に大丈夫なのでしょうか?この国の未来は・・・



生徒は教師をどう呼べばいいのか?

これは簡単な事ですね。強制するものでもないし、できるものでもありません。しかし、ウラで「呼び捨て」で呼ばれているのは仕方ないにしても、「公」の場で、仮にも目上の者に対する「呼び方」を指導するのも、教師の大切な役割なのではないでしょうか。信頼関係ができていれば、子どもたちだって呼び方くらい自分で考えられるはずです。

「さん付け」でも「~先生」でも構わないでしょう。しかし、自分のことを「〇〇先生」と呼べ!というのは教員のおごり以外の何物でもないと思います。呼び捨てを指導するならともかく、自分を「先生」と呼べ~などと畏(おそ)れ多くて私にはできません。

また、「さん付け」でも「先生」でもない呼び方として、これまた「愛称」「ニックネーム」「あだ名」というものがありますが、この場合どうでしょう?!本人を侮蔑したりしたようなものでない限り、これはこれで認められてもよいのではないでしょうか? これまた受け取り方、感じ方は百人百様でしょうが・・・

ただし、これは個人間で話をするときや、学校での授業以外の時間に限られるでしょう。授業や職員室など公の場ではそれなりの呼び方をするように私は指導していました。この区別がきちんとなされていれば問題はないですね。ちなみに私の場合、女子生徒の多い学校が多かったせいもあったのかもしれませんが、なぜか「まめちゃん」とか「まめっち」と呼ばれていましたが、みんなこんなものでしょう。

「名前をつけてやる」の画像検索結果

教師は自分をどう呼ぶべきか?

これは断言してもいいでしょう。ズバリ!私(わたし)です。同僚では「自分は」と常々言っていたものもおりました。「オレ」「名前」論外!「先生」勘違いも甚だしい!自分で自分のことを「先生」などと呼んでいる人は、私は「教師」とは認めたくはないです。(これは、先生様待遇にドップリ浸かっている先生様方から下の記事に直接問い合わせ、そしてコメントをもらいましたが、さまざまな意見があって当然です。私はこう思い、そうしてきただけであって、ひとさまに何も強制しようとしているわけでもなんでもありませんのでご勘弁を)

自分自身を「先生」と呼ぶのは私の場合、どうも抵抗があります。あり得ないですね。言いすぎですって?たしかにそうなのかもしれませんが、教師たるもの常に謙虚な姿勢でありたい。それは、生徒の前でも同じことなのではないでしょうか。

この「自称先生問題」については、「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし②」~自分で自分を「先生!」ってバカ丸出しで恥ずかしくないですか?~」で前に詳しく話していますのでここでは深入りはしませんが、「先生」と呼ばれる職業、政治家、医師、弁護士などの士業・・・数多くあれど彼らは自分のことを「先生」などと呼ぶでしょうか?

それにしても学術的な領域にまで踏み込んできたコメント主さんはスゴイです。

上の記事で現役の保育士さんからのコメントにもあるように、みなさんそれが当たり前~と思ってしまっているのですね。少なくとも私がこれまで経験してきた数々の学校ではこのようなトンデモ勘違いな「先生様」はほとんどいませんでした。

そもそも「先生」とは他人に対して使う尊称であって、自分に使うものでは決してないものだと私は思うのですがいかがでしょうか?




普通の会話でどう話す?

児童生徒と親しんでくると、その関係、言葉づかいがなあなあの慣れ合いになっているのをよく見かけますね。これは一見、ほほえましい関係にみえますが、児童生徒と教師ははたして「友人」「ともだち」「同僚」なのでしょうか?

どんな時も一線を越えてはいけない。それを教えるのも教師の仕事。教師の言葉遣いを、生徒は粒(つぶ)さに観察していますよ。こわいくらい・・・

私はスラング、汚い言葉遣い、差別用語、上から目線の言葉(例えば「お前」)、誤った言葉遣いをしないよう極力気を付けました。それでも誤ってしまうのが人間で、私のダメなところ。生徒に「私の言葉遣いでNGなところがあった場合、その場その時で教えてほしい」と「クラス開き」「授業開き」で話していたので、たまに生徒から指摘されるのはありがたいことでした。

時と場所、相手に応じた話し方をするのは、「差別」ではなく、「マナー」です。これから、この社会で生きていく彼らのためにできることは何でもしようではありませんか。

公の場で同僚を「君(くん・きみ)」呼ばわりは・・・

先生方、みなさんのまわりでもこういう人いませんか?先輩風を吹かせてエラそーに、イキがるエラぶるともいうのでしょうか。

前にも話しましたが、私は学校勤め時代はもちろんのこと、民間におった時にも後輩同僚先輩かかわらず「さん付け」でした。当然上長(じょうちょう)、上役(うわやく)、管理職には役職名で呼ぶときもありましたが、基本みな「さん付け」、学校では「〇〇先生」を使っておりました。

主君、君主という言葉があるように、「君」という言葉のルーツをたどると、必ずしも今私たちが「君」に感じているようなものではないことがわかりますが、現在では目上の人間には使うことのできないもののはずです。相手をこのように呼ぶ人には同じように「君付け」してあげればその人の本性が顔をのぞかせることでしょう。きっと烈火のごとく怒りまくりでしょう。

「君づけ」ならまだましなほうのようで、最近、公共の電波でレポーターを「お前」呼ばわりしていじり?まくって非難轟々の宮根誠司アナウンサーという人がいますが、いまだにこういう人がいるのですね。たまたま見ていて気分が悪くなりました。

御存知のように酷暑の中、オリンピック開会式のブルーインパルス出現のナマの雰囲気を西山レポーターなりに一生懸命レポートしようとしているのに、フォローするどころか、十分に意味も分かって臨場感ありありだったのに、揚げ足ばっかり取った挙句

「意味わからん」

「開会式の当日に、西山が大失敗しまして」

「笑いの金メダル第一号をあげます」

そしてとどめを刺すように、

「お前に言うてんねん」

これを視聴した人はみんなこう思ったはずです。

「十分意味は伝わったし、大失敗は宮根アナウンサーあなた。ほんまに「お前」に言うてんねん」

立場の弱い人間を、公開でいじりいじめ倒しているようで本当に気分良くないです。涼しいスタジオに入り浸っていると、現場で体張ってるリポーターのことなんかどうでもよくなってしまうのでしょうか?情報番組を陰に日向に支えてくれている大切な存在であるはずなのに、こういった感覚、それこそ「意味わからん」し、恐ろしいです。宮根さんのまわりでニヤついていたほかの人たちも含めてまさしくいじめの構図に思えたのでした。

無二の親友男同士が使う「お前と俺」は、お前と俺の関係だからこそ使えるのです。公の前で、ましてこのように立場がハッキリしている状況で普通、使いますか使えますか?彼はリポーターを嘲笑したり小馬鹿にすることよって笑いを取りたかったのかもしれませんが、違うでしょう。

番組を仕切る立場にいるのであればなおさら、そこは弁(わきまえ)なくてはならないはずです。私の学生時代にも、こういう教員がおりました。一人の生徒の間違いを揚げ足取って笑いに変えようとする・・・一見何でもないことのように思ってしまう、思えてしまう、実はこの感覚こそ恐れるべきことだと私は思います。




この一件を他人事にとらえるのではなく、自戒の念を新たにせねばと思ったのでした。驕り、慢心、慣れ・・・はほんとうに怖いです。

宮根アナウンサーに限った話では決してなく、TVの世界では、こういった序列というか人間のランク付けが平然と行われているものなのでしょうか?坂上忍さんという人も、「さん」「くん」「ちゃん」「呼び捨て」「愛称ニックネーム」「先生」、そして「お前呼ばわり」を見事に使い分けていますね。自分こそが「キング」であり、現場も出演者も自分の思うまま~となるとああなってしまうのですかね。頭のいいひとですから、彼なりの使い分けのルールがきっちり敷かれているのでしょうが、ああもあからさまに「差別」しているのを見ると、なんかなんかね・・・と一抹の寂しさを感じるのです。こんな風に思うのはきっと私だけではないはずです。

スタジオに呼ばれたコメンテーター、ブラックマヨネーズの小杉さんは「小杉」で、ヒロミさんは「ヒロミさん」・・・坂上さんなりのきちっとしたマイルールに基づいて使い分けているのでしょうが、彼にとってはきちんとした「区別」であっても、これはれっきとした「差別」ですよね。48歳のおじさんをつかまえて「呼び捨て」はないでしょう。たとえ坂上さんと小杉さんとの信頼関係のもと、普段からそう呼びあっていたとしても公共の電波で流す以上、それなりの大人の話し方、呼び方が求められてしかるべきです。

きっと、これまでの様々な出演者も「なんでオレだけ、「お前」なんだよ?みんなも見てるんだからせめて名前で呼べよ!!」とか、「薬丸さんは「やっくん」、野々村真さんは「マコちゃん」、オレやっくんと年ちかいんだけど、また呼び捨てか・・・」なんて思っていることでしょう。

いまをときめくスパースター大谷翔平選手に目を転じても、どうやら同じことのようです。これだけワールドワイド的な活躍をしている現役選手であるにもかかわらずです。MLBオールスター戦の解説役でテレビ出演した長嶋一茂さんは「大谷くん」「大谷くん」の連発です。友達同士で呼び合う「君」でも、女性がよく男性を呼ぶときの「くん」なんかでももちろんありません。

同じ野球人として、一流人へのリスペクトというものがまるで感じられず悲しい限りです。これもまた、「公(おおやけ」の場なのですが・・・

実績、実力、人気(おまけに人格も)いずれを比べても、失礼ではありますが、同じ土台にすら上がれないじゃありませんか?(父親が超有名人ということだけを除いては)古今無双、唯一無二の存在である人を捕まえての「君付け」はそれこそ本人馬鹿丸出しじゃありませんか?いったい全体何様のつもりでしょうか?

こういった一見、スルーしてしまいそうなところをきっちり押さえている方もたまにいてほっとさせられるのです。柔道の野村忠宏さんは、常々解説でもどのような選手であっても必ず「〇〇選手」で通しています。あれだけ華々しい実績をもった金メダリストが、です。彼からすると、「だからこそ」「そうあらねばならない」なのでしょう、きっと。

今回の一件で高校時代にお世話になった世界史の先生を思い出しました。ここぞ・・・というときは阿修羅のような形相で厳しく叱ってくれる先生でしたが、ふだんは「~ですよね」「こうかもしれませんよ」「こうしたらいいと思いませんか?」「こういうやり方もありますよ」・・・などのように、ふだんは自分の考え方を押し付けず生徒の自発的発言を独特の切り口で促す方でした。それもいつも、このようにですます調のていねい語で話すのです。考えさせられますね。

今回、登場いただいた宮根さん、長嶋さんからもわたしたちは学ぶことがきっとたくさんあるはずです。そこに気づけるか、スルーしてしまうかの差は大きいと思います。何でもないようなちっちゃなことが実は大切なことであった・・・ということは結構ありますよね。

自戒の念を新たに・・・と言いましたが、なんでも例外はあるようです。卒業生を出して十年も経つとほんとうみんな大人、社会人、お父さんお母さんの顔です。当然むかしの面影はありますが、みんなそれぞれの肩書を持っています。教師になったもの、会社員に社長、市会議員、農家にお婿入り、フリーター、専業主夫などなど・・・となんでもありです。みんなそれぞれの道で生きています、たくましく。

いくら彼らの肩書がすごいものであっても偉くなっても、久しぶりに会ったりするとやっぱりお互い昔のまんま、何も変わらないのです。もちろん呼び方も「恵美」は「恵美」であって「啓介」は「啓介」のままなのです。辞めた今となっても、こんなしあわせな気持ちにさせてくれる教師という仕事はほんとうに素敵な職業です。「いま」があるあなた、先生、当たり前の日常・・・大切にされてくださいね。陰ながら先生の活躍を祈っております。

関 連 記 事

先生と呼ばれるほどの馬鹿でもなし①~先生は先生をどう呼べばいいのか~教師同士の呼び方呼ばれ方

そして、結論!

「差別」を感じさせる統一感のなさはNG!

「あだな」で呼ぶなど、論外!

自分を「先生」、恥ずかしい!と私は思う

親しき仲にも礼儀あり!これは常識

錦戸亮「と・も・子・・」曲・詩 吉幾三

詞曲歌 藤岡正明- 「朝靄」「交差点」












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