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SNS時代の教師の生き方と生徒指導~ネットスマホ社会を生きぬくための情報モラルネチケットをどう育むか?~ 









ネット・スマホ中毒、ゲーム課金地獄・・・などはまだいいほうで、「ウチの子が知らない大人と付き合っているようだ」、「ネットでつるし上げられて、家を特定され、実名・顔写真も晒されてしまった。最近、常に誰かに見られているようでコワイ・・・」

最近、こんな相談が徐々に増えてきている。交通事故は、クルマに非があるのではなく、そのほとんどが事故を起こす人間の問題から来るヒューマンエラーだ。ネットも同じこと。いまの時代、ネットなしの生活に逆戻りが難しいのであれば、どうこれからネットと付き合っていくを考えていくしかないだであろう。

ネット社会の到来は、確かに我々の生活を便利有益なものにしてはくれた。しかし、その一方で失ったものもい多いはず。教師であるならば、まずは自分とネットとのつきあいを見直すことから始めたい。そのうえで、子どもたちにネットとの付き合い方、ネチケットを語るべきである。

生徒を教え導く立場である人間が、月に1冊の本も読まずネット依存症になっていたり、SNS等で匿名性が強いことをいいことに他人を誹謗中傷したりしているようでは話にならないからである。果たして、今日も教壇に立つ教師がどれだけSNSの持つパワー(破壊力も含めて)と恐ろしさを認識していることだろう。

自戒の意味も含めて、このテーマをいま改めて提案したい。いかに今の世の中、われわれがネットに依存しているかが分かるであろう。

今回は、テーマを絞り「子どもたちに、どのようにネットとのつながり方を伝えていくべきか?」を考えるにあたり、「教師がどう自分を振り返るか」についてメインに考えていきたいと思う。



自分のネットとのつながりを棚卸してみる

先生方は、日々の学校内外での教育活動でもオンライン/オフラインにかかわらず、さまざまな発信をしていることと思う。当たり前のことではあるが、教師が選択する情報発信の手段、そのものがメッセージになる。デジタル機器を介した手段、電話、手紙、メッセージカード、学級新聞、学年だより・・・

対象、TPOによってもちろんそれらは使い分けられるのだが、例えば生徒へ分かってほしいこと、伝えたいことを直接言わずにメッセージカードが用いられるなら、そこにはあえてそうした教師の思いが当然込められているのである。

「ワンクション置いて落ち着いたときに読んでもらいたい」

「自分の気持ちを素直に伝えるためにあえて手書きにした」

最近では生徒との私的メールやり取りを禁じている自治体も多くなってきているが、昔の同僚によると、最近では専らクラス連絡はLINEに頼っているとのこと。昔の学校にあったクラス緊急連絡網など、もう過去の遺物でしかないようだ。

私の在職時代にこんな経験があった。自閉(緘黙ではない)で普段は一切会話(電話もダメ)のない子どもなのだが、メールの返信だけは分速且つ長文で返してくる生徒がいた。彼女とメールでのやり取りしているうちになんとか電話での意思の疎通ができるようになってきたのだ。最後まで生声、ダイレクトの会話は叶わなかったが、メールという通信手段が彼女にとっては貴重なライフラインだったのである。

どうしようもない緊急時、他の代替手段がない時などこれらの手段はほんとうにありがたいものであると思うが、学校という場所に限らず我々はこういったものに安易に頼りすぎなのではないだろうか?そして、そうすることにより何か大切なものを失ってしまってはいないか?

人間はもともとというか今でもそうだと信じたいが、アナログないきものなのである。実際、動物でもある人間が、いま正にさまざまな高度化されたデバイスを与えられたことにより、色々な問題が起きているのではないだろうか。そこで子どもたちに、ネットという荒波を乗り越えていく術を伝えていく立場である先生方自身のネットリテラシー、モラル、スキルを振り返ってみることをおすすめしたい。

これらを考えていく上で、少なくとも以下の視点について考えていただきたい。

①自らが情報発信者であるか否か

「そんなの毎日やってるに決まっているだろう。FacebookにTwitter、Instagramに最近ではピンタレストも始めた・・・」などと言われるかもしれない。しかし、残念ながらそれは真の意味での「発信」とは言えないかもしれない。それはメインが「交流」であるからだ。いま、自分と「つながっている」人たちだけを相手とするのではなく、不特定多数の人間を対象とした情報の送り手がネット上での発信者と言えるからである。

これまで情報「受け手」の経験しかないものが、こどもたちにそのすべを教えられるとは私には思えない。おそらくそれは絵空事に終始するであろう。人と直に会い、様々な経験をし、感じたこと思ったことを自分のアタマで整理し、不特定多数の相手に伝えようとするそのスキルは「送り手」になったものにしか身についてこないものなのである。

もし先生方でいま現在、発信者の立場でない方がいたら、匿名/実名どちらでももちろん構わないので自分メディアを一つでもいいので持ち、そこをスタンドとし、発信することをおすすめする。文字ベースでなくとも、Youtube、ポッドキャストなど音声/動画ベースでももちろん大丈夫。しかし、発信者たるもの受信者にとって有益な情報を送らなければいけないことは言うまでもない。一個人、一教師の日常のつぶやきなど、よほど何か持っているものが無い限り誰も付き合ってはくれないであろう。

そのためには「情報収集」「取材」「考察」「編集構成」「まとめ仕上げ」「検証」~というアクションが必要不可欠であり、これらの過程を経てはじめて「発信」となり、対象に「受信」されるのである。

なぜに情報発信者であることが大事なのかは次の理由からである。

情報発信者には、さらにそれに関係した情報が集まってくるようになり、発信者自体の情報スキルが鍛えられるから。

発信者にならないと、ほんとうの意味で受信者の立場が理解できないから

教師たるもの、学校の外にも向けて発信すべきであるから。(学校によっては匿名であっても所属長の許可が必要な場合もある)



例えばブログというメデイアで不特定多数に情報を発信していく場合、自らの視点、価値により情報を選別し料理していくことになる。これらは自己の知的好奇心を満足させてくれるだけではなく、学校の教育活動とは比べ物にならないくらい多くの人に自分の言いたいことを投げかけることが可能なメディアなのである。(ブロガーの言わんとする意図が伝わったかどうかはまた別物ではあるが)

学校であれば大規模校でもせいぜい1,500人程度、クラス新聞にいたっては、それを読むであろう父兄を含めての数もさらに高が知れている。私のブログは月間PVせいぜい80,000~100,000程度の弱小ブログではあるが、パワーブロガーともなると、その数は「0」が1つ2つついてくる。たかが個人メディア一つにだってこれだけのパワーがあるのである。

数の威力そのものもさることながら、場所、時間、人を問わずメッセージを投げかけることが可能~という点でも自分メディアで発信することに意義がある。実際、私のこの弱小サイトでさえ、各種教育雑誌『教職研修』などからの執筆依頼などがそこそこあったり、教員いじめ問題を発信したときなどは『AbemaTV』などから出演依頼が来たりもした。(いいことばかりでなく、各種広告掲載案件やら怪しげな情報商材アフリエイトに乗らないかなど面倒なこともまたたくさん)

先生も学校内だけであれば確かに有名人かもしれないが、学校から一歩足を踏み出せばあなたを知る人はほとんど誰もいない。○○学校の▽△先生とういう肩書なくなれば何も残らない・・・私は正直さびしいと思う。自身の思いがいろいろな人に投げかけられ、わずかであっても影響を与えていく・・・

そういった営みが蓄積され、そのメディアはどんどん育っていくことになり、最終的に自己の分身となる。まさしくセルフブランディングである。学校の外の世界で自分のネームバリューがあるという人は多くはないだろう。

今日の情報洪水での溺死を防ぐには、この発信者と受信者のバランスをどう取っていくか~ということが大切になってくる。受信者だけであっても、発信者だけであってもネット社会全体を俯瞰鳥瞰するのは難しいであろう。

このバランス感覚を養うためにも、発信者のスタンスになってみることを強く私はすすめたい。

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②これまでの自己のネットトラブル経験の整理

例えば生徒とのメールのやり取りでの行き違い、誤解、オークショントラブル、炎上、なりすまし・・・などこれまでのネット上でのトラブルをもう一度振り返ってみて、その時どうすればよかったのか?トラブルになってから自分の取った行動に誤り、行き過ぎなどはなかったか?そして、それらの経験を踏まえて普段から自分が心がけていることは何か?~をもう一度考えてみることは、子どもたちに伝えていくうえで有意義なものとなろう。

また、先生方の中には「自分はネットリテラシーはじゅうぶんにある。PCスキルも人並み以上だ」と自己認識していても、実はネット空間という大海原を漂流しまくっているネット難民も確実にいることだろう。ネットを駆使しているようで、その実ネットに振り回されているのである。ここのところの振り返りもじゅうぶんに行いたい。

③ネットにつながらない一週間にあえて今、チャレンジしてみる!

これは特に強く勧めたい。なぜなら、いかに私たちの生活がネットに依存しているかが実感できるし、それらが無い「不便」と、無い「ありがたさ」の両方が理解できるからだ。

ネットからメインの収入を得ている人はむずかしいであろうが、実際なければないで済むわけであるし、ないなりに「では、どうしようか?」と考えるようになるのである。

今の時代、みながみな情報通であるかのような錯覚をしている。ただ垂れ流されているうすっぺらな情報を、あたかもそれがすべてであるかのように自分の中に受け入れ「その他大勢」の一員にいつの間にか収まっていたりする。つまり、それは他人の意見に影響されやすくなるということかもしれない。大事なのは、自分で時間をかけ考えることであって、みんなはどう思うか、ではなく「自分はどう思うか」ということなのではないだろうか?

そのためにも、①の「情報発信者」になることをここでも私はすすめたい。

また逆に、「ネットとかパソコン、マイコン(死語?)のことはどうも・・・」「時代についていけない」「SNSはやったことがない」などのような方たちは、ぜひ是非とも、各種SNS、受け手だけでなく発信者となってネット空間に思いっきり浸って欲しい。

子どもたちもはじめは誰でも「はじめの一歩」から始めている。「はじめて」の体感を子どもたちと「共感」できるまたとないチャンスととらえようではないか。何もその道のプロになろうとしているわけでもなんでもないので、見てやろう!やってやろう!のダメモト感覚でじゅうぶん!思いっきり詳しくなんかならなくても、必死になってしがいみついてやっていく過程で見えてくるもの、理解できることがらというものはきっとあるはず。

何よりこれからの時代を生きる教師はSNSと無縁ではいられない。実際、私の現役時代もSNSを介した対生徒間教師間の中傷という生徒指導案件が何件もあった。バカッターが学校、教師、友人などにSNS上で罵詈雑言を浴びせまくっていた~なんて問題もあったが、ことの発端はその投稿を見た生徒が担任に相談して発覚したのである。アップした本人は投稿したあと「まずい!」と思ってほんの短時間で削除したのであったが、閲覧した子どもが「スクショ」でしっかり保存していたため動かぬ証拠となってしまったのだ。そもそもの「本人特定はどうやって?」という声が聞こえてきそうであるが、とにかく長くなるので(辿るまでの過程が長すぎて)深入りは避けるが、こういった生徒指導にかかわる教員が「スクショ」の意味も各種SNSの基本的な使い方も知らないのではなんとも心もとない。

酷な言い方かもしれないが、これからの時代、ネット、SNSに疎いようでは守れるこどもたちも守れなくなってしまう気がする。

これら自らのネット上でのつながりをおさらいした上で、次に子どもたち、生徒とネットとのつながりを考えていきたい。



問題行動の密室化の問題

生徒が学校で教師に見せる表情は彼らのほんの一部であることにみな、もう気付いていることであろう。部活動の加入率は毎年下降の一途をたどり、昨今の高校生はとにかく彼らなりに忙しい。

バイトに勤しむのはまだいいほうで、帰宅後の時間のほとんどをネットに充てている生徒が多数を占める。以前までは夜間、意味もあてもなくマチを徘徊する私服生徒ともよく出くわしたものだが、いま彼らはスマホの画面と格闘していてそのような暇はないようである。私の在職中は、当該学校教職員だけで行われる自校生徒を対象とした校外補導・指導だけでなく、同地域の生徒指導担当教員がタッグを組んで行う合同校外補導も盛んに実施していた。繁華街、ゲーセン、カラオケ、列車指導・・・さまざまなシーンでこどもたちのリアルに触れることができた。

しかし、子どもたちの問題行動の場は、最近では確実にリアルなものから携帯端末の中身へと移ってきている。これは紛れもない現実である。詳しく調べるため資料や昔の同僚に当たったりしてみたが、やはりそうであった。

教師の巡回の場が、地域というリアルの場所からネット空間へと移ってきているのだから何とも深刻且つ複雑である。まさしくサイバー補導である。これはただでさえ忙しい教師の力量を完全に超えているハイパーなものである。私見にはなるが、これらの問題はやはりその道のプロに一部を委ねるしかあるまい。中途半端に素人が首を突っ込んでも却って問題がこじれてしまうものだからだ。

最近ではネットパトロール、SNSトラブル通報・相談などのサービスを学校、自治体連携のもと積極的に行っている「スクルールガーディアン」というところが有名であるが、公立学校でもこれからは、こういった民間サービスとのタッグも視野に入れなければならないのかもしれない。教職員の過去の知識と経験だけでいくのは、竹やりでミサイル攻撃にあらがうようなものであろう。

では、いったい生徒の問題行動はどのような性質のものにへと変容を遂げているのであろうか?私の在職中にも既に以下のようなネットがらみの問題行動が生徒指導案件として上がっていた。

①ネットいじめ(ネットDVも含む)

②不特定多数を対象とした誹謗中傷攻撃脅迫

③ネット詐欺

④児童買春

これらは加害の立場であるが、被害の立場では上記の反対の立場以外にネットで知り合った複数の男の家に数日にわたって監禁されてしまった~という案件まであった。

こういった危ういネット空間に彼らが安易に立ち入ってしまい、リアルでトラブルに遭遇するのも、このネットという世界が匿名性と密室性が非常に強いものであるからと言えよう。が故にリアルさが感じられず、被害にあうであろうという危機意識も薄ければ、実際に自分が犯している罪の深さにも鈍感になってしまうのである。実際、リアルの世界のほんの一部でしかないネット上の空間を現実世界のすべてと思いこんでしまうこと・・・このことが実に危うい。

それでは、ネットでの発信、コンタクトは実名顔出しと同じくらい危険なものであるという危機意識がまるでないこの安心感、迂闊さは、いったいどこからくるものなのであろうか?

それは、リアルの人間関係が希薄となり、自分を助けてくれるもの、癒し、攻撃の対象をネット空間に求めているからだと言えないだろうか?救いやストレス発散のはけ口を家族、教師、友人知人ではなく、見ず知らずの人間に求めているのである。この現実を教師は重く受け止めなければならないが、これも限界であろう。

私が指導副部長を担っていたころ、一見真面目、優等生タイプで生徒会役員でもあった女子生徒がいた。成績優秀、皆勤、問題行動での指導歴も当然ゼロ、家庭環境にも恵まれていた生徒で何にも問題がないように思われていた。しかし、彼女の裏の顔はクラスでのネットいじめの総元締めであることが明るみになり、みな驚きを隠せなかった。一番担任がガックリきていたようだが、当時の誰もがみな彼を責めることなどできやしなかった。自分のクラスにいつ起きても不思議ではないことだったし、彼は人一倍、クラス経営に熱心な教師だったから。

問題に「気付かない」のではなく、「気付けない」面もあるのだ。決して逃げではなく、これが限界なのだと思う。

キョウービの子どもたちのネットスキル、携帯端末に対する知識、技術は私たち大人の想像をはるかに超えたところにあると思ったほうがよい。ネットいじめのスキルも負けじと劣らずハイパーなものらしい。そもそもネット上に証拠がきっちりかっちりと残ってしまうラインいじめなどは今ではもう過去の遺物である。本人をはずしたグループで情報の許攸を図るのがもはや常識である。

生徒がますますネットの世界にのめり込み、その実態が見えにくくなっている今、わたしたちに何ができるのであろうか?

それはベタな考えかもしれないが、やはり人とひととのつながりを、教師をはじめとした彼らを取り巻く大人たちがもう一度見直していくことしかないと私は考える。人間らしさをもう一度取り戻すために。



教員がSNSで脅威にさらされる?

子どもたちを指導の名目で多少きつく叱った(怒ったではない)ところ、しっかりとそのシーンを動画と音声で記録されてしまい問題になっている~という相談を少し前に受けたことがあった。「何も指導なんだから問題ではないだろう?」と思われるだろうが、この方は子どもに手を上げたところをしっかりと映像に残されたばかりか、別の子どものICレコーダー、そしてスマホの音声記録アプリで他の教員の指導上の問題点などを鋭く突いた音声をこれまたしっかり録音されてしまったのである。

さすがにこの場合はSNS上にアップまではされることはなかったが、ブツの持ち主である子どもたちがこれまたしっかりと学校にタレ込み、家庭と学校が対立することになったばかりか、当該教員との仲も険悪となり、ついにこの先生は次年度に異動することにまでなってしまったのだ。

あなたはこの件をどう捉えるであろうか? 私にはとても他人事には思えない。今時のこども、スマホ、ICレコーダーで武装しているものと認識すべきで、これらのツールは立派な彼らの「武器」なのである。自分自身を守るのと同時に他人を攻撃するための・・・

さびしいはなしかもしれないが、これからの時代の教師には自分自身をきっちり守るための危機管理意識がこれまで以上に求められるのは間違いない。なごめない話ではあるが・・・昔までだったら、レコーダー、スマホなんてポッケに忍ばせているわらわなんているはずもなかったから、たとえ「言った」「やった」としても、「身に覚えがない」「言ってない」で済んだかもしれないが現代ではそうは問屋が卸さない。

授業中の自己の言動、校内での立ち居振る舞い、果ては校外での日常まで絶えず監視の目にさらされていると思ったほうがいい。実際、耳目を集める教員の問題行動の多くは、こういった動かぬ証拠がもととなって表に出てくるものだからである。

このことは暴言を吐き暴力を振る輩の抑止力になると同時に、また別の危険をはらんいる。教師が及び腰になり、これまでのような自由闊達な教育活動が阻害される恐れもあるということなのである。隠蔽が少なくなるのはもちろんいいことではあるが、へっぴり腰の教員ばかりでは何より子どもたちがかわいそうである。

これまでとは異なる「新しい時代」の幕開けである。教師自身も時代の変化に敏感になり、時代に追いつくのは当たり前、その先までを見据えた学習が必須なのは言うまでもない。これからの先生は本当にたいへんである。




人とひとのつながり・・・
人間関係をみつめ直して・・・

この新しい流れは、実は子どもたちわたしたちがネット上でトラブルにあったり、加害者となってしまうなどということだけが危惧されているのではない。

我々がこれまで大切にしてきたもの・・・人へのいたわりや思いやり、やさしさといったものが、かんたんに時と場所を越えて瞬時につながってしまい、人間関係(と呼べるかどうかは、「?」であるが)もかんたんにつくってしまうことができるが故に、こういったものがだんだんと失われていってしまうのではないだろうか?

人とひととがつながっていく過程というものは、そのようなインスタント仕立てのプラットフォームで即、繋がっていくものなどではなく、傷つけ傷つけられ相手を思い合っていくプロセスを経てお互いがお互いを認め合い信頼していくものだと思う。

携帯もなにない時代・・・時間と場所を事前に決め、恋人を待ちながら相手を思うあのドキドキ感とじれったさ、なかなかつながれないもどかしさ、切なさ。本来こういった経験が人間を成長させるはずではなかったのか?

確かに、待ち合わせだって、お互いにスマホさえあれば実に効率的で時間・労力的なロスは少ないかもしれないし、忍耐力も必要はない。しかし、本来アナログで動物的な人間が大事にしてきた「感性」、特に人間関係の機微というものが、私を含めて最近の人間はほんとうに鈍くなってきていると私は思う。

まわりへの配慮一切なし、猫背の高校生が歩きながらスマホの画面だけをただただ見つめ続け、どこへ行くのやら。駅のホームで老若男女、みながみなそれぞれのスマホ画面に夢中で、もちろん電車を待つ間の会話なんてありゃしない。ファミレスで、せっかくカップル?でのごはんなのに、お互いのスマホをスクロールしながらただひたすら食べ物を胃袋に詰め込むだけ・・・

このカップルをたまたま目にした私はゾッとした。なぜって動物が餌(エサ)をあさっている様子にそっくりだったからだ。ごはんしながらのカップルならではの楽しい会話、お互いの眼を見つめ合いながら相手の話に耳を傾け相槌を打つ、そして自分の思いを打ち明ける・・・こんなのが当たり前と思っていたのに、目の前の光景はただひたすら「喰うために喰う」「生きるために喰う」といった実に動物的で浅ましいものに私には映った。目の前に座る恋人への心遣い、恥じらい、もちろん自分たち以外のまわりへの配慮なんてものはそこにはなかった・・・

こんな端末が無い時代だったら、このカップルだってきっとこうはしないだろう。ほんとうにスマホは私たちを幸せをもたらしたのだろうか?効率を優先してきたが故に、まわり道をすること、遊びといったものが持つ大いいなる意味を忘れてしまったのではないだろうか?

現に子どもたちは、毎日のつながりのなかで窒息寸前である。私が受ける相談だけを取っても実に愛情不足でとにかく愛に飢えている人たちばかりである。誰かと常につながっていないと不安、一方でリアルでの人間的な触れ合いのあたたかさも欲しい・・・

わかってほしい、共感してほしい、アクセスがもっともっとほしい、承認されたい、目立ちたい~リアルで満たされない欲求をネット上に求めている。そんなことをしてもますますむなしくなるだけではないのか。ネットの空間にどっぷりと身を委ねることによって、ますますの愛情不足に陥っている感さえある。

人間関係というものは本来アナログ的なものであり、さまざまなプロセスを経てゆっくりと育てていくものではなかったのか。それは決してインスタントには出来上がらないものだろう。かんたんにつながって瞬時に出来あがってしまう人間関係ほどもろいものはない。

いまこそ、教師を含めた大人たちが、ほんとうの「つながり」とは何か?について真剣に考える時なのである。



ほんとうに自分といま、つながっている人は誰なのか?

リアルでの人間関係に加えて、いま自分とSNSを含めたネット上でのつながりの鎖を確かめてみることは無駄ではないと思う。人間に残された時間というものはほんとうに限られている。その時間をインスタントな人間関係に求めるか、リアルでなナマミの人間に求めるかは人それぞれである。

自分だけが一方的に思っているだけではなく、相手も同じように自分を思ってくれているのだろうか?

自分がピンチになったとき、傷ついたとき、心の底から寄り添ってくれる人はいるだろうか?そしてそれはいったい誰なのだろうか?

リアル、ネットを問わず、他人のことなど自分が思っているほど自分のことなど気にもかけていないものである。おそらくあなた自身もそうではないだろうか?やはり私の場合、自分に本当に近い人たち、そして本当にこころを許せるごくわずかな人くらいしか私には残されていない。でもそれでいいのだ。わずらわしいみせかけのつながりなど、ないほうがまだましである。

しがらみについては、「若者こそ断捨離、そして終活・生前整理を~モノ・しがらみのスリム化はあなたに何をもたらすか?~」でちょっと詳しく話しているのでここでの深入りは避けるが、これらを見直すこと、イコール、ネットでのつながりを全否定するものでは決してない。それらをきっかけに本物のつながりへとなっていくケースだって当然あるだろうし、さまざまな利点もたくさんあろう。共有だったり共感、リアルであればおよそつながることの決してない人と知り合えたりできるスゴさはネットならではである。

だとしたら、我々はどのようにこのスゴい空間と付き合っていくべきなのであろうか?

今こそ振り返り、伝えていくべき
「つながり」と「つながり方」

その答えを見つけるためには、付き合っていく~という考えよりも「どのように使いこなすべきか?」「どのように御していくべきか?」という風に発想を転換させたほうがよいのかもしれない。

そのように考えていかないとこの便利な空間は暴走に暴走を重ね、ついには私たち自身を飲み込んで行ってしまうからだ。決してネットに罪があるわけではないのだが、扱い方いかんによっては化け物にもなり得るということなのである。この恐ろしさを教師であるならば身をもって体験し、その上で子どもたちに伝えていくべきである。

そのための感性が今こそ必要とされており、私たちはものごとを自ら深く考え、掘り下げ、自己を決定し、律していくチカラを養っていかねばならない。他人に振り回されることなく、しっかりとした自己を確立していくという営みはネットでは完結し得ないものだからだ。

これらを踏まえ、子どもたちに「つながり」について考えさせる時、以下のような視点を投げかけるのはどうだろうか?朝晩のSHRや授業時間内で扱うには重たすぎる内容ではあるが、教師が一緒になって子どもたちと考えていく過程できっと何かが芽生えることを期待したい。

①ネットでの出会いも、礼儀を弁え、時間をかけて育てていくべき

②自分の軸をもち、ネットだからこそ自分を律していくべき

③ツールはあくまでもツールである。手段であり目的には決してなりえない

④自らの意志決定をネット上ですべて完結させてしまうことの怖さ

⑤時にはすべてのメディアから自らを離れさせ、自分ひとりの時間、不便さを楽しむ余裕を持つことの大切さ

⑥人と直に会ったり、他の資料、現物に当たることの大切さ

⑦リアル、ネットでの使う言葉を選ぶことの大切さ

伝えたと伝わったはまったくのベツモノ

手紙を書こう!

⑩ネットだからこそできること

⑪情報の取捨選択と再構築、真偽の選別

私がもしあと何日との余命宣告を受けたとしたら、その残されたわずかな時間を私はネットでの時間には決して費やさない。もっともっとこの世でやり残してきたことに使いたい。

こんな時代だからこそ、私は人間らしさを取り戻したいと思う。

人間という動物は、さまざまな鋭敏な感覚を本来もっていたものである。生き抜くための。それが緩くてぬるい現代と言うこの空間に浸りすぎていると、だんだんとこの感覚も鈍り、やがては何も感じなくなってしまう・・・・・そんなことを恐れてか私は山籠もり、山歩きを好んでいる。

人だらけのキャンプ場などにいくのではない。林道も山道もない、時には獣道(けものみち)さえないようなところまでスマホを持たずコンパスと事前下調べだけを頼りに道を進む・・・時にはイノシシや野鹿に出くわすときも当然ある。そんなとき、スマホなどは何の役にも立たない。緊急時には経験と直感だけがモノを言う。

山で一晩明かしたことのある人にはわかってもらえるだろうが、山の夜は本当に怖い。(実は山籠もりに味を占めたのは、ひょんなことから道に迷い、陽のあるうちに下山することが叶わなくなり、山で一夜を明かしたことがきっかけ・・・)

夜の山では自分の立ち位置が時にまったく分からなくなり、その上静寂のなかに時折訪れるさまざまな物音がことさら大音量になって耳を打ち抜く。おまけに時間の感覚がなくなり(当然、時計など持って行かない)、時のすぎるのがとてつもなく遅く感じるから不思議。さまざまな動物も夜行性のものが多いし危険極まりない。冬季以外の山の夜でいちばん悩まされるのは、実は虫である。さまざまな虫、蚊、虻、ぶよの類の羽音だけで普通の人は一睡もできないと思う。

しかし、その分、人間の持っている五感はこの危機をいかに脱しようかとフル稼働である。このジリジリとしたスリル感が何とも言えない。もちろん、何もここまでしろとは言わないし、ひとさまには決して勧められるものでもないが、言いたいことは「人間」も、本来は「動物」であり、今も「動物」の仲間に変わりはないということ。これだけである。

いつの時代も子どもは大人をしっかりと見ているし、大人を見て育つものである。スマホに夢中になるあまり、他人を周りをかえりみることのない大人だけにはなりたくない。自戒の意味も含めて今回はそんな思いを強くした。

せめてキャンプに行くときだけでも、スマホなしで行くことから始めてみるのも悪くはないと思う。














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