いじめ 教育・教師 未分類

いじめ「見ているだけで何が悪い」への指導と反論~いじめ傍観者に対してクラス担任、教師ができること~

いじめ傍観者は、いじめ加害者と同罪!とまでは言えないが、まちがいなくいじめを黙認し助長はしている。

まずは、この事実を再確認しなければならない。「やめさせようとしたり、通報、相談したら今度は自分がターゲットに」などの理由からの自己保身を許したら、それこそいじめが跋扈(ばっこ)する弱肉強食の学校となり下がること必至である。

「ただ見ているだけで何が悪い!」と言い放つ子どもへの指導は絶対不可欠であるが、実はこういった感情が生徒から湧き起らないような学級担任、教科担任、教職員全体の強い決意と団結、そして普段からの不断の努力実践の積み重ねもまた不可欠なのである。

今回は、いじめ早期発見対応のためのキーパーソンともいうべき「いじめ傍観者」を教師であるならどう指導し導いていくかについて、これまでの私のいじめ指導経験もちょっと交えていっしょに考えてみたい。




いじめ傍観者はいじめ加害者と同罪か?

「いじめをやめさせようとして、今度は自分がいじめられて学校に来られなくなったり死んだりしたら責任取ってくれるのか?」

「いじめをただ見ているだけ、やり過ごしているだけなのに「同罪」なんてありえない!」

「いじめなんてまったく関心ないし、ただたんに自分はかかわりたくないだけ」

・・・このように「傍観者はまったく悪くない!」~と主張する児童生徒にあなたならどう指導するであろうか?

私のスタンスは先述のように、いじめ加害者と同列に並べることはできないが、いじめをやりすごし、認める行為はいじめをさらにエスカレートさせるものであり、いわば消極的加担者(加害者)であると考える。いじめ被害者に聞いた話では、特に仲の良かった友だちにいじめを黙認された経験は相当なショックであり、加害者以上に憎悪の念を抱いたそうである。

被害者からしたら、加害者も傍観者も同列同等なのである。見て見ぬフリをするものは結局自分がかわいいだけであり、他人のことなどどうでもいい・・・ということになってしまう。結局はここに行きつくのである。

いじめで死ぬくらいならひきこもれ!いまスグにでも死にたいあなたに伝えたいこと、今スグやるべき大切なこと

「だいじょうぶ、がんばって!」などと無責任感丸出しなうすっぺらなことを言うつもりはさらさらありません。つめたい言い方になりますがしょせん他人事(たにんごと)なのですから、そのようなことを言う権利は私に ...

続きを見る

いじめを見て見ぬふりをすることはまったく罪はない、問題ない・・・と教師がしてしまうことは、「自分には関係ない」「かかわりたくない」などという子どもの考えを肯定することになってしまう危険性をはらんでいる。親や教師がこの姿勢ではあまりにも情けない。

特に担任である場合、いじめ加害者がクラスの多数を占めていたり、リーダー格の子どもであった場合、いわばクラス全体を敵にまわすことになりクラス経営上困難を極めるのは目に見えている。ただでさえ忙しい教員稼業上、「見なかったこと」にしたい気持ちもまったくわからないではない。しかし、クラスを引っ張っていく存在であるはずの教師がそれでいいのだろうか?自分の内なる主人が、教師としての矜持がそれを許するのであろうか?

いじめが起きてしまった場合、どう向き合っていくか・・・この時こそ教師としての真価が問われるときと言えよう。

私の場合、一貫して「いじめ傍観者」はいじめ加害者とまったくの同罪ではないが、被害者にとっては限りなく同罪に近いくらいひどいものであり、その場で助けることができなくともほかにいろいろと方法はある~というスタンスで指導にあたっていた。

いじめから子どもを守る立場にある教師は、常にいじめはいつ何時(なんどき)も起こりうるものであり、「いじめ傍観者」をどう導いていくかがいじめ解決のキーであると私は思う。

「見て見ぬふり」を考えていく上で、社会的に問題なり「女性専用列車」誕生のきっかけとなった「事件」をあえていまここで取り上げたい。「集団心理」を理解することはいじめの構造をひもとく一助になると考えるから。

職員室いじめ~教員同士のいじめの実態と対策(私の経験から)~

今回は非常に重いテーマについて話します。いじめはいじめでも「教師間いじめ」です。子どもたちのいじめを減らすべく、本来手を取り合っていくべきの教員同士がいじめて、いじめられているのがいまの現場なのです。 ...

続きを見る

職員室いじめ(小学校支援員先生のケース)「大人」のいじめと向き合う~辞めるも残るもそれぞれの道

今回いただいた相談も切実すぎます。 「いじめは絶対許さない!」と日ごろ子どもたちに指導している「大人」が、堂々と教師間いじめを行っているのですから、怒りを通り越してなんとも情けない。 このような愚痴は ...

続きを見る




見て見ぬフリのサンダーバード号事件

2006年8月3日夜間、富山駅発大阪駅行きの特急JR北陸線サンダーバード列車内にて21歳の女性が、滋賀県在住35歳男性に座席で40分以上辱めを受けた後、トイレに連れ込まれここでもまた30分以上、座席でのそれ以上の辱めを受けたという事件。

当時の車内には約40人の乗客がいて、女性は泣いていたとのことだったので周囲の乗客は異変に気づいていたはず。また、トイレに連れて行かれた時も女性は泣いており、不審に思う乗客はいたはずなのである。しかし、それらの乗客に対して、犯人は「何を見とるんじゃ!」とすごんだために、乗客は怖くなって何もできなかったとのこと。

被害者が泣いていたことに他の複数の乗客が気付いていながらも、誰も被害者を助けなかったうえ、車掌や警察に通報することもなかった。この事件に味を占めたのか、サンダーバード事件から3ヶ月後の12月21日に同じような手口の事件を同日に2件立て続けに起こしている。

もし乗客の中の1人でも声をかけたり、車掌に伝えたり、携帯で警察に通報していたら事態は変わっていたであろう。被害を受けている女性が目の前にいるのに、乗客はみんな「見てみぬふり」を決め込む始末。日本人のモラル、道徳観が問われることになり、「見てみぬふり」が糾弾されることにもなった。

この時はまさしく「傍観者効果」が働いたのであろう。~なにもわざわざ自分がアクションを起こさずとも、これだけ人がいるのだから他の誰かがきっと通報するはず・・・などと勝手に自己の都合のいいように解釈して、その個人の行動を阻害してしまう集団心理である。

2023年の4月より、『110番映像通報システム』の運用が本格的に始まった。これは、事件・事故・トラブルなどの現場状況をスマホなどで撮影して直接警察に通報することができるものである。

通報されないことで犯人、加害者の行為を今後助長しないためにも、事件や事故どに遭遇したり、目撃したら、迷わず110番ダイヤル。自分が助けに行く勇気がでなくとも、記録するだけで被害者の助けになるこの映像通報システムを活用したい。なにも、このような大げさなシステムだけでなく、普段親しんでいるSNS等で拡散させただけで被害を事前に食い止めた例は山ほどある。イザとなった時、人は固まってしまうもの。なごめない話ではあるが、普段から有事に対するシュミレーションを緊張感をもってしておくべきなのかもしれない。

また、110番通報では、係員から以下のような質問がされる。

➀ 事故ですか、事件ですか?

② 何がありましたか?

③ 今からの何分前のことですか?

④ 場所、住所、目標となる実際の店舗や建物、階数など

⑤ 被害や目撃の状況

⑥ けが人の有無

⑦ 犯人について 性別、人数、年齢、服装や逃走方向等

⑧ 通報者の名前、年齢、性別

言うは易(やす)く行うは難(かた)し・・・だが果たして、もし自分がその場にいたら果たしてどうしていたであろうか?「助けてください」と被害者が私に助けを求めてきたら、助けられたであろうか?

私も含めて、いざというときにそのような道徳的な行動を取れる!と言い切れる人はそうはいないはず。

おそらくこの居合わせた乗客たちのすべてが、まったく関係ない~ということでだんまりを決め込んだわけではないだろう。少しは「何とかしなくては!でもどうしたらいいんだろう?!」と良心の呵責(かしゃく)に悩んだ人もきっといたであろうと思う。

では、あの時あの場所で居合わせた乗客たちはどうすればよかったのか、何ができたのであろうか?

私はなにも、この犯人に「立ち向かって行け!力づくでも止(や)めさせろ!」などと言っているのではない。さらに深く考えていくために、考えただけでつらく恐ろしい事件をまた引き合いに出さなければならない。

学校に相談!でいじめは解決できるか?解決のためのアプローチと注意点

いじめを受けている児童生徒はまず、いじめられている事実を認めません。どうせ解決はしないと思っていますし、何より加害者の報復が怖いのです 。そして彼らの自尊心からのことでしょう。 いじめの事実に気付いた ...

続きを見る

いじめ加害者に仕返し、反撃はどこまで許されるか?いじめ被害を最小限に食い止めるのみに徹すべきそのワケ

やられたら自分の傷みの倍返したい、どころかやつらを八つ裂きにしたい! やられたものにしかわからないのがいじめ被害・・・ 実際にいじめ被害者がその激しすぎるうらみのあまり、いじめ加害者に反撃を試み、事件 ...

続きを見る



見て見ぬフリなどできなかった
東海道新幹線車内殺傷事件

時は流れて2018年6月9日21時42分新横浜発東海道新幹線のぞみ号内で、最後部席に座っていた外資系の化学メーカーBASFジャパンに勤める梅田さんが全身を60ヶ所以上メッタ刺しにされて殺された。なぜ梅田さんは死ななければならなかったのか?

ことの顛末(てんまつ)はこうである。列車が動きはじめてから間もない21時45分に、梅田さんの2列前に座っていた小島一朗容疑者(22歳)が無言で立ちあがり、右側に座る女性をなたで切りつけたのだ。いきなりの犯行に、車内は大パニック。恐怖に凍り付いた乗客は、我先にととなりのの車両へと急いだ。そんな人たちを横目に、決死の行動で犯人に立ち向かっていったのが、梅田さんだったのだ。

犯行に及んでいる小島容疑者に気づかれないように背後から近づき羽交い絞めにし、傷ついた女性を逃がすことに成功はしたが、激しくもみ合ううち馬乗りになった小島容疑者にめった刺しにされ、しばらくして動かなくなってしまったという。現場は血の海であったということで、犯行の惨状を物語っていた・・・

誰にでも挨拶のできる明るく正義感にあふれた人だったという。子供だった頃、仲間外れや悪口が起きると、「そういうのやめようよ」とさりげなく言える人だったそうだ。誰からも愛され、東大卒で将来を嘱望されていた優秀な人がこれである。まったくをもって理不尽の極みである。なぜ彼のような人が死ななければならなかったのか?

きっと彼自身の「内なる主人」がだまって見過ごすやり過ごす、見て見ぬふりなどということは許さなかったのだろう。こういった行いは「やろう!」と思っていてもできることではないし、たまたまできるようなことでもない。彼だからこそ成しえたものである。おそらく私にはできないであろう。

これを一般の人たちに求めるのは少し酷であると思う。

この事件が教えていることは、彼のような人でも死んでしまえば、当たり前であるがこの世からはいなくなってしまう。この犯人などに何を言っても無駄である。という至極当然のことが一つ。

そして、普通?の人は凡人なりにできることがあるのではないかと示唆しているような気がしてならない。このような緊急時、自分の身を守るために真っ先に逃げてしまうのもアリとは言えないが当然仕方のないこと。自分の身の安全が確保されてから、自分にできることをやるしかないのだ。

先のサンダーバード号でも同じこと。一人ではアクションを起こせなくてもみんなが多数になればできることがあるかもしれない。それもできないのであれば、せめて犯人が女性をトイレに連れ込んでから、車掌に知らせに行ったり、携帯で警察に電話くらいはできたであろう。しかし、まわりの傍観者たちは、それさえやらなかった、できなかったのが「サンダーバード見て見ぬふり事件」なのである。

いじめの恨み一生忘れない?!~消えないうらみ、流せる方法~ネガティブコメントで憂さ晴らし?♪「交差点」藤岡正明

憎しみ、恨みを持ち続けることを、生きる支えとせざるを得ない人がいます。あまりにも酷い経験だけに一時期は自殺も考えた私ですが、いまでは流せてしあわせですね。 加害者を憎み恨み続けることで、あなたが楽にな ...

続きを見る

教師が「怒る」のはたった2つのケースのみ~「叱る」と「怒る」はまったくの別物~「怒る」を活かす生徒指導

教師が子どもたちの前で「本気」で「怒る」ことなどまずない。教師であるならば。自分の感情に任せて、コントロール不能になるほど我を忘れては子どもの指導、つまり「叱る」ことなどできなくなってしうまうから・・ ...

続きを見る




いじめ傍観者の心理

いじめ傍観者がいじめ解決のキーパーソンであるならば、いじめを見て見ぬふり、スルーするものの心理について考察を加えることはあながち無駄でが無かろう。次にあげる「いじめ傍観の理由」はかつて私のクラスでいじめについて話し合った時と、あとから無記名でのアンケートを取った時に出てきた主なものである。

① 今度は自分がいじめのターゲットになるのが怖い

② 面倒くさい。めんどうなことに巻き込まれるのはイヤ

③ 仲のいい友だちだったらともかく、大して付き合いもないのに自分には関係ない。そこまでの友だちじゃない。

④ 自分がかかわる理由がない

⑤ 助けたい気持ちはあるのだけれど、どうしたらいいのかわからないから動けない

⑥ 本人にもいじめられても仕方がない理由があると思う、自業自得

⑦ 自分が間にはいることで、さらにこじれてその子がいじめられるようになったらかわいそう

⑧ 見ているだけは悪いことだとは思うけれど、自分にはなにもできない、勇気がない。

⑨ 結局はいじめられている本人が自分で何とかするしかない。自分がかかわることではない。

⑩ 正直なところ、いじめに加わる勇気はないが傍観だったら許されるだろうという悪い気持から

これらの本音の部分が出てきたあと、あらためて時間を取り、再び話し合った。

このクラスでの話し合いで、まず私が心がけたのは、「はじめに答えアリ」で担任が強引に自分の考えに誘導するのではなく、子どもたちの自由自主的な考えが出てくるのを待つということであった。子どもたちの間で、真剣にいじめについて考える姿勢を育てたい~という思いがあったからである。他人事ではなく、自らに引き寄せて考えさせたいという私の想いがそこにはあった。

いろいろな意見、考えが出てくることを歓迎するために制限なしで自由に話し合わせたのだが、クラス開き当初の私のいじめに対する姿勢、大前提だけは確認のためもう一度提示した。

➀ どのような理由があろうといじめていいということにはならない。いじめは人間として卑怯な行為であり、絶対に許さない。

② 他の尊厳を傷つけない限り、どのような個性的な人間であってもその存在は尊重されなければならない。

・・・この2つのクラスルールであった。

そんな中で、みなの注目を浴びる切なる意見があった。

ルームや教科でも自ら意見を述べたりするような生徒などではなかったので正直私もびっくりした。一字一句を正確には再現はもはやできないので、私流のセリフで再構築してみるとだいたいこんな感じであった。

「彼女とはずっと仲の良い友だちでした。あの時までは。なぜ彼女がいじめられるようになったかのかは今でもよくわかならいのですが、正直私でなくてよかった・・・こんなズルい気持ちだったことはよく覚えています。

何度も彼女は助けて!のサインを送ってきたのに、それなのに私は彼女がいじめられているのを見ているだけでなく、やがて彼女を無視するようになり、さらにいじめグループのいじめを助けるようなことまでするようになっていったのです。

そんな状況がずっと続いたにもかかわらず、彼女は学校に通い続けていました。恥ずかしいはなしですが、私自身この状況を楽しんでいたのです。しかし、私のこの楽しみもそう長くは続きませんでした。彼女は私たちの前からいなくなってしまったのです。

もはやどういった理由で転校していったのかは当然彼女に聞くことなんてできません。いま彼女がどうしているのかもまったくわからないのです。でも、彼女がクラスを去る日、私に投げかけたあの射るような鋭いまなざしは私をさげすんでいるように見えたのでした。

あの日から私の地獄は始まりました。いつ何時も彼女のことが思い出されてしかたないのです。忘れようとしても忘れられないのです。クラスでこの問題について話し合おうとなった時、私こそがこの場で話すべきだと思いました。先生が言うように、いじめられていた彼女からしたらいじめっこも見ているだけの子も同じに映っていたはずなんです。みんながどう私を見ているのかはわかりませんが、私は決していい子なんかではありません。」

ずっと胸につかえていたのであろう。吐き出すように切ない彼女の独白が続いた・・・みな一言も声を立てず、クラスのすべての視線は彼女に注がれていた。忘れられない光景の一つである。

別に私が彼女と打ち合わせしたりお膳立てしたわけではなく、クラスの話し合いの中で自然というかいきなりこの発言だったのである。それからみんなの彼女を見る目が変わったのは言うまでもない。いい意味で。

そうなのである。いじめを傍観するということは、いじめ傍観者のこころにも決して癒えることのない傷を負わせかねないものなのである。

男女別学は生き残る!女子が共学ではなく女子校を選ぶいちばん大きなワケ~教員採用女子校のススメ!

共学も選べるのになぜにわざわざ好んで女子校を選ぶのか?~ふと思い浮かんだこの問いにちょっと取り付かれて、かつて勤務していた女子校で子どもたちにアンケートを取ったことがある。母数を多くしたいがためにさま ...

続きを見る

いじめ自殺を考えているあなたへ、知っておくべきこと!確実に死ねる方法をググるより、確実に自分を活かす方法の提案!

昨年2020年の自殺者数は、21,081人。自殺の手方法として毎年、ツートップを占めるのが「首吊り」と「飛び降り、飛び込み」です。あなたは、「自然死」ではなく、自殺した人の直後の姿をナマで見たことがあ ...

続きを見る




中立者(いじめ傍観者)の心理2タイプを見極める!

中立者はどちらにも転ぶ可能性を秘めている。他人がいじめられているのを見て、共感性に乏しくわがことのように「いたみ」を感じられなくなってしまっている不感症&鈍感な子どもを突き動かすことは力学的から考えてもほんとうにむずかしい。

小学生にたいするいじめ指導と高校生に対してのそれはベースは同じものだと思うが、高校生くらいになると本人の内なる主人はもう既にほとんど出来上がってしまっている。この眠れるあるじを起こすということは小学生の比ではないだろう。

だとしたら、取り掛かりは、少しでも他人のいたみに敏感、かついじめに対して関心のある生徒を巻き込んでクラスのいじめ指導に当たっていったほうがよい。

傍観者を無理やり大きく2タイプにわけるとこうなる

①関心タイプ

いじめを見て見ぬ振りはできない、という正義感はあっても、「今度は自分がターゲットになるのではないか?」という猜疑心に悩まされ、なかなか声を上げることができない児童生徒が、この「関心タイプ」に属する。

②無関心タイプ

「いじめるほうもいじめられるほうも悪いのではないか?」「自分には関係ないし、関心もない」「面倒な事に巻き込まれるのはまっぴら」と、いじめを認識しつつも、見て見ぬ振りを決め込む真正の無関心がこの「無関心タイプ」

 

関心タイプの彼らが、いじめをやめさせる側に立つか、いじめる側に転ぶかは担任であるあなたにかかわっている。そのためには、彼らの身の安全保障を万全なものにしたうえで彼らの背中をそっと押してあげるだけでよいのである。

要は、中立者の立場から引きとめ役、仲裁者、メッセンジャーへと彼らの役割を転換させ、いじめ被害者を「被害者加害者間」の密室状態から解放してあげること。それでは、実際問題としてどのように実践していけばいいのであろうか?

クラス担任としての揺ぎ無い決意を、
いまこそ示そう!

学校、クラスは児童生徒が心身の安全を保障される場でなければならない。この当たり前のことが、当然でなくなってきている現状が異常そのもの。そして、クラス担任は自らのクラスであっても、いじめはいつ何時起こるかもしれないし、どんなこどもの心の中にも「いじめの芽」はあるという前提でいなければならない。

私はクラスを任された最初の所信表明で、この心身の安全保障を第一に掲げ「いじめは絶対に許さないし、傍観、中立も許さない。」という、傍観者、加害者とは真っ向から対決していく強い姿勢を打ち出した。

つまり、「見て見ぬふりは、いじめを容認することであり、加担者、加害者の側に立つことだ」とハッキリさせたのである。

いじめ問題は生徒教師間、つまり学校という狭い空間のみで解決できるような生やさしい問題では決してない。人間関係も学校だけで完結するようなものではないことがほとんどであるし、要因をとっても複雑にからあみあっているではないか。

そこで私の場合、まずてはじめにクラスの各家庭に、生徒の前でしたように担任のいじめに対する思い、考えをを電話で「表明」したのである。ス担任からの引き継ぎで過去に「加害者」「被害者」であった生徒の家庭については家庭訪問も行った。つまり、クラス担任の決意のほどを家庭にも知らしめ、同時に各家庭の協力も仰ぐことにしたのである。家庭の教育力が絶大な家ほど、この協力が実に有難く、チカラとなった。

普通、ここまで担任がいじめ問題根絶を叫び続けると、こどもらは「面倒くさいことになりそうだ、関わりたくない、まずいな」となり、手に染めることはないものなのであるが、それでもいじめは起きるという危機感を前提に、私はさらに次の手を打った。

「いっぺん、死んでみる?」のフレーズが強烈な「地獄少女」の世界!「イッペン、ヨンデミル?」

闇に惑いし哀れな陰よ 人を傷付け貶めて罪に溺れし業の魂 いっぺん、死んでみる? あなたには、この世からいなくなってほしい人間はいるだろうか? 私の場合、「ソリがどうも合わない、なんとなくうまくいかない ...

続きを見る

共感性、社会性に欠けるこどもたちをどう導くか?

事あるごとに、いじめ問題、こどもの自殺について考えさせたり、「いじめ傍観」はいじめをエスカレートさせることになり、いじめに消極的に加担した「加害者」であることを話していったが、言葉だけで生徒の心を突き動かすのは実際難しい。生徒自らのこころが自分のものとして体感実感できなければ正直、大人が何を言ってもダメ。子どものこころに「何か」響くものがばければ・・・

そこで、いじめ自殺からのリカバリーを果たした私の友人を学校に招いて学年集会というかたちで彼の講演を実施した。直接いじめ自殺を経験し、死の淵から蘇っていまこうして生きている~という人間のリアルは私が説教垂れる言葉の何万倍もの重みがあった。

やる方の何気ないいじめ、一言がやられる方を絶望の淵へと追いやり、このように自殺にまで追い込むことがあることを頭の中では知ったつもりになってはいるだろうが、実際に命を拾ったものが発する言葉の重みは段違いであった。私語をするものなど誰もなし。

何よりも「生きててよかった」という彼のメッセージがいまつらい境遇にある彼らの励ましになったのではないかと思うのである。

さらに、「人権意識」「社会性」「共感性」を育むべき、さまざまなロープレ(ロールプレイング)を、生徒にシナリオ、配役を考えさせ実演させたり、様々なクラス役割を設け、生徒間での協力、話し合いが必要な場を人為的に作り出したりしたのである。

このことは生徒間の人間関係を教師にも見えやすいようにしたことで、メリットが実に大きかった。また、とくに「人権」について突っ込むためにルームの時間を3つ使って「日本国憲法」について深く学んだりもした。

いずれにしても、その大目的は「いじめは酷い、辛い、情けない、恥ずかしい」という「共感性」と「社会で許されない事は学校でも絶対に許されない」という「社会性」を生徒の心に植え付けること。実際これに尽きる。

Sponsored Link

そして、極めつけは生徒間問題の仲裁役をクラスの「係」としたこと!

彼らの立場にも配慮し、彼らが決して孤立しないよう係りは「男女3人づつ計6人」。随時担任に報告を義務とし、大きな問題についてはクラス全体で共有し、クラス会に諮(はか)ったりもしたのである。

「いじられっこ」が実は「いじめられっこ」であることを私に教えてくれたのも、この係りである彼らだった。私が犯した大きな過ちは「いじり」は「いじめ」のはじまり!?違いと境界線~教師なら「悪のいじり」を見逃してはならない!で詳しく話したが、彼らがいなかったら~と思うとほんとうに今でもゾッとする。

このように、いじめ問題解決に向けて彼らの力に期待する役割は、これからも大きくなっていくことは間違いない。

「いじめ」は人権侵害という大きな過ちであるということを彼らに気付かせることが、教師の大きな務めなのであろうが、私の場合このアプローチはあまりうまくいかなかった。誰もが持っているこの「人権」というものよりも、「人間としての尊厳」~これを貶めるような言動はゼッタイ許さない!!という姿勢を一貫して持ち続けたほうがよいのかもしれない。

いずれにしても、傍観者・無関心者の持っている影響力は、計り知れないものがある。起きてしまってからのいじめ根絶のためだけでなく、いじめ予防のためにも今こそ!彼らのチカラを活かそうではないか。

「イジメの時間」評価レビュー~いじめ被害者が加害者を殺すとき~倍返し以上の復讐劇~ネタバレ注意

逃げたくてつらくて苦しくて、自分をいじめぬいた奴らを殺してやりたいけどできなくて・・・もう何もかも嫌になった、死んでしまおう・・・ そう苦しみぬいて自殺後の自分の葬式の夢を見るまでにいたり、とうとうこ ...

続きを見る

 

いじめ傍観者ができること

さて、わたしのケースはこれくらいにして話を戻したい。

いじめ傍観者にしても、傍観者が自らの安全を確保しつつできることは実際いくらでもある。

何もいじめを自分で直接やめさせたり、ダイレクトに教師に知らせなくてもできることは実際たくさんあるのである。

たとえば、こういう方法はどうだろう?

① 傍観者自身が自分の親にいじめの事実を告げ、その親が教師に働きかける。

② 傍観者がいじめられている生徒の親御さんにいじめの事実を告げる。

③ いじめ傍観者が担任、その他の教師などに匿名の手紙などで伝える。それでも動いてくれない、あるいは期待できないときなどは彼らを飛び越えて学校(学校長)、教育委員会あてに送ってしまうのも一手かもしれない。

④ クラス数名以上が結託(けったく)して、担任にクラスに問題アリ!と訴える。

⑤ 学校でいじめられている子を表立ってかばったり仲良くすることがはばかれるのであれば、学校外でアシストしたり、電話、メールなどで連絡を取ることも当然できる。いじめられている生徒を孤立させないことが大事なのである。誰か一人でも自分をわかってくれるものがいる・・・ということは



こういった間接的な方法もあるということを教師はじゅうぶんに理解しておくべきである。

実際、私のクラスであった事例である。かなり太っている男子生徒に対する「ことばでのいじめ」の芽を、ある女子生徒の母親からの相談報告で早いうちに知ることができ、いじめの芽を摘み取ることに成功したことがあった。言っていたほうは何気ない「いじり」のつもりだったのであるが、当の本人は当時いたく気に病んでおり、いじりどころか休みがちになるほどだったのだ。

勇気ある一歩を踏み出した彼女はすごい。このように第一声を上げたり、はじめの一歩を踏み出す勇気を子どもたちに伝えようではないか?いじめられている子どもも傍観している生徒たちも、「先生に言ったって、大人に言ったって・・・」と問題を自分たちで抱え込み続け、問題が大きくなってから「助けて!」ではもう遅すぎる。

教師という人種もまた相談されるのは慣れてはいるが、自分の悩み、こころのうちはなかなか人にさらけ出せないもの・・・そういった意味で教師も常にオープンで相談されやすい雰囲気、環境づくりに日々努めなければならないのは言うまでもない。

また、これまで「傍観者」という一般的なことばを使ってきたがただ単に「見ているだけ」では、なにも「手を下してはいない」ということにはならないことに気づいてほしい。いじめの場の雰囲気、流れを立派に助長していることを再確認するべきである。

先述のように「消極的加担者(加害者)」にじゅうぶん成り得るのである。傍観者から直接的な加害者にかわっていくことが多いのはよく知られていることでもある。

傍観者の存在はいじめ加害者にとっては、都合の良いこと。「容認されている、問題ない」ととらえるのも当然である。こういった「悪」を見過ごす、見逃す、「見なかったこと」にすることはいじめを容認することに他ならない。

教師としてこれからも生きていくのなら、あなた自身のいじめに対する考え方の柱をもう一度確認しなければならない。いじめはどこでもいつでも起こって当たり前だからだけではなく、どのような人の心にも鬼は住んでいるものなのだから・・・

そして、結論!

教師は、「自分一人で解決しよう!」なんて考えは捨てよ!

いじめ傍観者中立者、家庭の力を借りよ、活用せよ!

クラス担任のブレない、強い姿勢、貫徹心は生徒に通じる!








-いじめ, 教育・教師, 未分類
-,

© 2024 ユメザス〜人生すべてネタ!ユメをメザスあなたのためのユメザスネット!〜 Powered by AFFINGER5