教育・教師 生徒指導/教育技術

なぜ、初任教師の私は失敗したのか?指導困難校での授業崩壊と生徒指導~今だからわかる失敗学~

これまで、生徒指導について「教師の授業中の生徒指導~授業中私語、携帯指導はどうあるべき?~携帯取り上げ預かり指導の難しさ~」や「生徒指導、うまくいかない教師が忘れているたった一つの大切なこと~生徒指導の極意、9つの視点~」、そして「授業中私語には理由がある~やめさせるには、まず(い)授業の改善を!+ルールを分からせる指導を~」などでいかにも知ったふうに話してきた。

しかし、私だっていきなり突然、うまくいくというか自分なりのスタイルをつかんだわけでは決してない。そこにはさまざまな辛酸を舐めつくした私が確かにいる。幾度となく悔し涙を流し、何度辞めようと思ったことか・・・寸でのところで私を踏みとどまらせたものは、その時の私が気づけた限りでは少数の子どもたちの真剣な眼差し、そしてわずかではあったが陰に日向に支え続けてくれた先輩教師たちの存在であった。

今回、このテーマで話すことになったきっかけも実は最近もらった相談?メールである。「ユメザスの生徒指導の記事を読んで、なるほど!とかそうか!とは思うけど、実際に苦労したこと大変だったこと失敗したことなどはちょっとしか書かれてない。できればそういった体験談を深く聞かせてほしい」~といった感じのメールを今回頂戴した。

なるほど!と思った。いちばん多くを学び、人一倍失敗もたくさんしたあの時のことについてディープにいまこそ話すべきだと強く感じた。

今回はテーマに添って問題解決の道筋を私なりに導き出そうとするいつものユメザススタイルではなく、私の失敗談を思うままに綴っていきたい。できれば、今の私だからこそ思える視点で話すことを心がけ、なぜあの時は失敗したのか?どうしたらよかったのか?~についていま、あらためて考えていきたい。







講師時代・・・ひたすら教科指導力を磨く日々

本採用になる前に講師の経験があったとはいえ、そこは黙っていても生徒たちの多くが「今なにをなすべきか?」を自分で考え、行動できるような子供たちであり、ある意味大人であり冷めていた。そして生徒教師間の間合いもまた適度な距離が保たれていた。

正面からド~ン!とぶつかってくるようなことは決してなく、なんと言えばいいのだろう、そう「大人慣れ」しているそんな子供たちが多かったように思う。生徒指導にとられる時間もほとんどなく、教科指導、部活指導に専念できた本当にわずかな期間ではあったが貴重な時間であった。

その代わり、教科指導力、授業力のない教員に対する生徒たちの半端ない反発は恐ろしいくらいであり、教科担任は一日たりとも気の抜けない日々を送らされていた。私がそこで経験できた生徒指導のスキルは非常に偏ったものだったように思う。

初任の地がいきなり「指導困難校」

ところがである・・・採用が決まり学校長との事前面談で学校長の口から飛び出した言葉がこうである。「あんたもこういうとこにきちゃったんだから腹くくってもらわないと・・・それでもあんた、これでも前よりはずいぶん良くなったんだから。ほんのちょっと前までなんか校舎内にバイク乗り入れたり、授業中だろうがなかろうがけっこうみんなプ~カプ~カやってたんだから・・・」~と両手でハンドルを握りアクセルをふかすマネや二本指でタバコをふかすしぐさなんかするものだから妙にリアルだった。

さらに学校長は饒舌になっていく。「仮になんかあったとしてもね。仮にと言うよりほぼゼッタイなんかあるんだけどね、頭にくる憎たらしい生徒もね飯の種、メシのタメ~と思うとかわいくなるもんよ・・・まああんたも大人になることね・・・すぐにわかるから・・・」

この時の講和?の内容はいまでもこのようにほとんど正確に再現できる。それほどこの時受けた衝撃はけっこう私なりに強烈だったのだ。それでもこの時はまだ余裕があった。「とんでもないとこにきちゃったけど、まあ何でも経験だ!いっちょう頑張るしかないな・・」くらいにしか考えていなかった。カンタンに言うと「何とかなるだろう」などとか~るく考えていたのだが、実際問題として「なんとか」などとはならなかったのである。

ある「指導困難校」の実際と実態

一学年三クラス、入学時一クラス35~6人、それが卒業時は25人前後になる。とてつもない田舎。終バスが15時半、よって部活やりたくとも親等の完全送迎がないと実質不可能。いまどきボンタンズボンにエナメルピカピカの靴、極めつけはリーゼント&剃り込みときた。地域の吹き溜まりというか、どこへも行くことができなかった子供たちの寄せ集め的高校で、学年はじめはボス&スケバンの座をめぐっての勢力争いの日々・・・いわゆるマイルドヤンキーなんかでは決してなく、ハードというかまんまヤンキー集団がクラスを学年、学校を牛耳っているようなところであった。

学力は県下一二位を争うレベル・・・もちろん下からカウントしてだけれど。入試時5教科250点満点で合計点数「10点以下」の生徒も数人毎年入学してくる。そのため基本的な生活習慣が身についていないこどもも多く、語彙は極端に乏しく、こちらから話すにしても非常にカンタンに嚙み砕いて、しかもゆっくりと話さないとなかなか理解できない。板書にしても同じこと。

正直、自分の無知を恥じた。この世界にこのような子どもたちが存在することを初めて知ったからだ。独自の言葉を使い何を話したいのか何を言いたいのかさっぱり(最初は)分からなかったこと、入試採点ですべての教科の回答用紙に英語というよりアルファベット日本語混合文字を書き連ね、さらに記号だか象形文字だか判別つかない宇宙文字のようなオリジナル文字を本気で書いて出す受験生がいたこと・・・今思うと得難い経験をさせてもらった。彼らはけっしてふざけているのではなくいたってまじめなのである。

もちろんすべての生徒がこうであるわけではないが、彼らのような子供たちに相対してきた経験はその後の私の教師人生の方向付けを確実にしてきた。

まず「相手の言い分を聞くこと」、そして「待てる余裕」みたいなものをここでつかんだような気がする。

肝心かなめの「生徒指導」であるが、対教師暴言・暴力、生徒間暴力、いじめ、器物破損、授業妨害、無断免許取得(自動二輪車、原動機付自転車、乗用車等)、おなじく運転、同乗~これらがほとんどで、その他、人殺しやモノを使って他人を傷つけること以外はなんでもアリの生徒指導であった。

エスケープや徘徊などはその数が多すぎていちいち案件にカウントしたり部会に挙げてたらキリがないほどの日常茶飯事であった。また、当たり前になりすぎていてほとんどの教員が指導すらしていない(できない)状態が長く続いていたという。



授業開き(初日)の様子を再現

前に「初担任&授業開き!いまスグやるべきこと~準備と心構え~」などでしつこいくらい話しているように、私なりに「黄金の三日間」の大切さは理解しているつもりだった。しかし、前任校でのスタートダッシュの成功体験をそのまんま今回も同じようにもってきて、きっとうまくいくなんて思っていた私の幼さと甘さが、これから延々と続く私の失敗の大きな原因だったのだ。

これまでやってきたように、授業や提出物、考査、そして評価の視点、方法などについて、1枚刷りの文書にしていねいに説明したつもりだった。が、しかし、まずこちらの言わんとしていることが頭に入らない(理解できない)だけでなく、まったく聞く耳を持たない~という態度なのだ。そのほとんどが・・・

指導教諭から授業中の実態はおおよそ聞いていたので、ある程度予想はしていたがアンエクスペクテッド・・・この想定外の事態にまずはビックリポン!

初日ということで彼らの日常の授業様子を観察のつもりだったが、これもまたある意味裏切られた。普通、一発目はこちらの様子をうかがったり、相手を試すような言動があったりと比較的おとなしめなのだが、そんなものはまったくなく、いつもの通り自分たちの好き勝手やる~というスタイルだったのだ。

机上に携帯、飲食物、マンガ雑誌が所狭しと並べられ、机上に両足を投げ出す坊ちゃん、恥ずかしげもなくやまんばメイクに余念がないお嬢、勝手に出歩きまわるどころか、入退出おかまいなしの面々・・・挙句の果ては奇声を上げながらそこいらを走り回る連中が出てきたところで我慢の限界ということで、こちらも実力行使に出ていったんはまずは全員席に着かせる。そして、まずはこちらの話を聞けと、それからみなの話、言い分を聞くと約束し、手短に私の想いを正直に吐き出した

前は、マエハというがそんなの関係なし。授業はこの教室にいる全員でつくっていくものだけれど、ルールはぜったい必要、要求だってきけるものとゼッタイならぬものとが当然ある。私が道を誤ったなら、それは当然ただすべきなのできく耳は当然持っているから正してほしい!~と、こんな感じで話したように覚えている。

しかし、これまた想定外の反応が返ってきた。「いったい、こんなもの誰が決めたのか?納得しないし守るつもりなんて全然ない!やれるもんなら力づくでやってみろ!!」とクラスボス的存在なリーゼントが食って掛かってきた。

さらにすごんで「いままでオレらは授業中だっていつだって好き勝手やってきたし、これからも楽しみたい。それがなんで今日来た新入りに命令されなきゃならないか意味わかんね。新入りは新入りらしくおとなしくしてろ!」ときたもんだ。

この場は、「私が話し合いももたない、言うことも聞けないというのなら、最低限のルールだけは意地でも守らせてやる!!」とこっちもすごんだところで時間切れとなり、担任に放課後も彼らとの時間を確保してほしい~と懇願したのだがあえなく却下・・・




その後の私の対応

この膠着状態はなんと一か月もの間つづいた。私は彼らが授業をはじめられる状態になるまで決して始めようとはせず、ひたすら「待ち」に徹する日々が続いた。この雰囲気、状態を楽しんでいる連中をよそに、早く授業を始めてほしい~と目で訴えている少数の視線が私を突き刺してくる。

もちろん、この間もいろいろと話しはしたし、どうしてルールが必要なのかも私なりに説いたつもりだったが、むなしくもその言葉は彼らの片方の耳からもう片方の耳へとただただ通り抜けていくだけ・・・

初任研という研修の身であり、肩書は教諭であっても条件付き採用という身分でありながら一か月もの間授業をしていない~ということで担任をはじめとして「問題だ!」「生意気だ!」という多くの声が上がり始めたのもこのころである。指導教諭は私の考えを理解はしてくれていたが、彼の「いまはカタチだけでも、「授業」やっている「ポーズ」を取るしかないのではないか?」との声に押され、私はここでとうとう折れることにした。

職会の議題に上がったときも、こう言われたのは結構ショックであった。「この中で、授業が授業として成立している先生なんてあまりいないですよ。みんなそれでもやっているんです。」「理想や夢だけじゃごはんは食べられませんもの。」

体育や芸術を除いた座学授業で、授業を授業として成立させている数少ない教員の中に私の指導教諭がいた。その彼から「折れる」「妥協する」ことをすすめられたのはことさら私を辛くさせた。彼から「おまえには無理なんだからやめておきな」「身の程を知れ!」~と、こう言われているようでむなしく切なく、そしてさびしかった。




そして、当たり前の帰結、砂を嚙むような毎日

それからは想像の通り、すべてがなし崩しである。いままで私が懸命に取り組んできたことがぜんぶパーになってしまった。

生徒たちは、「俺たちの勝ちだ!」「なんでぇ 結局そこまで・・・」などとはやし立て、お祭りのような騒ぎである。後は野となれ山となれ~とまでは無責任ではないが、それに近い感情だった。けっして自分から言い出したことではないし、押し付けられたことだ~どうなったって知ったことか~くらいには思っていた。まったくをもって情けない&無責任な当時の私。

カタチだけの授業をやったつもりになって、スゴスゴと教室を後にする教員にまさかこの自分がなるなどとは露ほども思わなかった。自分で自分を情けなく思うことがこんなに辛いことなんて知らなかった。あのころは、本当に学校に行くのがいやだったし、つらかった。長い教師人生の中からしたらほんのわずかな時間であったが、当時の私にしてはとてつもなく長く、そして永遠に続くかと思われたのである。当時としては・・・それほどしんどかったし何度辞めようと思ったことか・・・

この時、私はいったいどうすべきであったのか?

誰でもそうであるが、人はそれぞれに事情があり、悩み問題を抱えているものであろう。彼らもまた様々な環境下でたくさんのうっぷんを抱え、もがき苦しんでいた。当時の私にはまず「待つ余裕」すらなかった。そして、ものごとを鳥瞰俯瞰する「こころのおおらかさ」が全くなかった。

やってしまったことを並べたてなじるのではなく、そうせざるを得なかった彼らの心を読み解き寄り添っていくという謙虚な姿勢と彼らの視線まで下りてものごとを考えるという視点が欠けていた。彼らの話にわずかな時間しか耳を傾けず、ものごとを強引に推し進めすぎたのである。

そしていちばんダメであったのは当然ではあるが、一度決めた自分の方針を貫き通すことができなかったことだ。これが致命的だった。

いまあらためて思うと、彼らに押し付けたものは、けっして彼らのためなんかでは決してなく、結局私自身のため、自分のためだった。彼らと実りのある授業をつくっていく~ということよりも、自分がただ単に授業をとにかく成立させたいというエゴ以外の何物でもなかったように思うのである。

こういった私の浅ましさを、彼らは独特の嗅覚で敏感に感じ取ったに違いない。




そして、私なりのリバース劇

このままでは自分が自分でなくなってしまう、こんなことをするために選んだ道ではない!~と日に日に危機感が募っていった私はある日、指導教諭にこれからについて相談した。「もう一度、前の自分のやり方でやらせてください」と懇願したのである。

当然、以前にも増しての反発は予想していたが覚悟の上のことであった。ここから私なりのリバース劇の幕が上がる。「なにを今さら」「やってられねぇ」「イミフ」などの予想された言葉の数々の陰に、内々に「がんばって」「やっぱりこの状態はよくないよ」というあったかい言葉にどれだけ勇気づけられたことか・・・

「私も身を切るから、君たちもこのくらい耐えろ!その代わりためになる授業を約束する!」と高らかに宣言した。こんなふうに一緒にやっていこう!授業をみんなでつくっていこう!という私の決意を日々訴えていったのである。

私の本気度を示すために、(これがいいか悪いかはさておき)頭は丸め、みなが授業に参加するまでは剃り続けることにした。そして、前の約束通り授業を始められる態勢になるまでは決して授業を始めることはしなかった。時間は確実に流れていった。しかし、単位も認定しない=進級もできない=これはまずい!~と彼らも理解したようで、彼らのなかでも少しづつではあるが折れたり態度を軟化してくるものが出てき始めた。彼らにしてみれば、面倒なこともできれば避けたいのは当然のことであった。

それから、いきなり授業の体をなすようになったわけではないが、少しづつ彼らとの距離が縮まっていたような気がしたのは私が彼らを取り巻く環境を理解しようと努めめ、同じ高さの視線まで下りたからのような気がする。へつらうとか迎合するという類のものではなく、彼らのためにいまできることは何でもしたい!というピュアな気持ちが私を突き動かしたのだ。

自分の授業だけはきちんと成立させたい~とか、他の教員からの評価であったり、こういったものを気にするということは、結局は自分が他からよく見られたい~というエゴなのではないだろうか?つまりは、子供たちのためなんかではなく、ただたんに私は自分だけのために教員をやっていたのである。

この考えから脱却してから、私は自分のカラーというものを打ち出していき自己の殻を破ることになったのだと思う。いまだに自分とは何者かがわからないでいるが、少なくともこの時から「内なる自分」に偽ることなくあるがままに生きてきたような気がする。

他を気にするあまり、自己を偽りせせこまと生きていくのはやはりしんどい。生きていられる時間は本当に短い、自分のなすべきことを見極め、それに向かって突き進んでいけたらどんなに幸せなことだろうと思う。私に残された時間はそう多くはない。

「あの本を読めば、この本は読めないのだ。」

「この本を読めば、あの本は読めないのだ。」

「心を開いて」詞:坂井泉水 曲:織田哲郎 歌:ZARD











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