やってしまったこと、バレてしまったことは覆せない。教師が、わがクラスから指導対象者を出してしまったなら、今を嘆き悲しみ生徒を責めるよりもやることはほかにもっともっとたくさんある。
特別指導になど入らない方が良いに決まっているが、これも何かの縁である。生徒、クラス、教師であるあなた自身の成長の絶好のチャンス!と前向きにとらえていこうではないか?!このまたとない機会をよくあるように、大量の課題をこなさせ、ありきたりの説教垂れてそれなりに家庭との接触をもって晴れて?指導解除~ではなにも生徒の心に響かないし、なによりも面白くもなんともない。当然、生徒のためにもならないし、自分の成長の糧にもならない。
そこで、私が在職中担任を持っていたとき、どのようにこの謹慎指導と向き合ってきたかを今日は少し話していきたい。
いつも通りの結論を先に言ってしまえば、~そうならないための普段からの不断の生徒指導、クラス経営、家庭との付き合い~これに尽きる。
予防としてのクラス経営と生徒指導
当たり前のことになるが、もう一度確認していただきたい。クラス経営がうまくいっていない教員のクラスからは、問題行動に走る生徒が多く出る傾向がある。生徒、家庭をきちんと掌握せず、おたがいの人間関係もうまく結べず、信頼を得ていないのであるから当たり前と言えばあたりまえである。
教師がとにかく忙しい、時間がないのは仕方がない。それでも子供たち、家庭とのかかわりの時間を増やし、ひいては教職員間の情報交換もマシマシにしていくしかないのである。
前にもくわしく話したが、私もそれなりに時間をかけて人並み以上の辛酸を舐めて自分の指導スタイルを確立してきた。クラス経営、生徒指導に型にはまった正解などないであろう。それこそ百人百様のスタイルがあり、マニュアルがあると信じている。
そんな私が常に心がけてきて実践してきたのは以下のような至極当たり前のことである。このような当たり前で誰にでもできるようなカンタンなことを、誰もやらないくらい一貫性を持って貫き通すことに私のスタイルの極意がある。これはあくまでも私の中の柱であるが、この柱さえきちんとすわっていさえすれば何も問題はない。あとは、自分の教師人生における矜持、信念に忠実に従っていけば自分自身のスタイルとなっていくことだろう。
考えるだけ悩みつくしたら、机上の空論としないためにもあとは実践あるのみである。トライアンドエラーを繰り返し、考え修正していくなかでおのおののスタイルがつくられていく。
➀ クラス、部活動、授業を問わず「正義」を貫き通す
正直者がバカを見る学校だけにしては決していけない。ダメなものは何があってもゼッタイ「ダメ!」~これを貫き通すのが案外いちばん難しいのかもしれない。時は折れたくなったり、許したくなる時もあるだろう。しかし、一度「例外」をつくってしまうとあとはなし崩し・・・
② 公平公正に徹し、区別はするが「差別」は絶対にしない
子ども、保護者は不公平、差別、えこひいきにとても敏感なのは先生方も日ごろから肌で感じておられるであろう。ひいきにされるほうも周りの眼もあって大迷惑どころでは済まない。
まじめにやっているものとそうでないものを一緒くたにすることは教室の正義に反する。真面目な者、正直者が報われるクラス経営を常に心がける。これは差別なんかではなく「区別」なのであるから。
③ 言動一致、ウラオモテなくがモットー
口先だけ、美辞麗句、ウラでコソコソ・・・サイテー! まずは自らがやってみせよ!自分の行動で示せ!
④ 率先垂範、汚れ役を買って出ろ!
これは先の③ともダブる内容になるが、自らの手を汚さず、苦労をなんにもしない指導者には誰もついてなど行かない。まずは、掃除だけでも生徒たちと一緒に汗を流すことから始めよう。
⑤ 自分の理想、信念をクラスに極端に押し付けることは諸刃の剣
気持ちは痛いほど私にも理解はできる。しかし、これは危険と隣り合わせであることもお忘れなく。とくに経験の浅い若い教師が陥りやすいかもしれない。クラスの誰もがみんながみんな、「みんな仲良く、助け合おう」などとは思っていないのである。たしかに、そうあってほしいとも思うし、時にはそういったクラス目標が必要になるときもあるだろう。
しかし、私たち教師はそう願わない子どもたちの心の声にも耳を傾けるべきだ。こうあらねばならない~という考えの押し売りは時は危険なやいばとなる。こどもの暴走がこういったスローガンから生まれていくことを我々は過去の事例から学ぶべき。
私の場合、「どんなものであろうと他を害さない限り、このクラスでは安全に自分らしく生活できる権利がある!」~とクラス開きのときに高らかに宣言し、生徒の人権、人格を保障した。ここでも言動一致が大切であるのは言うまでもない。他の心身を傷付けたものに対しては毅然とした態度で臨み、特別指導に上げた場合ももちろんあるが、少なくともクラス指導には必ず上げた。
⑥ わかるためになる授業を大切に!
これは言うまでもないことであろう。授業力=生徒指導力
しかし、これがとにかくしんどい。いちばんたいへんで骨の折れることかもしれない。しかし、嘆いても悩んでも時間ばかりが過ぎていくだけで誰も助けてなんかくれやしない。ない時間のなかから無理やりこのための時間を捻出してやるしかないのだ。教師であり続ける限り・・・
生徒にとってわかる授業をする教師の授業時間中に、対教師暴力やら暴言が飛び出したはなしなどはまれであろう。授業のチカラをつけ、ワザを磨くことがすべての指導力の向上につながり、ひいてはすべての問題に対しての予防策となり得るのだからこんなにすばらしいことはない。
分かる授業、生徒を引き付ける授業は生徒の信頼を得るもっともたるものであることを再確認したい。
当然、授業だけではなく、朝晩のSHR、LHR、部活動などでも生徒の心を響かせる「仕掛け」の仕込みは怠りなく。
※ 「教師の授業力向上のために大切な視点、今できること~授業の狙いを明確に!自分研究授業のススメ~」
⑦ コレやったらこうなる~をあらかじめ植え付けておく
このようなことを予めクラス開きの時に子どもたちに示したところで、やるものはやるしやらないものはやるはずもない。しかし、自分でやってしまったことの尻ぬぐいは我がでやならくてはいけないという当たり前のことを念を押しておくことも大事な事。
※ 「初担任&授業開き~いまスグやるべきこと!準備と心構え~」
まず何より、保護者を悲しませ悩ませることになること、謹慎指導に至るまでのプロセスの数々、学校謹慎、家庭謹慎だけで済まされず、場合によっては警察沙汰や退学になることもこれまでの事例を出して(何がいちばん重くなる傾向にあるかを、出せるところまで出しておく)私は提示してきた。
事情聴取前の担任指導で大切な事
謹慎に入る前の事情聴取は担任だけでなく、指導部員や学年主任など担任以外の教職員が入ることも多い。そのため、問題行動が起きたら即、担任はそれぞれの事情聴取に入る前にこれからのことについて子どもとじっくりと話し合う機会を持たなければならない。
この手間暇を惜しむと指導が指導としての体(てい)をなさなくなるばかりか、問題がさらに大きくこともままあるのでこの時の担任として心がけなければならないことを挙げてみたい。
➀ 担任として話さなければならないこと
まだ指導に上がる前であり、指導の方向性も何もない状況で担任が生徒に示すことはただ一つ。最後まで寄り添っていくという決意のみ。けっして諦めたり投げやりになったり見捨てたりはしないという「担任の覚悟」のみだけでよい。
② 指導死だけはあってはならない
これも自制の利かない教員がやってしまいがちなこと。生徒のやってしまったことばかりか彼らの人格まで否定し、彼らの内面をズダズダに切り裂いて、これからの指導、いったいどうするつもりなのか?指導の過程で生徒に「気づき」と「振り返り」を与える指導に繋げるための第一歩である。心したい。
③ 嘘や隠し事、騙す行為ゼッタイNGを突き付ける
これがあると状況が二転三転し、担任以下のものがのちのち七転八倒の苦しみを味わうことになる。嘘をつくことの重みと自分の現在の置かれている状況を再確認させたい。
④ キレることだけはあってはならない
はじめて指導に入る生徒などは、複数の教職員が聴取にあたったり、家庭訪問、学校謹慎での割り当て貼りつき等で担任以外の者と相対することに驚くかもしれない。まさか担任がキレては話にもならないが、子どもは相手の出方次第で、すぐにキレてしまうものもいる。
こういった事前指導も当然必要になってくるが、時には教員サイドに非があるケースも見受けられる。明らかな人格否定のこころない暴言、捨て台詞、身体接触や暴力・・・こういった事実があったときには速やかに知らせることも念を押しておく。
事情聴取段階で担任が気を付けるべきこと
この段階では担任はもちろん、指導部長、指導部員など複数のものが聴取にあたると思われるが、事実関係を時系列に確認するのと同時に、どうして彼らがそのような行為に及んだかの心境の変化を時系列に子どもとじっくり確認していきたい。
ここでは担任の感情論などは不要である。事実と子どもの心境の変化のみの確認を毅然とした態度で臨みたい。世間話とか馴れ合いベタベタのようなものに終始するものは一切不要。一切合切口をつぐむような生徒の場合は、時には緩急をつけた切り口も必要になるのであろうが、それは前の段階で済ませるべきである。
生徒にやってしまったことの重大さに気付かせるためにも心を鬼にしたい。
指導部会、職員会議で担任がなすべきこと
生徒がやってしまったことに対する指導は、正当かつ妥当に断が下されなければならない。そのためには部会、職会での担任の果たすべき役割は大きい。つまり、不当な判断が下れば徹底して生徒を守り、逆に、ほんとうに生徒のためにならないようなヌルヌル指導原案には見直しを迫らなければならないということ。
そのためにも、担任以下、これまでことに当たったものすべての指導の積み重ねが一番大事なのである。
※ 「職員会議で自分の意見を言わない(言えない)教員はなぜダメなのか?職員会議の位置づけ」
謹慎指導における担任の注意事項
➀ 家庭謹慎、学校謹慎の見極めは慎重に
家庭謹慎は原則アポなしGO!であるが、家庭の協力が得られるのが難しい場合は、指導部協議の上、学校謹慎に切り替えるべき。普通は双方交えての指導になるであろうが、指導の効果を第一に考えるべき。
ただ、学校謹慎は担任、担任以外のものの負担増は間違いなく、担任、指導部の根回し等業務もけっこう来るものがある。学校全体での協業になるが、カタチだけの指導で済ませるのか、それとも苦労はしても生徒の心に響かせる指導にするのか~担任、指導部の覚悟が問われている。
② 指導部、各教科の課題精選の協議
指導を受けた期間も長いうえ、大量のあまり意味をなさない大量の漢字書き取りやカタチだけの毎日の反省文に根を上げ、「もういいです!」と指導を放棄してしまっては元も子もない。指導部の課題は「量」「質」「内容」を吟味し、何よりもいまここにいる生徒のためになるものでなければならないことを再確認する。私の場合、ケースによっては、学校での労働作業、家での家事手伝いも謹慎課題に加えたこともあった。
各教科から上がってくる課題も、指導解除後、スムーズに授業に戻れるよう各教科担任の協力を仰ぎたい。こういった非常時のためにも担任であるならば、自分の子どもたちが世話になっている各教科担任とのつながりは普段から密にしておきたい。
③ クラス、学校とのつながりを途切れさせない指導を心がける
私の場合、家庭謹慎の際は極力他の教師の協力をあおぎ、同行してもらっていた。副担任の先生だったり教科担当、部活の顧問だったりとさまざまだったが、人との接触に飢えている生徒には格好の機会となり、閉じこもってしまっている子どもにはいい気晴らしとなるときもある。
また、指導部、管理職の許可を取ってからになるがクラスの子どもたちを同行させたこともあった。いずれにしても、君を見捨ててないよ、大事なクラスの一員なんだよ~というこちらの熱量はけっこう子どもにも伝わるものらしい。
④ 携帯、タブレットの扱いは慎重に慎重を重ねて
これらのデバイスの扱いは学校によって異なる(保護者預かり、指導部預かり、担任預かりなど)と思うが、私の経験校ではすべて担任預かりであったのでことさら慎重に対処した。指導部既定の誓約書「携帯一時預かり規定」なるものに保護者にサインしてもらうのであるが、その内容をカンタンにまとめるとおおむね以下のようになる。
A 電源を切り、ロックをかけてから担任に渡す
B 指導期間中、新たな回線契約を子どものためにさせないし、保護者携帯の貸与も厳禁
C 保護者の携帯、固定電話へかかってきた子どもへの取次も一切しないし、子どもが電話に出ることも禁止とする
D 携帯預かり期間中のキャリア回線使用料の一切を学校、担任に請求しない
現代では、電話回線に頼らずともネット回線を通じてビデオ通話音声通話もできる時代、PCの利用も含めた確認は必須であろう。
⑤ 心からの反省がない場合、どうするか?これは担任次第
これはままあるケース。心底の反省の様子は見られないが、課題も十二分にこなし、カタチだけの反省文も整えられ、自分のクチからそれなりの反省の言葉も述べられている。そのような時、どうすればよいだろうか?私の場合、ケースバイケースで当たっていた。重大な問題行動であるのにカタチだけの反省しかみられないときなど、解除検討の部会でも真っ向から解除に反対した。一方、クラスに戻しながら継続して指導していった方がよさそうな場合は、解除の方向に同意・・・とケースによって対応はさまざま。
難しい問題ではあるが、謹慎指導にまじめに担任が取り組んでいるからこそ生まれ出ずる悩みであろう。自分の心の声に忠実に従うしかない。
いずれにしても、謹慎指導はカタチだけに終始してはならない。見捨てない寄り添う指導が大前提で、あとは担任教師のオリジナルカラーに染めていけばよいだろう。これまで何ら普通の接触しかしてこなかった生徒と謹慎指導で相対するにはけっこうしんどいものがある。ここから信頼関係を築いていくのはちと厳しすぎる。普段からの何気ない声かけなど、ちっぽけなことでも担任ならできることはたくさんあるはず。
かなり駆け足で謹慎指導の全体を見渡してきたが、一番先にいちばん肝心な結論を述べたように、そうならないような普段からの生徒指導、クラス経営が何より。しかし、そうはいってもどれだけ担任が尽くそうともそうなってしまったものはどうしようもない。
この起きてしまったことに対して、担任としてどう本人、クラスと向き合うのか、いまこそ担任としての真価が問われている。指導に入る子供だけでなく、クラス生徒一人ひとりが担任であるあなたの動向をつぶさに注視していることだろう。
繰り返しになるが、起きてしまったことは致し方ないこと、覆すことなんかできやしない。嘆くよりも、これからどうしていくか~担任であるならばこれ一点に注力すべき。罪を憎んで人を憎まず~とはよく言ったもので、生徒の人格まで否定することがあってはならない。
やってしまったことに対するきちんとした指導は必要ではあるが、「指導死」だけは絶対ゼッタイあってはならない。追い込む指導が必要なケースであっても。どこかに生徒の逃げ道を用意しておくべきではなかろうか?
最後になるが、教師にとっても、子どもの謹慎指導はわが身を振り返るいい機会となる。できればあってほしくはないものだが、ほんとうにそうなのである。「どうしてこんなことが起きてしまったんだ?」「この子は、クラス、担任をこんなふうに見ていたんだ!」などのように新たな気づきがたくさんある。
謹慎指導を通じて、子どもとの結びつきが深まったような気もして苦労のしがいもあるのが謹慎指導。この問題をいやいや仕方なく義務でやるのか、それとも「絶好のなにかのチャンス!」と勝手に思い込んで積極的に取り組むのかは、先生!あなた次第!
※ 関 連 記 事
「高校生が退学になるとき~学校の事情と生徒の言い分~退学の持つ意味とその重さ~」