教育実習の光と陰・・・実習を終え、ますますヤル気に火が付く未来の先生がいる一方、自信を無くし早々と教壇への夢をあきらめる(辞める)学生も後を絶ちません。はじめはみんなきっとドキドキワクワク、熱い思いでいっぱいだったはずです。(減るものでもないし、一応免許取っておくか・・・という人は別として)
いったい何が両者を分けるのでしょう?現場の現実を目の当たりにして一気に熱が冷めてしまうのでしょうか? ちょっと自信を無くすような出来事があったから?・・・だとしたら寂しい限りですが、それまでだったということになりますね。
その程度のことで教職にかける思いが揺らぐようでは、実際、学校で務まるとは私には到底思えません。前回、「教育実習、心の準備と注意点~最高の実習にするための7つの視点~」で私なりにかなりリキを入れて実習の実際については話しましたが、この実習での「揺らぐ思い」についてはサラッとしか話せませんでした。
そこで今回は、教育実習でほんとうに教職への「適正」「やりがい」は計り知れるものなのか?について一緒に考えていきましょう。ついでに現場の勤務実態についても少し考えていきましょう。今回問題提起するきっかけをつくってくれた記事はこちらです。いのりょさん、ありがとうございます。
「私が、夢だった高校教員にならなかった理由。教育実習で学んだ子供のエネルギー量の大きさ。」
いのりょさんは教育実習で教師になる夢をあきらめたのではなく、「辞めた」と言っています。そして現在はホワイト企業にお勤めとのこと。生き馬の目を抜く商社で活躍されてるのですからスゴいですね。そのようないのりょさんが教師への道から降りたワケは次の4つだそうです。
①子どもの感情エネルギーはとてつもなく大きい
②待遇、労働時間が悲惨すぎる。典型的なやりがい搾取
③子どもが好きじゃなかったことに気が付いた
④尊大な人間になりそうだから
むむむ・・・実に鋭いトコを突いていて、実際興味をそそられたのです。それでは一緒に考えていきましょう。
子どもの感情エネルギーはとてつもなく大きい~
についての反論と納得
反論 〇(する)
納得 〇(できる)
いのりょさんの記事に惹かれたのも、私も同じ土俵でずっと勝負してきたからなのです。ただ、私の場合は実習時の自分のふがいなさに発奮してますますヤル気になった~といのりょさんとはちょっと違ってましたが。
いのりょさん曰く、
~高校生は大人と言いますが、高校生はまだまだ子供で、嫉妬や喜びや情熱何から何まで感情エネルギーが大きいです。
嫌われた時の嫌悪感も、好かれた時のなつき方も我々大人の想像を超えた感情量です。~
確かに子どもにはそういう一面も当然あります。高校生であっても。でも私は前に「教育実習、心の準備と注意点~最高の実習にするための7つの視点~」で話しました。
あくまでも実習生が実習を行う期間は、学校の連綿と続く長い歴史の中のほんの一部分、切り取られたほんの一瞬。そして児童生徒の一部分でしかないと・・・
そのようなワンシーンを「体験」しただけで全部を知ったようになって判断して欲しくない~ということなんですね。(もちろん一部を知って、それで大事な決断をしてしまうのも、本人の自由ではありますが・・・)
そして逆に私にはこれこそ、子どもの持つ魅力の一つであり、学校で子どもたちと生活の一部を共にする教師の醍醐味なのではないかと思えるのです。要はとらえようということです。ある人にとってはマイナス要因であっても、一方それが魅力的に映ってしまう人もいるってことなのです。
私も教師になる前、そして退職後も民間、一般企業に長らく奉職してきましたが、大人相手の仕事はそれはそれなりに勉強にもなり充実していましたが、学校のようなダイナミズムは味わえませんでした。毎日何が起きるか分からない、あのワクワクドキドキ感は学校ならではでしょう。
私の場合、いのりょさん曰く「感情エネルギー」をそういった子どもたちから逆にもらってました。パワーと元気を・・・
いのりょさんによると「この感情エネルギーをあと40年受け続けたらどうなるんだろう」と考えたときに、私は教師になることを辞めました。自分が50歳になった時、若いエネルギーは受け止められないと感じたからです。
~とのことでしたが、教師に見た目よりも若い人が多いのも彼らより「何か」をもらっているからなのではないでしょうか? 商社で頑張っているいのりょさんのことですから、50歳どころか定年を過ぎてもまだまだ学校でも走り続けられる人だったのではないかなと思うと残念です。
こちらで1点だけ反論するところがあるとしたら、「高校生はまだまだ子どもで」のところですね。確かに図体だけ大きくなって「まだまだ子ども」なお子様もおりますが、それがすべてではないです。前にもこちらで話しましたが、家計を支える(助けるではないです。メインの稼ぎ手の一人です。)ために土日含めて週30時間以上も働き、幼い妹たちの世話もしながら学校は皆勤且つ成績優秀~という神々しいまでのすべてにおいてスーパーな生徒がおりました。
こういった雑多な環境下にあってもめげずに前へ前へ!進み続けている子どもも実にたくさんいるのです。私たちが未だ見たことも経験したこともないさまざまな世界を知っている子どもたちだってたくさんいます。
私はこれまでこういった子どもたちから多くのことを学び、そして影響も受けてきました。教師になろうとする人ならば、「子どもたちから学ぶ」という謙虚な姿勢もまた必要になってくるのではないでしょうか?
たいした苦労もせず、すべてストレートで学校を出て教採も講師経験もないままに一発合格・・・こういった純粋培養の教員がたまに「まだまだ子ども」だったりします。世の中はいろいろな人間で成り立っているのです。様々な人間がいてこそこの世の中であり、学校のはずです。
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待遇、労働時間が悲惨すぎる!
典型的なやりがい搾取~
についての反論と共感
反論 △(部分的にする)
共感 ◎(大部分は大いに共感)
いのりょさん曰く
~教員の待遇は本当にひどいです。
- 給料は高くはない
- 仕事は精神的、肉体的にもハード
- 1日12時間以上拘束されて当たり前(違法労働)
- 土日は部活の顧問でつぶされる(時間・やりがい搾取)
- 街に出たら生徒に会う可能性がある(プライベートの喪失)
これは、やりがい搾取のブラック企業ではなく、高校教員の普通の待遇です。
1日12時間以上職場にいる生活を週5回以上繰り返す生活は、果たして高等教育を受けた人間が人並みの給料でやる仕事なのでしょうか。
私は、割に合わないと思います。私は「部活の顧問をしない」という条件があって初めて教員を志望したいと思っています。~
~とのことですが、みなさんはどう思いますか?私は朱記した2つの点だけはどちらとも何とも言えないと思います。教師の給与は果たして本当に低いのでしょうか?
ここでは問題を簡潔に見るために「国公立学校」だけに限定してみます。私が40歳で退職した時の、手当税込み総支給額が7,000,000円オーバーです。たしかにいのりょさんのように優秀な人であれば、12時間×5日×4週の時間があったなら、教員なんかやってるよりもより少ない労力でもっともっと稼ぐことができるのでしょうが、お金を生み出す何のチカラも持ち合わせていない人がこれだけの額を安定して稼ぎ続けるのは至極困難です。ましてや教員は昇給、ボーナス、退職後の手厚い保障~となんでもありなのです。
私は相対的に見て「給与は高くはない」とは言えないと思います。もちろんいのりょさんが言っているのは、提供・費やした労力のリターンにしては少なすぎるということでしょう。でもそれは「やらされてる感」で学校に来ている人の考えでしょうね。
★好きな仕事であれば、長時間労働もまったく苦にはならない
★好きな学校で仕事ができる上、生活も安定している~これ以上何を望もう
・・・少なくとも私はこう思っていました。
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これから教壇に立つ人たちは、あれもこれもの選択肢の中から学校を選んだ人たちではなく、「自分には学校しかない!!」という一種、宿命のようなものを背負っている人たちだけになるような気がします。そして、そうあって欲しいと願います。
なぜなら、こんな時代にあえて教職の道に入ろうとする人たちは余程の覚悟と自分の中に確固とした「柱」がないと、まずやっていけないであろうと容易に想像できるからなのです。
ですから、そのような覚悟がない人は、「1日12時間以上職場にいる生活を週5回以上繰り返す生活は、果たして高等教育を受けた人間が人並みの給料でやる仕事なのでしょうか。」~などとカンタンに言ってしまうものなのです。「ブラックスクールと教師聖職論~ラクをしたいならゼッタイ教師はダメ!!」でも話しましたが、本気で仕事で取り組むのであれば仕事に際限などまったくなく、こんなものでは済まされません。
それでも、いのりょさんのように高等教育を受けた人でも学校で教壇に立っている人がいるのはなぜでしょうか?
それは金銭の多寡では測り知れない、かけがえのないリターンを学校、子どもたちから受け取ることができるからなのです。(現実は半ばあきらめ気味だったり、学校、子どもをダシに使っている人たちもいるにはおりますが・・・)
そして部活のこともそうです。いのりょさんが言うように、「部活やりたくない!」「教師の善意、厚意で成り立っている!」と現場が声を上げ始め、その過重労働が見直されつつあるのも一応評価はできます。
しかし、体育会/運動系の部活動に顧問として十年以上携わってきたものに言わせると部活動でしか得られないモノ、充実感は教師サイドにもあるのです。確かに土日、長期休暇のほとんどはもっていかれるし心身もヘトヘトになります。
座学では決して見せない表情を部活ではイキイキと見せてくれたり、顧問と部員が一体となって何かにチャレンジし続ける・・・こういったことが私は好きでした。つらくも苦しい時ももちろんありましたが。一緒に何かを共有し、そして共感し合う・・・それは「体感」ということばがあるように、リクツじゃなくカラダで感じるものもあると思うのです。これは何も顧問という立場じゃなくとも部活動経験者にならきっと分かってもらえることでしょう。
中には部活動をやるために教員になった~という猛者もいるくらいですから、部活動には教師を惹きつけてやまない「何か」があるのではないでしょうか?しかし、そうは言っても現場はますます問題を抱え込み肥大化していくとともに完全に疲弊し切っています。
本来の教育活動に支障を来(きた)している過重な部活動業務は、学校自身でわがの首を絞めている状況であるともいえます。ではいったいどうしていけばいいのでしょうか?要はやりたいものにやらせ、高度かつ専門的にセクショナリズム化させていけばいいのです。
※「ブラック部活の問題点と存在意義~部活動これからのあり方の提案~教師の本分を今こそ取り戻す!」
教育実習で部活動とここまで深く立ち入ることはあまりないかもしれませんが、将来のことを考えて自分はどのように部活動と関わっていくかについて思いを巡らすのも無駄なことではありません。それよりも当然、前の話になりますが、部活動があるから~というそれだけの理由で教師への道をあきらめてしまっても本当に後悔はしませんか?
なんでもそうですが、はじめは別に好きでもなんでもなかったのに付き合っていくうちにだんだん本気になってしまう~ということがあるじゃないですか?これまた前に「全く経験も知識も、ついでに興味もない部活動顧問に!さあどうする?すべてはあなた次第!」などで私がまったくはじめての競技にどう向き合い、チャレンジしていったかを話しました。
「はじめて!やったことない!」
→やだな、やりたくない、できない~ としてしまうか
→おもしろそうだ! やってみようか! やってみたい!~ととらえることができるか~
この差はあまりにも大きいです。教師にはチャレンジングかつアグレッシブ、そしてポジティブな人間が望まれ、そして向いている気がするのですがどうでしょうか?
そしてこのテーマの最後になりますが、
街に出たら生徒に会う可能性がある(プライベートの喪失)
こんなのどうだっていいじゃないですか?(失礼)別に悪いことしている訳でもないのに、こそこそすることのほうがかえって不自然ですよ。
教師などミニ芸能人みたいなものですよ。ご当地アイドルじゃないですが、プライバシーなどあってないようなものです。もっとも、土日休みなし朝から晩まで学校に根っこを生やして学校が家のような生活をしていては、プライバシーを晒したくても無理がありますよね。たまに深夜のコンビニで子どもたちに出くわすのが関の山です。
それでもたま~の休みにどこか出かけたりすると、ハデハデのスポーツカーに当時乗っていたせいもあってスグに出没情報が生徒の間で広まってたりもします。私はそんなこともネタにしてワイワイやってましたが、そんなに大事なことなのでしょうか?噂されるうちが華だと思うのですが、若い人はやっぱりプライベートを大事にしたいのですね。
そして最後に「やりがい搾取」という最新トレンドワードに思わずググッときちゃいました。実に鋭いです。そうなのです。現在の教育界、現場はこれら自己陶酔教員(がんばっているボク、なんか素敵!いいかもしれない!!)によって支えられているともいえるでしょう。
「搾取」ということは本来得られるべきものをそのままあげるのではなく、そこから資本家などが猫糞(ねこばば)よろしくかすめ取って利益を独り占めすることを言うのだと思いますが、教員の善意のもとに教員の雇い主は胡坐(あぐら)をかいている~といのりょさんは言いたいのでしょう。
学校が大好きで天職!!と思っている教師は「搾取されている~」などとはおよそ考えません。搾取されている~そう思うのであって搾取されるのがイヤなのであれば、学校にも民間にも仕えず、自分が搾取する側の人間、資本家になればいいだけの話です。
そもそも教育に携わろうとしている者が「割に合う」とか合わない~なんて理論を振りかざす自体でアウトです。「どうぞ、勝手に退場なさってください」って感じですね。今では単なる労働者・リーマン教員になってしまった人たちであっても、教職を志した時分にはきっと、見返りなんてハナから求めていなかったはずです。もっとピュアなハートだったはずと信じたいです。
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子どもが好きじゃなかったことに気が付いた~
についての反論
反論 ◎(大いに反論する)しかし、本人の判断は尊重
いのりょさんはこう言っています。
~しかし、教育実習に行って分かったのは「私はひたむきに努力する人が好き」という事で、決して高校生に勉強を教えることだけが好きなわけではなかったことに気が付きました。
高校の授業は、やり過ごして適当に点数取ってればいいやと考えている生徒が多いです。(私も高校時代そうだったので、彼らを責める気にはなりません)私が望む関係は、こちらの本気を向こうが本気で答えてくれる関係でした。受験生の指導はそれが当たり前なのですが、学校はそうもいきません。~
これについては実習期間、精一杯がんばったうえでどう思われようとそれは個人の自由ですが、いのりょさんは授業がどうやらやっぱり好きなようです。これは教師に要求される一番重要なファクターをクリアーしていることになりスゴいことなのですが、実にもったいないです。
たしかに適当に授業は流したい~そういう考えでいる生徒もおります。それは動かしがたい事実です。でも、
「そうか?つまらないのか。じゃ、自分の授業でどうしたら、ヤツらを振り向かせられるかな?」
~とどうして考えられないのでしょうか?
逆になかなか自分の思うようにいかないからこそ、面白みもありやりがいもあると私は思うのですが・・・
そもそもほんの短い実習期間で、こちらのマジ度など彼らに伝わるものなのでしょうか?
そんな楽器のように打てば響くような子どもたちばかりではないのです。こちらの努力にたいして、スグ結果、果実を要求するようなせっかちな人は正直あまり向きではないかもしれません。
教師の本気度というものは、振られてもフラれても見向きもされずとも決して折れない教師魂を時間をかけて彼らに魅せることで、やっと彼らにも分かるものなのだと私は思います。それはそれは途轍もない根気と忍耐、そして時間と努力がいります。
これも何度も何度も言っていることではありますが、大人の本気を見抜き聞き分け嗅ぎ分ける、彼らの視聴覚そして嗅覚は実に鋭いです。こちらがマジでぶつかり続け、決してあきらめることをしなければ確実にそれに応えてくれます。ビジネスの世界ではこちらがいくらマジになっても、それが顧客、ニーズの核心にヒットしなければ見向きもされませんから実に冷めている世界です。
その意味で学校というところは実に人間味にあふれた職場であると言えます。人間と人間が本音でぶつかり合えるのも実に魅力です。
このテーマの結論になりますが、ほんのわずかな実習期間では子どもが好きであるかということなど分かり切れないと私は思います。やっていくうちに好きになることだってありますし、人間は変化するいきものなのですから。ただし、自己の直感、判断に自信がある人はそれはそれで重要視すべきかもしれません。
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尊大な人間になりそうだから~についての共感
共感 ◎(共感&スゴい!)
いのりょさんはこう話しています。
~「先生」と呼ばれる人は、尊大な人間が多いですね。
尊大な「先生方」は,生まれたときから尊大であったわけではないと思います。立場が強くなり、自分のわがままが平然と通ることが分かって次第に尊大になっていったのだと思います。
私は、自分が尊大な人間になる気がしました。というか、私は先生なんて呼ばれたら絶対に手を抜くようになるでしょう。尊大な自分にならないタイプの人は、良いのでしょうが私のような自信過剰なタイプは教師に向いていないと思い、民間企業に就職しました。~
私もこれまで「先生」と呼ばれる(中には自分で我がのことを「先生」と尊称を使って呼ぶ人もいましたが)ほんとうに多くの人たちと付き合ってきましたが、確かに自尊心が強い尊大な人が多かったですね。
教師の仕事は実際裏方の部分も実に多いです。児童生徒の影となり日向となり付き添っていかなければなりません。自分が先頭に立ちグイグイと子どもたちを引っ張っていくような仕事ばかりではないのです。
そこのところですが、自分が偉くなったようにどうも勘違いしている人が多いのも事実です。自分が常に注目され主役でないとおさまらないのですから困ったものです。
こういったことをわずかな実習の間に感じ、そして自己の将来に照らし合わせて「向いてない」と判断したのですから素直に感心します。自分を客観的に見ることができる人などなかなかいません。私はこれまでも教師は自分を省みることが大切だ~と言ってきましたが、まさしくこの点ではいのりょさんは教師向きと言えるでしょう。
みなさんは、将来自分がどのような教師になっていくと思いますか?教師として成長していく過程で、この我が身を振り返る、身の程を弁える~ということはとても大事なことになってくるのです。この「内省」という営みをこれまで当たり前にしてきた人なら、本当に教師向きと言えるのではないでしょうか?
内なる自分と向き合い、これまでの自分の思い、生き方を省みる・・・この営みは自己の成長を切に願っている者しか行いません。まさに「未来」「これから」・・・に対する期待が感じられますね。自分に対して常に成長を課するものだけが、教師であり続けられるのです。
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教育実習での「適正/やりがい」自己判断
そもそも「適正」のあるなし~って誰が決めるものなのですか? 自分ですか他人ですか?
「自分で実習でたくさん失敗しちゃった・・・ダメだ・・・自分は向いてないかも・・・」とあなたが思っている裏で、子どもたちが
「先生の授業楽しかったな・・・あんなに一生懸命になれるってスゴい!!」なんて思ってたりします、実際。このようなことはよくあることです。
結論から言ってしまうと「教育実習で適正、やりがいは分かるとも言えるし分からないとも言える。」これです。要は短い実習期間ではモノゴトの一部しか見えてはこない~ということなのです。
このことを踏まえた上で、自分がますますヤル気になったのであれば突き進めばいいわけですし、たとえ落ち込んだとしても決してめげるようなことではないということなのです。
土台、初任で教壇に立った時から「教師になる」ってこと自体がありえないことなのです。(立場、身分上はもちろんそうなのですが)みな教師になっていくのです。教壇に立っている間は、ずっと成長過程ではありますが。
その意味で、教師にいきなり「なる」のではなく、みな落ち込み嘆きながらも歯を食いしばって「それなりに」「なっていくもの」なのです。
そもそも自己の適性なんて分からないものでしょう。
「向いてない」と思うなら、「向いている」ようになるよう努力していけばいいだけの話です。
明かな教師としての基礎体力(物理的な体力のことではありません、念のため)不足の人は別として、学校にもまたいろいろな人間がいていいはずです。教職員も子どもたちも。
教育実習の目的の一つに「教職への適性」を知る~とあるとは思いますが、このわずかな期間のみを切り取って大切な決断を下してしまうのは私はせっかち&危険だと思います。
いのりょさんも母校ではなく、違う学校、異なった時期に実習を行っていればまた別の人間との出会いがあり、また別の感じ方をしたはずです。
いのりょさんは教師になるのを「辞めた」と言っていましたが、そこには半分は「あきらめた」という思いも入っていたのではないでしょうか?穿った言い方をすれば、あなたの教職にかける思いはそれまでだったのですね~となり「諦めた」「辞めた」でもなく、私からすれば「なれなかった」(運命的にも)~になるわけです。
私の場合、現場のスゴさ、大変さを目の当たりにしてますますやる気に火が付き、自分の現在の立ち位置では相当の努力鍛錬が必要なことにも気付かされました。私のように困難を前にしてチャレンジしていこう!~と気張る人間と、やってられない!~と早々に退散する人のどちらもいてもいいと思います。考え方は自由ですから。
ただそこには「思いの強さ」の温度差というものが存在し、その差が本人の行動を決定づけるのではないでしょうか?
そんなことをちょっと頭の片隅に入れておいて、みなさんの教職にかける思いについて実習中考えてみるのもいいかもしれません。
この「向き不向き」については、前に「教育実習、心の準備と注意点~(絶対にやってはいけないこと)~最高の実習にするための7つの視点~」で詳しく話しましたが、正直そのようなことはあまり考えないほうがいいかもしれません。
なぜなら、どのような人であってもやる気さえあって、自分と真摯に向き合いながら成長し続けていける人であれば教師になれるのですから・・・
そして、「やりがい」などというものは長い時間と不断の努力を積み重ねてこそ見えてくるものなのではないでしょうか?
教育実習ですべてを見切る、分かろうなどとは思わないほうが賢明です。ちょっとだけ肩の力抜いて、何ら臆することなくあなたらしさを大切に頑張ってください。
あなたを待っている子どもたちがいます。