教育・教師 教育時事・問題

「体育大っ嫌い!」体育授業&体育教師が子どもの体育・スポーツ嫌いを量産する?!デキる!楽しい!授業の提案




みなさん自分の経験をたどってみて「体育の授業」「体育教師」というワードを色にたとえるなら、何色になるだろうか?私の場合、ラムネ色でもさくら色でもなく、どうもスッキリしない、好きとも嫌いとも言えない中途半端な「鉛(なまり)色」としてみた。ちょうど晴れでも雨でもなく中途半端な曇天のようなニュアンスという意味で・・・

教科体育は小さいころから、それなりに普通にできてはいた。レベル的には上の下といった感じであったと思う。ただ、どうも団体競技、球技の授業だけはあの雰囲気には最後までか完全にはなじめないでとうとう終わってしまった。バレーにバスケ、サッカーにしてもクラスメイトに迷惑をかけることなどあまりなく、普通にそれなりにカタチにはなるのだが、あの「圧」が本当に苦手だった。

部活動でまさに現役バリバリのバスケマンたちがゲームを仕切りまくり、ミス連発、もしくは何もできないクラスメイトを無能呼ばわりするのはまだいいほうで、時には罵倒する。そんなゲームの最悪の雰囲気を、たまに最初から最後まで顔を出したかと思った体育教員が感じ取っても何も言わずむしろ、仕切っているバスケマンを持ち上げ鼓舞する・・・私が受け持ってもらった体育教員はこのような人種が非常に多かった。

それが後を引いているのか、今でも私が親しんでいるスポーツ、運動は完全な個人プレーに徹することのできる、ランニング、テニス、登山、自転車などに限られている。体育の時間にさらし者にされたりみじめな思いなどをしたことはかったけれど、体育の授業を通じて、運動、スポーツすることの楽しさ、厳しさ、攻略、挑戦することの難しさ、面白さなどを学んだことはまったくと言っていいほどなかったように思う。

今回このテーマで話そうと思ったのは、一通の相談メールがきっかけであった。体育の授業と体育教員が大嫌いなあまり、体育の授業がある日だけ学校に通えなくなってしまい、最終的には完全不登校に陥ったという女子中学生の娘を持つ母親からの相談内容は目を覆いたくなるようなあまりにも酷く残酷なものであった。

体育がうまくできないということだけで、子どもの人としての尊厳を踏みにじり、不登校状態にまで追い込んだというのに教科担任は登校を強硬に促し、担任までもがこの体育教員のいいなりというありさま・・・

この事例のように教科「体育」は体育の苦手、嫌いな子どもにとって人格形成、成長過程において、生涯にわたる大きな傷、トラウマを残すだけでなく、とんでもない矛盾をはらんでいる。教科体育の大目的が「生涯にわたってスポーツに親しみ、続けていく素地をつくる」ことであるのに、逆にスポーツ、運動大嫌いの人間を量産し続けている現実を、教科「体育」に直接的にかかわっている小学校教員、中高の体育教員はどのように、今、とらえている(いや、むしろこの事実にさえ気づいていないかもしれない)のであろうか?

今回、このテーマで考察を試みるにあたり、体育教師&授業ギライでありながら高校教師になった私の思いと、体育大好きで体育教員になった私の妹、そして複数の元同僚(現役体育教師)の率直な意見を対比させてみようと思う。このほうが物事を論ずるにはフェアなようが気がするからである。

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教科「体育」「体育教師」の特殊性

現役の体育教師(元同僚)によると、今では私立をはじめさまざまな学校で体育の種目、競技、球技を選択性にする試みが始まっているという。クラスで割るのではなく、時には学年、クラスを越えての大集団で振り分けるのだそう。そして球技の場合、個人のレベルが同じものを集めチームをつくり、さらに同じレベルのチーム同士でゲームをやるという凝りよう・・・

しかし、私たちが受けた体育の授業などはこのようなお客様待遇からは程遠いもので、現在でも多くの学校でも「普通の」体育の授業が日々行われていることだろう。

実は私が体育、体育教員が嫌いになったのは小学校の時からなのである。小学校5年の時だったと記憶している。当時、好きだった女の子がいたのだが、この子が体育の授業の度にさらし者というか、担任からの授業中の指導という名を借りた「いじめ」を受けていたのだ。

「トロイ」「ダサイ」は常套句、失敗したりうまくできなかったりすると「情けない」「恥ずかしい」「こんなのもできないんだ」・・・

「ここまでいじめ倒すのは、彼女とこの教員との間に何かあったんだろう・・・」と子どもなりにいぶかるも、当時はピュアすぎた私はこの担任に対して抗議の声すら上げることできなかった。そんな弱い自分がイヤで情けなかった。いまだったら、たいへんな問題になっている教員である。

ここまで異常、あからさまに子どもに傷を負わせるのではなく、「問題にならないレベルでの人権蹂躙」できょうもまたたくさんの子どもが傷ついていることだろう。「教育者」の「指導」のもとの無理解、無神経、残酷満載の「授業」は体育のできない、大嫌いな子どもにとっては苦行を通り越して恐怖でしかないはずだ。

それでは、なぜ、このようなカタチの授業を日々繰り返し、子どもたちに恐怖を植えつけているのだろうか?この大問題に行き着く前に、どうやら教科「体育」と「体育教師」そのものの特殊性に目を向けてみる必要がありそうだと私は感じた。

以下は私がこれまで受けてきた体育の授業、教師になってから授業見学させてもらった経験、そして今回体育教師にインタビューした内容をもとに私が導き出した思いである。あくまでも狭い経験、少ない母集団からの考察ではあるが、あながち現況を大きく逸脱したものではないと思っている。




教科「体育」「体育教師」の特殊性(座学を除く、体育実技に今回限定した)

➀ そもそもそれぞれの競技、実技の方法、理論などを子どもに提示、教えていない

ただ「やってみろ」もしくは放置、そして「できるまでやってみろ」と来る。自ら、もしくは「模範的」であるとされる他の児童生徒に「やってみせる」のはまだいいほう。たとえば、50m走などでは、速く走るための科学的理論的なアプローチを何ら示さず、ただ「タイム計測」と「順位づけ」に終始・・・などがいい例であろう。

また、私がこれまで受けてきた体育の授業、そして教師になってから見聞きした限りでは、「できない」子どもを後から残して「できるようになるよう」自らが指導したという例はゼロ。これが他の教科であれば、普通に行われていることなのに、「教科体育」ではなぜ、今も行われていないのであろうか?

② 「できる」「できない」がビジブルに可視化されてしまう悲しさ

うまい下手、速い遅い、カッコイイ格好悪い・・・が単に「はずかしい」といった個人の枠をこえ、集団の中で如実に評価されてしまい、特に団体競技などでは他に迷惑をかけることに。教科「音楽」なども体育に似通っているかもしれないが、座学の他の教科ではあまり見られない体育ならではの悲しさ。(しかし、逆に「できる」子にとっては血沸き肉躍る、至福のひと時が教科体育)

③ 「競い合うこと」「できるできない」重視の授業

そもそもスポーツというものは、本質的に競争原理を内包しているから、体育教員サイドとしても「競い合うこと」に重きを置く人が多いのも致し方ないことなのかもしれない。しかし、そこに「教育的配慮」や教育者としてのあたたかな眼差しは絶対必要である。子どもをさらし者にしたり、平気の平左で子どものこころ、人権を蹂躙する行為は決して許されるものではない。他の教科ではあまり見られない、教師の無神経さが際立つのも教科体育の特徴。

④ 体育教員の位置づけは、指導困難校では最上位

進学校などでは主要教科の教師の重要度が高いのに比して、「指導困難校」で最も頼りにされ重宝がられるのは場を仕切り、生徒をチカラで一時でも抑え込むことのデキるいわゆる「体育会系」の教員。中高の学校長までに上り詰める人に、実は教科「体育」の先生、体育会系の人間が多いというのは現場の人間ならみな知っていること。運動部の顧問として成果を出し続け、中体連高体連の各競技要職を経て、たたき上げで校長になったという人を多く見てきた。こういった人が校長になると、体育会系の教員、部活をシャカリキにがんばりすぎる人を偏愛するようになり、まさしく体育会系の学校になっていくのである。

⑤ できない、嫌いな子どもの気持ちはわからない

そもそも運動、スポーツが当たり前にできて大好きだった者が体育教員になるのだから、できない、嫌いな子どもの気持ちがわかるはずもなく、寄り添いアシストしていこうという気持ちはなかなか起きないであろう・・・

チーム分けで押し付け合いの憂き目にあい、バレーではミスの度にチームからも教員からも責められ、バスケではまるでいないかのようにパスも一度も回してはくれない・・・・バレーではボールにまったく反応できずに立ち尽くしていると「何で取らないんだ!」の罵声を浴びせ続けられる。「動きたくても体が動いてくれないんだ」この気持ちが最初から当たり前にできるやつには分からないんだろうな・・・と体育大っ嫌いな子どもは思うはず。

⑥ 特に「体育実技」授業を軽んじる傾向あり

※ (もちろんすべての体育教員がこうだとは言ってはいない。日々身を粉にして授業準備に明け暮れている先生もたくさんいることだろう。あくまでも私の経験、見聞きした範囲、そして今回、元体育教師、現役体育教師にインタビューした結果から見えてきた実像を述べているにすぎない)

しかし、往々にして「やらせておけばいい」「その場しのぎ」~と安易な方向に流れてはいないか?

われわれ教員は年間指導計画のもと、月、週単位、そして日々の授業ごとに綿密な授業計画、指導案を立て、計画的かつ戦略的に授業を展開している。同じ指導内容&範囲だからといって、それが他のクラスでは通用しないことは分かっているから、クラスの特性に応じた授業展開を当然試みる。(特に私の校種である高校商業では各種検定に生徒を合格させるという絶対的命題、価値、指標、使命が存在するのでこのことに関しては本当にシビアにとらえている。また各個人教授の効果が「合格」「不合格」という明確な結果として現れるものであり、1コマの授業たりともおろそかにできず、ましてや軽んじることなどできない)

それが「教科体育」ではどうだ。実際、「出たとこ勝負」で日々、授業を行ってはいないか。いや教員が実際「出たとこ勝負」でも授業に張り付いてればまだいい。しかし、私が受けた体育授業、そして教壇に立つようになってクラスの子どもや教科担任の生徒に聞いた限りでは、教員が最初と最後の指示のみ顔を出し、あとは体育教官室なる完全離れ小島に引きこもりっきりとなるパターンが実に多かった。当然体育実技の授業はゲーム中心の球技となる。

実際今回、現役の体育教師数人にに授業の準備、計画をどのように行っているのか聞いたところ、体育実技授業に関しては「ほとんどしていない」「思いつき」「やったことない」が多数を占めた。学校文化ならぬ体育会系文化なる慣習があるらしく、皆そのように~と脈々と伝統文化は受け継がれていくものらしい。

こういったうしろめたさ、引け目からか、私が初任時に「授業見学、参観」をお願いして断られたのは、そのほとんどが「体育実技」「保健体育」の授業であった。私の場合、初任時のみならず「授業参観」はさまざまなチャンスに依頼していた。特に担任を持っていると、子どもたちが自分以外の授業でどのような表情を見せるのか、どのような授業を受けているのか気になって、機会あるごとに参観をお願いしていた。これも御多分に漏れず、体育教員からは敬遠された。「なにもしてないですから」これが彼らの常套句だったが、本当に何もしてないのだったら空恐ろしいことである。

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体育教師の言い分

質問事項(サンプル数5)

➀ そもそもなぜ「体育教師」を志したのか?

☆ 体育、スポーツの楽しさを教えたい
☆ 自分の競技人生でつかんだものを子どもたちに伝えたい
☆ 自分の専門の競技を部活動で極めたい(自身も競技者として陸連に登録)
☆ 体育大学を出てなれるのは「学校教員」が手っ取り早かった
☆ 野球の監督やって、お金までもらえる仕事なんて教員以外ではないでしょ

② 体育のできない生徒、大嫌いな子どもへはどう対処、配慮しているか?

☆ そもそも限られた時間の中で、これだけ多くの生徒を相手にしていれば、そのような余裕はまったくない。やってみればすぐわかる。
☆ なるべく全体の前で恥をかかせないように自分の言動には気を付けているが、それも限界がある。そうしても、個人団体競技問わず、やっぱり優劣は見えてしまい、誰も傷つかない授業なんて所詮無理。
☆ 前に、できない子どもを残して個人的にトレーニングさせたこともあったが、すぐ限界に達した。当然、体育教員はみなそれぞれに運動部の顧問でもあり、自分の部活が優先であろう。
☆ 特に配慮はしていない。できるできない、好き嫌いが出てくるのは当然の事であり、何も体育に限ったことではなかろう。
☆ あからさまにさらし者にすることなどはあり得ないが、優劣、序列ができてしまうのは仕方ないこと。特に悪いこととも思わない。恥をかくことも当然あろうが、そこから何かをつかみ取ってほしいと思っている。

③ 体育の授業で運動能力の劣っている子、嫌いな子ども向けに、これまで行ってきた取り組みはどのようなものがあるか?

☆ 球技のチーム分けの際、なるべく競技力が均等になるようにし、また苦手な子どもが孤立しないよう配慮している。
☆ 特にない。何も体育に限らず、他の教科でもそうだが、社会に出たら苦手な事イヤなことなんて腐るほどある。そのたびにまわりがいつでもフォローしてくれるか?自分は甘やかすようなことはしない。厳しさ、つらさ、困難からどう這い上がり、何かを学び取るということも大事なのではないか?
☆ 序列、優劣をつけるだけの体育では子どもたちもなごめないので、たまには学校敷地内ウォーキングとか、玉入れ競争とかみながワイワイ楽しめるような要素を取り入れている
☆ バレーバスケ苦手な生徒のことも考えて、ビーチボールを使い、アタック、ジャンプ禁止のゆるいゲームを取り入れたことがあった。
☆ なんでもかんでも序列をつけるのが悪いことだとはまったく思わない。他との違いを知ったり、自分の立ち位置を理解するといったこともまた重要。

これらの問いかけから浮かび上がってきたのは、やはり「できないものの気持ちは、できるやつには分からない」という至極当たり前の既成事実。それぞれの先生がそれなりに気遣いながら授業を展開している様子も散見されたが、彼らからすると、そういう気持ちはあっても実際に授業で行っていくということは難しい~と口を揃える。

この他にも「できない子どもの気持ちを想像したことがあるか?」などいくつか質問事項はあったのだが、やはり似たような回答であったので正直がっかりした。

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子どもの言い分

今回、データを集めるにあたって、私の過去の教え子、そしてユメザスでご縁のあった相談者さんに依頼をした。(サンプルデータを集めるにあたって、特に相談者さんからのインタビューはけっこう難儀した。というのも、そもそも誰もがみな、「体育嫌い」な訳なんかではなく、むしろ体育の授業が大好きだった、いい想い出、輝かしい過去であった~人も当然いる訳であり、数が結構絞られてくるうえ、体育に嫌悪感をいだいている人間はあまり多くを語りたがらなかったからである。それだけしてきた経験がつらいものであり辛酸をさんざんなめてきたということなのであろう)

質問事項(サンプル数7)

➀ あなたなぜ、「体育」もしくは「体育教師」が嫌いなのか?

☆ 体育教員のあの独特の「圧」、常に上から目線の命令口調、何が何でも「やればできる」で押し通す融通の無さ・・・こんな教員ばっかりで体育の授業はいつも地獄だった。

☆ これは「軍隊」の訓練か?と思えるような同調圧力と、普通にできないものへの無神経さがほんとうにイヤだった。生徒を平気で見世物、さらし者にできるあの傲慢さはいったいどこから来るのか?

☆ バレーボールで強烈なサーブが自分のところに来て何もできずにいたら教員から罵声を浴びせられたうえ、後から呼び出しを喰らい長時間に渡り説教され、さらに反省文まで書かせられた。本当に体育の授業が大嫌いだった。この先生は、いつも普通にできないものには異常というほどからんでネチネチだった。バスケの時なんか、もっとひどかった。おおがらなバスケマンのドリブルに無謀にも私がカットを挑もうとし、弾き飛ばされしばらく立ち上がれなかったのを見て、大声を上げて笑っていた。一生あの声、笑い顔、そして屈辱は忘れられない。

☆ 体育の授業だけでなく、「運動会」「スポーツ大会」「マラソン大会」、そしてクラス担任がしょっちゅうやるホームルーム時間の球技もまた大っ嫌いだった。体育の時間は男女に分かれてやるので、恥をかかせられたり見世物になるのも男子間だけで済んだのに、大会やホームルームとなるとクラス女子にもスポーツ音痴が知れ渡ることになりつらい時間だった。

☆ 運動、体育自体は別に好きでも嫌いでもなかったのだが、体育教員がやる体育の時間は苦手だった。高校3年間の内、最終の2年間「体育教科員」を仕方なくやtることになったのだが、体育教官室に入るときの作法、言葉遣いの一字一句までがチェックされ、少しでも間違えたり戸惑ったりすると、すべて一からやり直された。なぜ、最低限の礼儀とマナーさえ守ってさえいればOKとできないのか理解に苦しむ。常に殿様扱いされたいらしく、マイルールで生徒をとにかく縛り付ける教員が多かったこともあり、体育会系の教員はとにかく苦手だった。

☆ 体育実技ではなく、保健体育の授業もまた嫌いだった。体育実技と同じ教員が受け持っていたのだが、退屈この上ない授業のくせして、居眠りなどした日にはたいへん。放課後に教官室そうじ、さらに高低50周などよくやらされたりもした。他の教科の先生と違って体育の授業は手を抜きすぎ。生徒から見ても適当にやってるのがバレバレ。

☆ 特に球技の時がひどかった。最初に指示だけ出して、後は授業の最後に出てくるだけ。一度、友だちがけがをしたときに呼びに行ったことがあった。教官室のソファーで寝ていたのを見て、こんな楽な仕事ってあるんだろうか?と思った。こんなことが許されるのは体育だけのような気がする。




② 体育教師に言いたいこと、望むことは?

☆ 自分が普通にできることは、誰でも普通にできると思わないでもらいたい。できない生徒の気持ちに置き換えて一度でもいいから考えてもらいたい。すべての体育の時間とまでは言わないが、少しでもいいから運動が苦手な子どもも楽しめるような授業をやってもらいたい。

☆ いままでさんざん苦しめられたこと、見せしめにされたこと、一つひとつを彼の前で言ってやりたい。そして、どのような反応をするのか見て見たい。でも、いまさら言っても過去はどうにもならないし、顔も見たくないからどうでもいい。自分にとっては思い出したくもないとにかく忘れたいこと。

☆ どうかこれ以上、今の生徒たちのことも傷つけるのはやめてください。体育の先生で人の気持ちがわかる先生も確かにいたけどほんのわずか。人をおもいやるやさしい気持ちを養ってください。

☆ なぜ、できるできない、強い弱い、速い遅いなどだけで人を測るのだろう。果たして、体育の評価とはそれだけなのだろうか?できないなりにがんばったという努力をなぜ見てくれないのか?がんばってもダメな奴はダメな奴~という姿勢は改めてほしいと思う。

☆ バスケなどで、バリの部活生がゲームを仕切ってまったくの戦力にならない生徒をまったくいないようにぞんざいに扱ったり、あからさまないじり、いじめなどをしているのに、教員は注意、指導もせず、彼らをほめたたえるような言葉を連発。体育の授業とは運動能力の高い生徒だけのものなのですか?教えるものとして、全体を見るのが先生なのでは?こういった人たちは先生には向いてないし、なってはいけないと思う。

☆ いつもいつも同じ実技、球技の繰り返し、見ているだけの授業スタイル、やる気のない様子がこちらにも伝わってきてましたよ。先生は授業準備に時間と努力を費やしている人そうでない人に分かれすぎ。子どもを見くびるのもいい加減にしなさい。

☆ 何を言ってもムダ。大人になってからの性格など変わるわけない。先生になる前の試験でぜひ、人の心のいたみがわかる人をとってほしい。

ここで、浮かび上がってきたのはつらすぎる過去の体験と半ば諦めムードである。体育教師には何も期待していない、改めようがない・・・という厭世観がほぼどのインタビュイーからも漂っていた。それほど、彼らにとっては体育の授業はつらすぎるものだったのであり、体育教員は嫌悪の対象であるようだ。多くの元生徒が口にしていた「できない者の苦しみはできるやつにはわからない」~このフレーズをいまも体育教師というポジションにある人には、もう一度あらためてかみしめてほしい。完全にその気持ちになれるわけはないが、せめて思いをはせ、子どもたちに寄り添っていくことは今からでもできると思うから。

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私から見た体育教師像

先に話したように、私が生徒の立場で接した体育教員のイメージはさんざんなものであったが、教壇に立つようになり、「同僚」「先輩後輩教員」として彼らと職を同じくするようになるとこれまた、私のイメージが少しづつ変わってきた。

十数年の短い間にさまざまな体育に関する人たちと交わるようになり、彼らを「体育会系」のワンフレーズでひとくくりにすることは決して褒められたことではないことを知った。彼らもまた普通の人であり、われわれ一般教員と同じように様々な悩みを抱え、子どもたちのため学校のため身を粉にしている人も少なからず存在するという事実に気付いたから。

私が出会った「体育の先生」を少しだけ紹介したいと思う。

★ 自分の部活動が何より大事で、とにかく部活動がやりたいがために教員になったという、ある意味ほんとうにピュアな乙女チックな先生。(ちなみに体育授業はともかくとして、部活動の生徒、保護者からは熱血教師としてすこぶる評価が高かった)あまりにも部活愛がスゴすぎて、家庭をまったく顧みず、奥さんに新婚早々逃げられてしまってからというものの、いっそう部活愛がマシマシになった笑うに笑えないモーレツ先生。

★ 「薙刀」というある意味マイナーな競技が専門の先生なんかの場合、自分の部活の部員獲得のため、なりふり構わずありとあらゆる場でのアピールが涙ぐましかった。自分の愛する競技の魅力を知ってほしいとの一念で、文化祭など機会あるごとに「演武?」などを行っていて、その競技愛からくる岩をも突き通す強固な意志は正直すばらしいと思った。

★ 主免が小学校で副免が体育という先生(おそらく国公立大学の教育学部出身なのであろう)は、あまり運動が得意ではなく、しかしカラダを動かすことは大好き、そしてスポーツを見ることのほうが大好きという一風変わった体育教師であった。この先生が「授業参観」を申し出て許可してくれた数少ない体育教師の一人。実際に授業を参観させてもらってびっくり仰天の連続にはまいった。各種競技、球技ではそれぞれにハンディを与えて行ったり、いまでいう「ニュースポーツ」とでもいうのだろうか、「うまい下手」関係なくだれでも「ゆるく楽しめる」新しいゲームを自ら考え出しつくってしまい、実験台さながらであるのに参加生徒あまねなく楽しんでいる様子を見たときは考えさせられてしまった。極めつけは水泳の授業。ただ泳がせてタイム計測などといったありきたりの授業に終始するわけがないところがこの先生の真骨頂。上半身下半身いずれも水着の上から衣服を着用し、それで浮いたり泳ぐことがいかに困難かのチャレンジ授業、プールに簡易ネットをこしらえて、水上ビーチバレーや水上ポートボール、果てはプールの縁を縦に連なった生徒集団がすごい勢いで進行し渦(うず)巻きをつくったかと思いきや、御自らその渦に身を投じ溺れかけて見せたり・・・・と普通の体育の授業からはおよそ考えられないような授業ばかりであった。



私が奉職した十数年の間、部活顧問を外れたことは一度もなく、そのすべてが運動部であったため、体育教師とは近いところで寝食をともにする機会がほんとうに多かった。彼らと共にする時間が長くなるにつれ、私のこれまで抱いていた体育教員に対する「負のイメージ」が段々と変化していったこともまた事実である。

教員相手に見せる顔と子どもたちに対して見せる態度ではそりゃ違うだろう~と来るかもしれないが、私にはこれらの人たちがそのような人にはどうしても思えなかった。集会を先頭に立って仕切りまくり、生徒指導部でバンバン生徒を泣かす強面の教師だって、人知れず生徒のために身を粉にしたり、自分のクラスの子どもの進退がかかった職会では全身全霊で我が子のように身を挺してかばい、それも叶わなくなった事実を突きつけられてもなお、諦めきれずわんわん泣きながら「もう一度再考をお願いします!」と絶叫しまくったあの姿は今でも忘れられない。

それからというももの、自分がこれまで受けてきた体育の授業という狭い実体験だけをもとに、体育教員をひとくくりに蔑視するようなことは間違いだと気づいた。当たり前のことではあるが、体育教師もまた教師の一人であり、目指すところ、求めるものは何らわれわれと違わないのである。

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体育教師には何が求められるのか?

これまで見てきたように、子どもたちの人格形成において障害、トラウマを残すようなやり方は決して許されるものでない。が、しかし、これらを恐れるあまり過度に及び腰となり、自身本来の矜持が捻じ曲げられていくというのも違うような気がする。

「身体能力」の「差」は決して「差別」にはなり得ないことの「意味」をもう一度、体育教師自身がかみしめる必要があろう。

運動競技、スポーツには2つの側面がある。一つは競技者が目指す「高み」へと、一歩でも近づかんとする「厳しさ、過酷さ」、そしてそういったものを一切求めず、身近なところでスポーツに適度に親しめればよいとする「ファジーさ」である。

このどちらもスポーツの内包する要素であり、優劣などそこにはないからこそ、志ある体育教師は悩むのであろう。部活動ならともかく、どこまで体育授業で追及していいものだろうか・・・と。スポーツを専攻、競技を極めたものなら、自己を追い込んだ「苦」の中から見出した「光」のすばらしさをきっと知っていることだろう。そのことを知ってほしいがために、部活、授業などで過度に子どもたちに期待したり、追い込んでしまうということはよくあること。このバランスが非常&微妙にむずかしいと私は分析する。

が、あくまでも体育授業の対象である子どもたちはさまざまな子どもが当然混じっている。そこでもう一度スタートラインに立ち戻り、教科「体育」とはいったいぜんたい「何」であり、そしていったい「何のため」にあるのかを体育教師自身が吟味反芻することが大切になってくるのではないだろうか?

そこでは次のような視点もまた重要であろう。




➀ 体育教師としての教育技術、知識、経験の底上げ

授業がゲーム放任や身体能力の測定に偏っている現状を踏まえ、子どもたちのスキルアップのためにはどのような指導が効果的であるかという科学的アプローチが不可欠。今よりも上手になる方法を可視化して子供に提示することが大切。当然、競技、種目に対しての本質的理解が必要になってくる。

② 生涯にわたってスポーツ、運動に親しんでいくための土台づくりの役割

健康な心身は一生の財産。身体を動かすことの楽しさを知り、続けていけるきっかけを提供するのもまた体育の授業の立派な役割。体育、運動は、スポーツが得意、大好きな子どもだけのためにあるのではなく、誰にとっても価値のあるものであるはずなのだから、体育教師は、その大切さ、楽しさをぜひ教えてあげてほしい。

③ 「評価」の側面

授業から「競争」を無くせばいい~などといった安直単純な発想ではなく、「自分なりに成長できた、せいいっぱい頑張れた」「自分の身体をうまくコントロールできた」こういった目に見えない、その子どもの内面を見てあげてきちんと「評価」していくこともまた体育教師の大事なつとめ。たとえ結果につながらなくとも、努力している姿を評価し、ほめてあげてほしいのである。

④ オーソドックスな型からの脱却

これまでの「する」「やる」一辺倒の体育授業の枠組みを壊して、「する」だけでなく、運動、スポーツを「見る」「支える」「協力する」「知る」・・・といった視点からも授業を考えていく必要がある。

⑤ 出会い、発見の場の提供

体育の授業で触れなければ、一生出会わないで終わってしまうかもしれない競技、スポーツというのもあるだろう。そういった意味で、スタンダード、オーソドックス、ありきたりの種目だけではなく、学生時代にさまざまなスポーツ、競技を体験させてあげてほしい。

⑥ 授業の良好な雰囲気づくりへの努力

自己の能力をステップアップしていけるような挑戦ができ、おたがい励まし合えるような雰囲気の授業なんか素敵だろう。また、スポーツに長けた子どもたちが、劣っている連中に対して居心地悪くしているようなのであれば、そういった雰囲気、言動を諌めるのもや体育教師の重要な責務。スポーツマンシップを植え付けてほしい。

⑦ 運動が得意な児童、生徒もまた輝けるシーンもおろそかにしてはいけない

体育が嫌い、得意でない子どもに配慮するあまり、こういった子どもを犠牲にしてまで~というのはいただけない。塩梅、バランスが難しいところではあるが、ここがプロの腕の見せ所。

⑧ 「本気の体育」を在学中に一度でも体験させることの大切さ

一方で、極限まで自己を追い込んでしか得られないものも確実にある・・・ということを子どもたちにはぜひ知ってもらいたい~という現場の体育教師の声もある。一度きりの授業の中でこの思いを体現するのは難しいだろうが、在学中に一度くらい本気で体育の授業に取り組んだ~という体験があってもいいのではないだろうか?

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本来、からだを動かすことは楽しいこと・・・
のはず

学校体育は嫌いだったが、大人になってからランニング、テニス、スキーにサーフィン、登山などさまざまな運動、スポーツに親しんでいる人はたくさんいる。筋トレが日課で趣味という体育嫌いだった社会人だってしこたまいることだろう。現役の生徒だって、多くの子どもたちは「からだを動かすことは好き!」なのである。そう、身体を動かすことは本来、楽しいことのはず。

そのうえ、適度な運動はうつ予防、脳のリフレッシュ、そして記憶の定着のためにもいいことづくめなのは科学的にも実証済み。

一方、球技全体が学生時代、大の苦手でスポーツは敬遠していたけれど、大人になってから水泳、武道、個人競技などは人並みのできることがわかった~とあとあと気付く人も少なからずいる。学校体育でこのような「気づき」のシーンが与えられていなかっただけの話なのだろう。

学校体育ではこのような「気づき」や、身体を動かすことの「たのしさ」を与える場でもあってほしいとつくづく思う。

最後になるが、批判覚悟で私見を述べて終わりにしたい。体育授業でさらし者にされ、子どもたちに一生消えないキズを負わせることはあってはならないことではあるが、こういった思い出したくもないつらくも苦々しい体験から、まわりの人間への気遣いややさしさを学べる「気づき」も時にはあるのではないか?

いやなこと苦手なことから逃げたり目を背けたりせず、堂々と渡り合った経験は、たとえそれが本当につらいものであったとしても胸を張ってもいいと思う。くやしさ、つらさ切なさをこれからの人生の糧にできるような強い子どもだけではないのは重々承知だが、ある意味強くあらねば何かと生きづらい世の中なのである。

体育の授業のこういった負の面も自身の養分としていけたらすばらしいことだと思う。

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